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中編
5 さみしい町(前)
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柏木美琴が目を覚ましたのは、ちょうど「金色夜叉」のお宮の松の足元であった。
高いところから美琴を見下ろしているかのように、はたまた、母性を持って幼い彼女を守っているかのように立つお宮の松。大蛇のようにくねくねと曲がった枝たちは、今すぐにでも動きだしそうな具合だ。
美琴には記憶がなかった。夢と現に目が覚めてしまった時のように、彼女は自分自身がどうしてそこに居るのか全く理解が出来なかった。
「お父さーん! お母さーん!」
彼女の叫び声はこだまにさえならず、寂しさを具現化したような世界に消えていった。心の奥底から、じわじわと不安がこみ上げてくる。
(ここはどこ? どうして誰もいないの?)
心のマヒは、やがて体の感覚さえも奪ってしまう。裸足の自分の足を見ると、爪が割れ、赤い血の塊が見えた。腕や足のところどころにはすり切れた傷があり、ワンピースも汚れてボロボロになっていることに、今気が付いたのだ。
だが、決して痛みはない。身体の危機を感じることより、まずは自分の置かれた状況を理解することが先決。美琴の脳みそは、幼いながらにも、しっかりと前を向かせようと努力しているのだ。
(そうだ。私は夢を見ていたんだ)
夢と現のラインマーカーが、薄々ではあるけれど、見え始めてきた。
彼女は夢を見ていた。白無垢を着た女性の夢を。美琴はまだその衣装の名前や意味など何も知らないのだけれど、綺麗な衣装に身を包み、まるで光り輝くような幸せの光景を見ていたのである。
だが、その女性は目が見えなかった。
隣で彼女をエスコートする男性がいた。ゆっくりと彼女の歩幅に合わせ、また彼女もその男性を信頼し身を任せている。委ねるのは何も身体や精神だけじゃない。二人は運命を共にするはずだった。
美琴の目から一筋の涙が自然と零れ落ちた。土埃にまみれた豊かな頬に、涙の軌跡がはっきりと残る。
その涙の意味は彼女自身にもわからなかった。「どうして泣いているの?」と自分で自分に問いかけてみても、お構いなしに涙は次々と溢れてくる。
――美琴。
記憶のどこか、きっと遙か彼方に遠いところであろう。自分を呼ぶ声が頭の中で聞こえた。それは彼女の父――柏木紳士の声であった。夢を見始めてから、彼女の意識はなかった。闇雲の中で、白無垢を着た女性の幸せを見ていただけ。ときどき変なノイズが混じることもあった。
美琴――それは父の声だった。父を追ってこの熱海までやってきたのだ。電車に乗り、バスに乗り、ただひたすら父の背中を追って。
でも、どうして? 理由までは思い出せない。何が彼女にそこまでの行動力を宿したのか。零れ落ちる夢の記憶を必死に掬い上げようとしても、それは水のようで、手のひらにある隙間を見つけるのが上手かった。
(父さんを探そう。きっとどこかにいる)
美琴は立ち上がると、ようやく自分の体が疲労困憊であることに気が付いた。足を一歩進めるたびに、体の髄まで痺れが走る。「もう少しだけ頑張って」と自分の体に言い聞かせ、海を背中にして、彼女は熱海の大きな坂道を登り始めた。
しばらく歩いているうちに、この世界がどれほどまで異常であるのか、そして、現実世界とは違った世界であることに、美琴は気が付き始めた。メルヘンやファンタジーの世界。そんなお伽話から卒業したての彼女だからこそ、受け入れるまで時間がかからなかった。
ここは異世界だ。
しかし、不思議の国や、ネバーランドなどとは違う。シャッターは開いているのに、誰もいない商店街。自分の足音しか聞こえない静寂――ここは嫌に現実味を帯びている。川沿いの遊歩道を歩いていると、その川には水が流れていないこに気がついた。
建物が規則正しく並ぶ町。ちょうど開けた遊歩道からは、遠くの山が見える。けれど、緑色ではない。霞みや霧が深く立ち込めたようなその山は、その内に神様の使いなんかが居るのではないかしらと、彼女は思った。
神様ではなく、あくまでも神様の「使い」。悪さを働いてお伽話を面白くするのは、いつもその「使い」だと決まっているのだ。
遊歩道は川沿いにあって、延々と山まで登っている。見るだけでも体力が削られるその坂道に気が滅入って路地を一つ入った。
「お父さーん!」
きっとお父さんは居る。でも、どこに? 知らない!
不安の声を無理にでも抑え込む。雄一や真太郎と同じく、もしかしたらこの世界には自分しかいないんじゃないかしら? と美琴は思った。
さみしい町だ。
美琴はこの変化の無い世界を、小学生の社会科見学で見た風景画のようだと思った。大きな橋があって、その向こうには西洋風の建物が並んでいる。緻密に細部までしっかりと描かれた風景画に圧倒された記憶がある。だけれど、写真と見間違うくらいリアルな街には、人が描かれていなかった。美琴はその絵を見て、ひどく寂しい町だなと思ったのである。西洋風な街並みは、地味な色ばかりで、大きな橋があるのに、人いなければ車も走っていない。ただ用意された町。誰の生活も想像できない、プラモデルであった。
確か、あの絵にも海が描かれていたっけ……。
振り返ると、海は見えなかった。
高いところから美琴を見下ろしているかのように、はたまた、母性を持って幼い彼女を守っているかのように立つお宮の松。大蛇のようにくねくねと曲がった枝たちは、今すぐにでも動きだしそうな具合だ。
美琴には記憶がなかった。夢と現に目が覚めてしまった時のように、彼女は自分自身がどうしてそこに居るのか全く理解が出来なかった。
「お父さーん! お母さーん!」
彼女の叫び声はこだまにさえならず、寂しさを具現化したような世界に消えていった。心の奥底から、じわじわと不安がこみ上げてくる。
(ここはどこ? どうして誰もいないの?)
心のマヒは、やがて体の感覚さえも奪ってしまう。裸足の自分の足を見ると、爪が割れ、赤い血の塊が見えた。腕や足のところどころにはすり切れた傷があり、ワンピースも汚れてボロボロになっていることに、今気が付いたのだ。
だが、決して痛みはない。身体の危機を感じることより、まずは自分の置かれた状況を理解することが先決。美琴の脳みそは、幼いながらにも、しっかりと前を向かせようと努力しているのだ。
(そうだ。私は夢を見ていたんだ)
夢と現のラインマーカーが、薄々ではあるけれど、見え始めてきた。
彼女は夢を見ていた。白無垢を着た女性の夢を。美琴はまだその衣装の名前や意味など何も知らないのだけれど、綺麗な衣装に身を包み、まるで光り輝くような幸せの光景を見ていたのである。
だが、その女性は目が見えなかった。
隣で彼女をエスコートする男性がいた。ゆっくりと彼女の歩幅に合わせ、また彼女もその男性を信頼し身を任せている。委ねるのは何も身体や精神だけじゃない。二人は運命を共にするはずだった。
美琴の目から一筋の涙が自然と零れ落ちた。土埃にまみれた豊かな頬に、涙の軌跡がはっきりと残る。
その涙の意味は彼女自身にもわからなかった。「どうして泣いているの?」と自分で自分に問いかけてみても、お構いなしに涙は次々と溢れてくる。
――美琴。
記憶のどこか、きっと遙か彼方に遠いところであろう。自分を呼ぶ声が頭の中で聞こえた。それは彼女の父――柏木紳士の声であった。夢を見始めてから、彼女の意識はなかった。闇雲の中で、白無垢を着た女性の幸せを見ていただけ。ときどき変なノイズが混じることもあった。
美琴――それは父の声だった。父を追ってこの熱海までやってきたのだ。電車に乗り、バスに乗り、ただひたすら父の背中を追って。
でも、どうして? 理由までは思い出せない。何が彼女にそこまでの行動力を宿したのか。零れ落ちる夢の記憶を必死に掬い上げようとしても、それは水のようで、手のひらにある隙間を見つけるのが上手かった。
(父さんを探そう。きっとどこかにいる)
美琴は立ち上がると、ようやく自分の体が疲労困憊であることに気が付いた。足を一歩進めるたびに、体の髄まで痺れが走る。「もう少しだけ頑張って」と自分の体に言い聞かせ、海を背中にして、彼女は熱海の大きな坂道を登り始めた。
しばらく歩いているうちに、この世界がどれほどまで異常であるのか、そして、現実世界とは違った世界であることに、美琴は気が付き始めた。メルヘンやファンタジーの世界。そんなお伽話から卒業したての彼女だからこそ、受け入れるまで時間がかからなかった。
ここは異世界だ。
しかし、不思議の国や、ネバーランドなどとは違う。シャッターは開いているのに、誰もいない商店街。自分の足音しか聞こえない静寂――ここは嫌に現実味を帯びている。川沿いの遊歩道を歩いていると、その川には水が流れていないこに気がついた。
建物が規則正しく並ぶ町。ちょうど開けた遊歩道からは、遠くの山が見える。けれど、緑色ではない。霞みや霧が深く立ち込めたようなその山は、その内に神様の使いなんかが居るのではないかしらと、彼女は思った。
神様ではなく、あくまでも神様の「使い」。悪さを働いてお伽話を面白くするのは、いつもその「使い」だと決まっているのだ。
遊歩道は川沿いにあって、延々と山まで登っている。見るだけでも体力が削られるその坂道に気が滅入って路地を一つ入った。
「お父さーん!」
きっとお父さんは居る。でも、どこに? 知らない!
不安の声を無理にでも抑え込む。雄一や真太郎と同じく、もしかしたらこの世界には自分しかいないんじゃないかしら? と美琴は思った。
さみしい町だ。
美琴はこの変化の無い世界を、小学生の社会科見学で見た風景画のようだと思った。大きな橋があって、その向こうには西洋風の建物が並んでいる。緻密に細部までしっかりと描かれた風景画に圧倒された記憶がある。だけれど、写真と見間違うくらいリアルな街には、人が描かれていなかった。美琴はその絵を見て、ひどく寂しい町だなと思ったのである。西洋風な街並みは、地味な色ばかりで、大きな橋があるのに、人いなければ車も走っていない。ただ用意された町。誰の生活も想像できない、プラモデルであった。
確か、あの絵にも海が描かれていたっけ……。
振り返ると、海は見えなかった。
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