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中編
6 さみしい町(後)
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商店が並ぶ路地を進んでいくと、スナックだとか、カラオケバーだとか大人の娯楽のお店が並んでいる。
ランジェリー姿の女性が描かれたネオンの看板を見て、誰もいないはずの町なのに、子供私がこんなところを歩いて良いのかと、すこしだけ恥ずかしい思いをした。現実世界でも時代遅れな気がする建物たちは、昭和という時代の忘れ物であった。大人たちの帰る場所。その役割をしっかりと担っている証拠ではないだろうか。
点灯しない歩行者専用信号機。色褪せた横断歩道があるけれど、その上を歩く人はもういない。
大人の店が並ぶ路地から大通りに出る。緩やかなカーブを描く二車線の車道。曲がり角には大きなホテルが建っていて、地下駐車場への入り口には「送迎バス専用」の看板があった。
誰もいない――先の不安の声が、再び美琴の内側から声を上げた。不安という感情に蓋をすることは少女ではなくても一苦労だ。そろそろ限界だということは、彼女自身が一番知っている。体のあちこちも悲鳴を上げ始めた。歩くたびにつま先が痛い。息をするたびに喉が痛い。風も音も無いこの世界では、痛みや苦しみの他に何も感じることが出来ない。邪魔がないからこそ、それらの苦痛と純粋に向き合わなければいけないのだ。
もう限界。体の悲鳴にも、心の悲鳴にも耳を塞いでしまおう。きっと死んじゃったんだ。ここはきっと死後の世界だ。そんなことを思いつつ、美琴の足は一歩、また一歩と熱海の坂道を登っていく。
気が付けば、熱海駅の前に来ていた。ファストフード店や居酒屋が立ち並ぶ小さなロータリーや、屋根はあるけれどお湯のない足湯。立派な熱海駅は、背面の山を守る防波堤のように聳そびえたっているようだ。
そこで美琴は、人影を見つけたのだ。
熱海駅を見上げるようにして立つ一人の男性。髪の毛が少し薄く、まるで干物のように痩せた体は不摂生のためだろう。
美琴は先ほどまで感じていた不安を遠くに放り投げて、その男に駆け寄っていった。良かった。他にも人が居たんだ。
「あの……」
しかし、男性は答えなかった。もう一度呼びかけてみても同じ。それどころか顔一つ、毛一本さえも動かさなかった。まるで人形のよう。美琴の心に再び不安がじわじわと帰ってきた。潮の満ち引きのように、彼女の心に静かに波をたてる。
蝋人形のように固まる目の前の男。骨と皮だけの痩せこけた腕には、産毛が生えていることに美琴は気が付いた。生きているはずのその腕に触れてみようと、彼女は恐る恐る手を伸ばす――固く冷たい感触。だけれど、内に流れる生命の鼓動はしっかりと感じることが出来たのだ。
「捕まえた……」
それはしゃがれた、女の声だった。
顔を上げると男と目が合う。今度は男の腕が美琴の腕をしっかりと掴んでいた。固く冷たいその腕は、キリキリと万力のように少女の腕を締め付けていく。
「痛い……痛いよ!」
腕を引き剥がそうにも、鋼鉄のように固く握られていて、美琴ではどうしようもできなかった。
「恐れ入ったか邪魔者め! 首を突っ込む方が悪いんだ。こんなに素晴らしい世界なんてありゃしない。私はもう帰らないよ。あんな世界二度とごめんだね」
男の突然の剣幕に慄いて、美琴はその場に尻餅をつきそうになった。しかし、それも許さない鋼の腕枷は、美琴をぐいと引き上げる。
「ここは私の世界だ!」
表情をまったく変えない男は口だけを動かして、しゃがれた女の声でそう叫んだ。男はただの入れ物であった。では中には何が入っているのか? 声の主はいったい何を企んでいるのだろうか。
ゴゴゴゴ――!
どこからともなく地鳴りが聞こえてきた。何かの悲鳴のようなその音。耳を塞いでしまいたいくらい大きな、そして不快な音。しかし男にはそれが大衆の拍手にでも聞こえているのだろうか。不気味な笑みを浮かべ、空を仰いでいる。
一体何が始まるというのだろうか。この地鳴りは何を連れてくるのだろうか。高々に笑い始めた男……いや、この謎の女の目的は何なのか。
ゴゴゴゴ――!
地鳴りは治まるどころかむしろ激しさを増すばかり。得体の知れない恐怖を目の当たりにして、身も心も熱くなった美琴は涙を流していた。
だが、それも束の間。女の笑い声がピタリと止んでしまった。
男の顔は先ほどまでの笑みを無くして、空を見上げたまま歪んでいるではないか。何かに驚いている男の視線を辿り、美琴も空を見上げてみると、そこにはぽっかりと「穴」が開いていた。
一面が雲に覆われたような鉛色の空に、一つの小さな黒い穴が開いている。男はそれを見つめ、一つ舌打ちをした。
「嫌だ嫌だ……まったく、せっかちなことだね。ほらほら時間がないよ。早く奪わないと」
――奪う。
誰の何を奪うのか。美琴はその一言を聞いて、まさか自分の体を乗っ取られてしまうのではないかと身構えたけれど、空振りに終わる。
「お前たち! さあ、早く行きなさい!」
熱海の町。神にも人間にも見放された静寂の世界の中に散らばった、四つのものが動き始める。手紙、野球ボール、心霊写真、そして日本人形。どれも出雲の駄菓子屋の供養式に持ち込まれた「いわくつき」のものたち。
そのうちの一つである日本人形。これこそ雄一の肩に深い傷を負わせた老婆の正体であった。
地鳴りはまだ鳴っている。ちょうどこのころ、この町のどこかにある出雲の駄菓子屋にて、雄一と真太郎もこの音を聞き、空に開いた穴に驚愕していたのだった。
ランジェリー姿の女性が描かれたネオンの看板を見て、誰もいないはずの町なのに、子供私がこんなところを歩いて良いのかと、すこしだけ恥ずかしい思いをした。現実世界でも時代遅れな気がする建物たちは、昭和という時代の忘れ物であった。大人たちの帰る場所。その役割をしっかりと担っている証拠ではないだろうか。
点灯しない歩行者専用信号機。色褪せた横断歩道があるけれど、その上を歩く人はもういない。
大人の店が並ぶ路地から大通りに出る。緩やかなカーブを描く二車線の車道。曲がり角には大きなホテルが建っていて、地下駐車場への入り口には「送迎バス専用」の看板があった。
誰もいない――先の不安の声が、再び美琴の内側から声を上げた。不安という感情に蓋をすることは少女ではなくても一苦労だ。そろそろ限界だということは、彼女自身が一番知っている。体のあちこちも悲鳴を上げ始めた。歩くたびにつま先が痛い。息をするたびに喉が痛い。風も音も無いこの世界では、痛みや苦しみの他に何も感じることが出来ない。邪魔がないからこそ、それらの苦痛と純粋に向き合わなければいけないのだ。
もう限界。体の悲鳴にも、心の悲鳴にも耳を塞いでしまおう。きっと死んじゃったんだ。ここはきっと死後の世界だ。そんなことを思いつつ、美琴の足は一歩、また一歩と熱海の坂道を登っていく。
気が付けば、熱海駅の前に来ていた。ファストフード店や居酒屋が立ち並ぶ小さなロータリーや、屋根はあるけれどお湯のない足湯。立派な熱海駅は、背面の山を守る防波堤のように聳そびえたっているようだ。
そこで美琴は、人影を見つけたのだ。
熱海駅を見上げるようにして立つ一人の男性。髪の毛が少し薄く、まるで干物のように痩せた体は不摂生のためだろう。
美琴は先ほどまで感じていた不安を遠くに放り投げて、その男に駆け寄っていった。良かった。他にも人が居たんだ。
「あの……」
しかし、男性は答えなかった。もう一度呼びかけてみても同じ。それどころか顔一つ、毛一本さえも動かさなかった。まるで人形のよう。美琴の心に再び不安がじわじわと帰ってきた。潮の満ち引きのように、彼女の心に静かに波をたてる。
蝋人形のように固まる目の前の男。骨と皮だけの痩せこけた腕には、産毛が生えていることに美琴は気が付いた。生きているはずのその腕に触れてみようと、彼女は恐る恐る手を伸ばす――固く冷たい感触。だけれど、内に流れる生命の鼓動はしっかりと感じることが出来たのだ。
「捕まえた……」
それはしゃがれた、女の声だった。
顔を上げると男と目が合う。今度は男の腕が美琴の腕をしっかりと掴んでいた。固く冷たいその腕は、キリキリと万力のように少女の腕を締め付けていく。
「痛い……痛いよ!」
腕を引き剥がそうにも、鋼鉄のように固く握られていて、美琴ではどうしようもできなかった。
「恐れ入ったか邪魔者め! 首を突っ込む方が悪いんだ。こんなに素晴らしい世界なんてありゃしない。私はもう帰らないよ。あんな世界二度とごめんだね」
男の突然の剣幕に慄いて、美琴はその場に尻餅をつきそうになった。しかし、それも許さない鋼の腕枷は、美琴をぐいと引き上げる。
「ここは私の世界だ!」
表情をまったく変えない男は口だけを動かして、しゃがれた女の声でそう叫んだ。男はただの入れ物であった。では中には何が入っているのか? 声の主はいったい何を企んでいるのだろうか。
ゴゴゴゴ――!
どこからともなく地鳴りが聞こえてきた。何かの悲鳴のようなその音。耳を塞いでしまいたいくらい大きな、そして不快な音。しかし男にはそれが大衆の拍手にでも聞こえているのだろうか。不気味な笑みを浮かべ、空を仰いでいる。
一体何が始まるというのだろうか。この地鳴りは何を連れてくるのだろうか。高々に笑い始めた男……いや、この謎の女の目的は何なのか。
ゴゴゴゴ――!
地鳴りは治まるどころかむしろ激しさを増すばかり。得体の知れない恐怖を目の当たりにして、身も心も熱くなった美琴は涙を流していた。
だが、それも束の間。女の笑い声がピタリと止んでしまった。
男の顔は先ほどまでの笑みを無くして、空を見上げたまま歪んでいるではないか。何かに驚いている男の視線を辿り、美琴も空を見上げてみると、そこにはぽっかりと「穴」が開いていた。
一面が雲に覆われたような鉛色の空に、一つの小さな黒い穴が開いている。男はそれを見つめ、一つ舌打ちをした。
「嫌だ嫌だ……まったく、せっかちなことだね。ほらほら時間がないよ。早く奪わないと」
――奪う。
誰の何を奪うのか。美琴はその一言を聞いて、まさか自分の体を乗っ取られてしまうのではないかと身構えたけれど、空振りに終わる。
「お前たち! さあ、早く行きなさい!」
熱海の町。神にも人間にも見放された静寂の世界の中に散らばった、四つのものが動き始める。手紙、野球ボール、心霊写真、そして日本人形。どれも出雲の駄菓子屋の供養式に持ち込まれた「いわくつき」のものたち。
そのうちの一つである日本人形。これこそ雄一の肩に深い傷を負わせた老婆の正体であった。
地鳴りはまだ鳴っている。ちょうどこのころ、この町のどこかにある出雲の駄菓子屋にて、雄一と真太郎もこの音を聞き、空に開いた穴に驚愕していたのだった。
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