30 / 40
後編
6 夢現
しおりを挟む
愛子が警察に連れていかれた。
電報を受け取った大作は、その日、県外へと私用で外出していたのだ。
すぐに車を捕まえ、駅へ向かわせた。今からだと、どれだけ早くても熱海に着くのは夜中になる。
汽車に乗っても、大作の心は落ち着かない。彼は東京に居た。愛子との婚約指輪を受け取るために。
熱海に着くころには、すっかり日が暮れていて、秋の涼しい風が大作を通り過ぎていった。
駅を出るなり、再び車を捕まえる。いつもは居心地の良い熱海の夜は、今夜ばかりは凍てつく冬よりも強烈に恐ろしいものであった。
いつしか感じた水平線の魔物。あいつがついに上陸したような気持ちであった。
署に着くと、そこには坂田が待っていた。悲しい表情で大作を発見すると、坂田は、彼の肩を叩いてやった。
「気をしっかり」
声は大作の片耳から入って、すぐに反対側から抜けていく。
愛子が自害した――濡れ衣を着せられ、ストレスで完全に視力を失ったのだ。
冷たく、寂しい留置所。熱海の喧しい窓辺の家とは違い、どんな音も聞こえない狭いところにいたのだ。大作は、しばらく無人になった留置所の前にいた。そこに坂田がやってきた。
「これを……」
坂田がくれた三通目の手紙は、愛子からのものだった。
遺書。目の見えない愛子が書いた手紙の文字は乱れ、そして震えていた。
「大作さんへ――申し訳ございません。私は光を失ってしましました。
大作さんが志にしておられた美しい熱海。それを共に見たい。大作さんのそのお言葉に、私は真に嬉しく、なんとか私に残された微かな光に縋っておりました。
そしてその夢を壊してしまいました。きっと罰なのでしょう。光に頼り、神様の創られた運命を曲げて怒りをかったのでしょう。
私は後悔しておりません。短い間でしたが、大作さんと共に過ごせた時間は、私の財産です。冥土の土産には充分すぎるものでございます。
来世では必ず、熱海の美しい町を見ることを約束いたします。人の道から反れることを、どうかお許しくださいませ――愛子」
大作が帰宅することには、東の地平線から日が昇り始めていた。薄暗い夜の闇が照らされ、海岸沿いには海から帰ってきた漁師たちが、まだ眠っている町の中で、ひときわ大きな声を上げていた。
鳥や虫たちも眠っている。大作の心も深く眠り、目を閉ざしたままであった。
大作は声をかけるお栄たちを無視して寝室に入った。
彼が調達した荷物とは、愛子との婚約指輪の調達であったのだ。
愛子の居ない世界。彼の中は混沌だ。若葉生い茂る森の赤い滝。青く高い空に紫の雲。双頭の黄色い蜥蜴に、二つ足の毒蜘蛛。
大作の心に住まう常識は、無残に食い破られ、そして闇に落ちていく。
夢現。ああ、これが夢であったならば。
大作は婚約指輪を取り出して、自分の指にはめてみせた。
◯
夕方。籠り切りだった大作を呼ぶため、お栄が仕事の隙間を見つけて、寝室のドアを叩いた。
「旦那様。お夕食が出来ております」
「……」
「こちらで召し上がられますか?」
「……」
「旦那様……勝手ながら、開けますよ?」
扉を開けて見たもの。お栄は「ぎゃっ!」と叫ぶ。部屋の中には、父の浴衣の帯で首を吊った、大作の亡骸がぶら下がっていたのだ。
電報を受け取った大作は、その日、県外へと私用で外出していたのだ。
すぐに車を捕まえ、駅へ向かわせた。今からだと、どれだけ早くても熱海に着くのは夜中になる。
汽車に乗っても、大作の心は落ち着かない。彼は東京に居た。愛子との婚約指輪を受け取るために。
熱海に着くころには、すっかり日が暮れていて、秋の涼しい風が大作を通り過ぎていった。
駅を出るなり、再び車を捕まえる。いつもは居心地の良い熱海の夜は、今夜ばかりは凍てつく冬よりも強烈に恐ろしいものであった。
いつしか感じた水平線の魔物。あいつがついに上陸したような気持ちであった。
署に着くと、そこには坂田が待っていた。悲しい表情で大作を発見すると、坂田は、彼の肩を叩いてやった。
「気をしっかり」
声は大作の片耳から入って、すぐに反対側から抜けていく。
愛子が自害した――濡れ衣を着せられ、ストレスで完全に視力を失ったのだ。
冷たく、寂しい留置所。熱海の喧しい窓辺の家とは違い、どんな音も聞こえない狭いところにいたのだ。大作は、しばらく無人になった留置所の前にいた。そこに坂田がやってきた。
「これを……」
坂田がくれた三通目の手紙は、愛子からのものだった。
遺書。目の見えない愛子が書いた手紙の文字は乱れ、そして震えていた。
「大作さんへ――申し訳ございません。私は光を失ってしましました。
大作さんが志にしておられた美しい熱海。それを共に見たい。大作さんのそのお言葉に、私は真に嬉しく、なんとか私に残された微かな光に縋っておりました。
そしてその夢を壊してしまいました。きっと罰なのでしょう。光に頼り、神様の創られた運命を曲げて怒りをかったのでしょう。
私は後悔しておりません。短い間でしたが、大作さんと共に過ごせた時間は、私の財産です。冥土の土産には充分すぎるものでございます。
来世では必ず、熱海の美しい町を見ることを約束いたします。人の道から反れることを、どうかお許しくださいませ――愛子」
大作が帰宅することには、東の地平線から日が昇り始めていた。薄暗い夜の闇が照らされ、海岸沿いには海から帰ってきた漁師たちが、まだ眠っている町の中で、ひときわ大きな声を上げていた。
鳥や虫たちも眠っている。大作の心も深く眠り、目を閉ざしたままであった。
大作は声をかけるお栄たちを無視して寝室に入った。
彼が調達した荷物とは、愛子との婚約指輪の調達であったのだ。
愛子の居ない世界。彼の中は混沌だ。若葉生い茂る森の赤い滝。青く高い空に紫の雲。双頭の黄色い蜥蜴に、二つ足の毒蜘蛛。
大作の心に住まう常識は、無残に食い破られ、そして闇に落ちていく。
夢現。ああ、これが夢であったならば。
大作は婚約指輪を取り出して、自分の指にはめてみせた。
◯
夕方。籠り切りだった大作を呼ぶため、お栄が仕事の隙間を見つけて、寝室のドアを叩いた。
「旦那様。お夕食が出来ております」
「……」
「こちらで召し上がられますか?」
「……」
「旦那様……勝手ながら、開けますよ?」
扉を開けて見たもの。お栄は「ぎゃっ!」と叫ぶ。部屋の中には、父の浴衣の帯で首を吊った、大作の亡骸がぶら下がっていたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/18:『いるみねーしょん』の章を追加。2025/12/25の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
君との空へ【BL要素あり・短編おまけ完結】
Motoki
ホラー
一年前に親友を亡くした高橋彬は、体育の授業中、その親友と同じ癖をもつ相沢隆哉という生徒の存在を知る。その日から隆哉に付きまとわれるようになった彬は、「親友が待っている」という言葉と共に、親友の命を奪った事故現場へと連れて行かれる。そこで彬が見たものは、あの事故の時と同じ、血に塗れた親友・時任俊介の姿だった――。
※ホラー要素は少し薄めかも。BL要素ありです。人が死ぬ場面が出てきますので、苦手な方はご注意下さい。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる