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第2話「第一王子は、私の前で十七回目の口説き文句を口にした」
王城の奥に位置する、豪奢な装飾が施された応接室。
壁にはアルカディア王国の歴史を描いた荘厳なタペストリーが掛けられ、床には足が沈み込むほど分厚い真紅の絨毯《じゅうたん》が敷き詰められている。
私は今、一人掛けの柔らかなソファに腰を下ろし、静かに「その時」を待っていた。
――いや、正確には「一人」ではない。
「……ねえ。どうしてわざわざ、椅子にお座りになっているの?」
私は扇で口元を隠しながら、隣のソファに向けて極めて小さな声で囁いた。
そこには、漆黒の魔導士ローブを纏《まと》った美しい銀髪の青年――古代の魔導書に魂を封じられた大魔導士ノクスが、長い脚を組んで堂々とふんぞり返っていたからだ。
「馬鹿を言え。俺ほどの存在が、立ったまま下界の王族を待つなどあり得ないだろう。こうしている方が、貴族らしくて様になる」
「ですが、あなたは幻影ですわよね? 現に、ソファのクッションは一ミリも沈んでおりませんけれど」
幻影である彼は物理的な干渉ができない。当然、座っているように見えても椅子には全く体重がかかっていなかった。
私の至極真っ当な指摘に、ノクスは皮肉げに端正な唇を歪める。
「つまらんことを気にするな、小娘。俺の精神衛生上の問題だ」
一千二百年を生きる大魔導士様の精神衛生とは一体何なのだろうか。
私が密かにため息をついた、その時だった。
重厚な両開きの扉が、従者の手によって静かに開かれた。
「お待たせしてすまないね、美しきフェルディアの華」
甘く、耳に心地よいバリトンボイス。
現れたのは、金糸を紡いだような輝く金髪に、晴れ渡る空のような碧眼を持つ青年だった。
第一王子、レジナルド・アルカディア殿下。
王国の令嬢たちが一度は憧れる、絵に描いたような美男子。彼が私に向かって、完璧な角度の微笑みを向けていた。
私はスッと立ち上がり、一切の乱れもない完璧なカーテシーでお迎えした。
「お初にお目に掛かります、レジナルド殿下。ルクレツィア・フェルディアにございます。本日はお時間を頂戴し、光栄の至りに存じます」
「顔を上げておくれ、ルクレツィア嬢。ああ……噂に違わぬ美しさだ。君のその紫水晶の瞳を見ていると、吸い込まれてしまいそうだ」
レジナルド殿下は私の手を取ると、その甲に恭しく口づけを落とした。
ロマンチックな光景に見えるだろう。普通の令嬢であれば、頬を染めてうっとりとしているはずだ。
だが、私にははっきりと見えていた。
甘く囁く殿下の碧眼の奥にある、冷徹な「品定め」の光が。私の姿形だけでなく、背後にあるフェルディア家の権力や財産を値踏みするような、生々しい欲の色が。
その時、隣からひどく冷ややかな声が聞こえた。
『出たぞ、小娘』
ノクスだ。もちろん、彼の実体を持たない声は殿下や従者たちには聞こえない。私にだけ直接響いている。
『その台詞、三年前にオルテンシア嬢に言っていたぞ。二年前にヴィオラ嬢に、一年前にはセレナ嬢だ。他にも数え切れん。合計で十七人だぞ、その陳腐な口説き文句を吐いたのは』
(――じゅ、十七人!?)
私は内心で絶叫しそうになるのを、魔法学院首席で培った強靭な精神力でなんとか押さえ込んだ。
表情筋を総動員して完璧な淑女の微笑みをキープする。
「もったいないお言葉ですわ、殿下」
『よく笑えるな。俺ならその薄っぺらい口を魔法で縫い合わせているところだ』
ノクスの容赦ない毒舌に、私のお腹のあたりがピクピクと引きつりそうになる。
どうにかお茶を勧めて場を和ませようとした時、レジナルド殿下が優雅に紅茶のカップを傾けながら、本題を切り出してきた。
「時に、ルクレツィア嬢。フェルディア侯爵家は歴史ある名家だが、特に素晴らしいのはその蔵書だと聞いているよ。貴重な古文書や、歴史に埋もれた魔導書の数々が眠っているそうじゃないか」
「ええ……祖父が大変な書物愛好家でございましたので。埃を被った古い本ばかりですが」
私が謙遜すると、殿下の目が僅かに細められた。
「とんでもない。王家としても、その素晴らしい知識の遺産には大変興味がある。いつかぜひ、私にも君の家の蔵書庫を拝見させてはくれないだろうか?」
殿下は甘く微笑んでいるが、その声には妙な熱がこもっていた。
『来たぞ』
隣で腕を組んでいたノクスの声が、一段低くなった。
『あの男、お前の美貌でも財力でもない。お前の家の蔵にある本――いや、何か特定のものを探している。気をつけろ、あの目は略奪者の目だ』
(やっぱり……)
私の胸の奥で、冷たい警鐘が鳴った。
彼が私の婚約者候補に名乗りを上げたのは、私自身のためではなく、祖父が遺した「何か」を王家に取り込むためなのだ。
私は扇の陰で、ふふっと小さく笑い声を立てた。
「光栄ですわ。ですが、蔵書は我が家の財産。中をご案内できるのは、フェルディア家の家族となる方だけですわ」
「それはそうだ。だからこそ、私は君の夫にふさわしい男になりたいと願っているのだよ」
レジナルド殿下は甘く囁き、夜会へのエスコートのために私の手を取った。
◇ ◇ ◇
夜の帳が下り、王宮の大広間はシャンデリアの眩い光と、華やかな音楽に包まれていた。
美しいドレスを身に纏った貴族たちが談笑する中、第一王子にエスコートされて入場した私は、当然ながら周囲の熱を帯びた視線を一身に集めていた。
「ルクレツィア嬢。今宵の君は、夜空に輝く星すらも嫉妬するほど美しい」
広間の中央で、殿下は甘い声でそう囁き、どこからか一輪の深紅の薔薇を取り出した。
周囲の貴族たちが、「おお」と小さくどよめく。第一王子から花を贈られるなど、淑女にとってこれ以上ない名誉だからだ。
「この薔薇の美しさも、君の前では霞《かす》む。どうか受け取ってくれないか」
完璧な所作。完璧な笑顔。
誰もがうっとりと見惚れる光景。
だが、私の隣には、相変わらず冷ややかな目で殿下を見下ろす大魔導士が立っている。
『あまりにも臭い台詞だ。聞いていて反吐が出そうだな。さあ小娘、どうする?』
ノクスの挑発的な声に、私は心の内でふわりと微笑んだ。
どうするも何も、決まっている。
私は教育されすぎた令嬢だ。売られた喧嘩は、礼節をもって最高に美しく買い取るのがフェルディア家の流儀なのだから。
私は殿下から恭しく薔薇を受け取ると、優雅に扇を開き、広間によく響く澄んだ声で口を開いた。
「まあ、殿下。この赤い薔薇の花言葉は『あなただけに』ですわね。とても素敵ですわ」
私の言葉に、周囲の貴族たちが微笑ましそうに頷く。
だが、私はそのまま扇越しに殿下を見つめ、極上の微笑みを浮かべて言葉を紡いだ。
「ただ……三年前にオルテンシア様、二年前にヴィオラ様、そして一年前にはセレナ様にも、全く同じ深紅の薔薇を贈られたとか。わたくし、殿下からの十七人目の『あなただけ』を、しかと頂戴いたしますわ」
――ピキィン。
見えないはずの何かが凍りつく音が、広間中に響き渡った気がした。
優雅な音楽を奏でていた楽団の手が止まり、周囲の貴族たちのざわめきが波を打って静まり返る。
レジナルド殿下の完璧な笑顔が、まるで粗悪な陶器のようにひび割れ、みるみるうちに赤黒く染まっていった。
「なっ……! 君、何を……!」
狼狽し、言葉を失う王子。
私はそんな彼を一瞥もせず、涼しい顔で扇を揺らした。
「あら、わたくし何かお気に障ることを申し上げてしまいましたか? 殿下の深く広いご慈愛に、深く感動いたしましたのよ。それでは、わたくしは少し夜風に当たってまいりますわ」
私は優雅にカーテシーを一つ決めると、真っ赤になって震える王子と、完全に凍りついた広間を背に、見事な足取りでバルコニーへと向かった。
◇ ◇ ◇
「くっ……ははははっ! 傑作だ! あの男の顔を見たか! 最高に間抜けな面だったぞ!」
帰りの馬車の中。
ガタゴトと車輪の音が鳴る狭い空間で、ノクスは腹を抱えて笑い転げていた。
「もう、笑いすぎですわ、ノクス様。わたくし、心臓が口から飛び出るかと思いましたのに」
「嘘をつけ。あの状況で、あんな氷のように冷たい笑顔を浮かべられる女など、そうそういるものか。見事な論破だったぞ」
ノクスが、ふっと笑みを収めて私を見た。
窓から差し込む月明かりが、彼の銀髪を美しく照らしている。
「やるじゃないか、ルクレツィア」
初めて名前で呼ばれた。
その真っ直ぐな紅い瞳に見つめられ、私は不覚にも少しだけ胸が弾んでしまった。
「……あら。もしかして、わたくしのこと、褒めてくださいましたの?」
わざとらしく首を傾げてみせると、ノクスは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らし、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
「……気のせいだ。俺は事実を述べたまでだ」
その横顔に微かな動揺が見えて、私は思わずくすりと笑ってしまった。
どうやら、一千二百年を生きる大魔導士様は、思ったよりも照れ屋らしい。
だが、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。
フェルディア侯爵邸に到着すると、エントランスには病身を押して起きてきた父の姿があった。
杖をつきながら、ひどく疲れた顔で私を出迎える。
「おかえり、ルクレツィア。夜会での一件は耳に入っている。よくやったと言いたいところだが……」
父は重い咳を一つ落とし、静かに告げた。
「明日から、隣国の宰相、シリウス殿が我が家に滞在されることになった。彼が、次の婚約者候補だ」
――次なる刺客。
私はそっと胸元のドレスに触れた。服の下に隠された、祖父から託された黒水晶の冷たさが、じわりと肌に伝わってくる。
私は無言で頷きながら、暗く沈む侯爵邸の廊下を見つめた。
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