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第7話「『その怒りは正しい』と彼は言った」
——審判の刻、三日目。
宮廷法院の静謐な執務室で、ルナリアは羽ペンを握ったまま、白紙の羊皮紙を前にして固まっていた。
カイルと共に進めている、訴状および陳述書の作成。
被告となる家族たちの罪状と、ルナリア自身が受けた精神的・肉体的苦痛を自らの言葉で書き記す作業だ。
しかし、ペン先は震え、インクがぽたりと紙に黒い染みを作るばかりで、一文字も綴ることができなかった。
「……手が、動かないのですか」
向かいの席で膨大な過去の判例をめくっていたカイルが、静かに声をかけた。
「申し訳ありません、ヴェルナー様。頭では分かっているのです。彼らがわたくしとお母様にした、非道な仕打ちを。裁かれなければならない罪なのだと」
ルナリアは痛むこめかみを押さえた。
「なのに、いざ『彼らを罰してほしい』と文章にしようとすると、胸の奥がひどく軋むのです。お父様にも、きっと領地を守るという重圧があったのではないか。エルザだって、お義母様に言われるがままだっただけではないか……そんな、言い訳ばかりが浮かんできてしまって」
加護はすでに消え去った。
六百六十六回の呪縛は解け、怒りも悲しみも取り戻したはずだった。
それでも、物心ついた時から二十一年間、「許す側」であり続けるよう脳と心を削り変えられてきた後遺症は、ルナリアの魂に深く根を張っていた。
誰かを憎むこと、罰を望むことへの、異常なほどの罪悪感。
わたくしが我慢すればいいのだという、呪いのような自己犠牲の習慣。
カイルは羽ペンを置き、ルナリアの前に回ってしゃがみ込んだ。
視線を同じ高さに合わせ、鋼色の瞳で彼女を真っ直ぐに見つめる。
「ルナリア嬢。彼らの事情を推し量る必要はありません。それは、加害者が被害者に強要する最も卑劣な『甘え』です」
「甘え……」
「そうです。あなたの父親は、領地を守るという『名目』のために、あなたの母親の命を削り落とした。そして、あなたの尊厳をすり潰した。そこにいかなる事情があろうと、他者の魂を食い物にすることが許される法は、この王国のどこにも存在しません」
カイルの声は、熱を帯びた鉄のように重く、そして確かだった。
「あなたは怒っていい。憎んでいい。彼らの不幸を願い、彼らが積み上げた砂の城を叩き壊したいと望んでいいんです。……思い出してください。あなたの母親が、最期にどんな顔で息を引き取ったかを」
その言葉が、ルナリアの脳裏に封印されていた扉をこじ開けた。
血を吐きながら、虚ろな目で宙を見つめ、それでもなお顔に貼り付いていた、おぞましいまでの「微笑み」。
あれは、母の愛などではなかった。加護システムによる、無惨な精神の破壊だ。
わたくしは、あの凄惨な死を、また「仕方なかった」と許すというのか。
「……っ」
ルナリアの奥歯が鳴った。
両手が強く握り込まれ、爪が手のひらに食い込む。
「……憎い、です」
絞り出すような、ひどく掠れた声。
「わたくしからお母様を奪い、その死を隠蔽し、わたくしの心まで壊そうとしたあの家が……神殿が……心底、憎い……!」
初めて、声に出して「憎悪」を口にした。
その瞬間、ルナリアの目から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
しかしそれは、昨日までの怯えた涙ではない。熱く、激しく、魂の底から煮えたぎる「怒り」の涙だった。
カイルが「それでいい」と頷きかけた、まさにその時である。
「ルナリア!! ルナリアはどこだ!!」
執務室の外、法院の廊下から、怒鳴り声が響き渡った。
聞き間違えるはずもない。父、ハインリヒ・フォン・アストレア侯爵の声だ。
警備の制止を振り切り、半ば強引に執務室の扉が開け放たれる。
「お父、様……」
ルナリアは息を呑んだ。
そこに立っていたのは、数日前の夜会でワイングラスを片手に優雅に笑っていた侯爵ではなかった。
高価な上着は皺だらけで、髪には白いものが目立ち、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
加護による「異常な幸運」が剥落し、領地の凶作と数々のトラブルが一気に噴き出した結果、たった数日でここまで生気が失われていたのだ。
「おお、ルナリア! こんな所にいたのか、ずっと探していたんだぞ!」
ハインリヒは、すがりつくような目で娘を見た。
「さあ、一緒に帰ろう! なんだこのふざけた宮廷法院からの呼び出し状は! お前がこんなものを書かせたのではないだろう? 神殿への出入りを禁じられた私が、どれだけ今、困窮しているか……」
カイルがルナリアを庇うように立ち塞がった。
「アストレア侯爵。ここは法院の執務室です。面会許可のない者の立ち入りは……」
「黙れ小童! 私はこの娘の父親だぞ!」
ハインリヒはカイルを突き飛ばそうとしたが、カイルは微動だにせず、冷徹な視線で侯爵を射抜いた。
父は舌打ちをし、再びルナリアへ哀願の言葉を向ける。
「ルナリア、お前も今の侯爵家の惨状を見れば分かるはずだ。お義母様は原因不明の老いに寝込み、エルザは魔法が使えなくなったと泣き叫んでいる。領地は害虫だらけだ。すべて、お前がへそを曲げているから起きた不幸なのだぞ!」
狂っている。
ルナリアは、心底そう思った。
彼は自分の領地の不作も、妻の醜悪さも、すべて「娘のへそ曲がり」のせいだと思っているのだ。
彼の中には、わたくしという「人間」はいない。ただ幸運を吐き出すための「道具」が壊れて困っている、ただそれだけなのだ。
「ルナリア、頼む。もう一度だけ、私たちを許してくれ。お前が心から許し、祈りを捧げれば、また聖印の光は戻る。母さんもそうして、アストレア家を守り抜いてくれたじゃないか。家族だろう? 私たちは」
家族。
その言葉が、ルナリアの心に残っていた最後の「迷い」の糸を、プツリと断ち切った。
「……お母様を、言い訳に使わないで」
ルナリアは、カイルの背中から一歩前へ出た。
「お父様。あなたは、お母様が死ぬ間際、何が起きていたか知っていたのですね」
「な、何を言っている」
「お母様は、病で死んだのではない! あなたが、お義母様の安産祈願のために、お母様の最後の一滴の加護まで搾り取って……殺したのだわ!」
執務室に、ルナリアの悲痛な叫びが響き渡った。
ハインリヒの顔から、さっと血の気が引いていく。
隠蔽していたはずの真実を、娘が知っている。その事実に、侯爵の唇がわなわなと震えた。
「そ、それは……神殿が、国のために必要だと言ったのだ! それに、あの女も納得して微笑んで……!」
「微笑まされていたのです! 今のわたくしと同じように、あなた方の呪いで!」
ルナリアの薄紫の瞳から、これまでハインリヒが一度も向けられたことのない、絶対零度の軽蔑と拒絶が放たれた。
「わたくしは、もう絶対に許しません。家の都合のために、自分の心を殺して微笑んだりなどしません。あなた方がわたくしたちから奪い取ったものを、すべて法廷の場で吐き出させます」
「ル、ルナリア……! お前、狂ったのか! 生みの親に向かって……!」
「狂っていたのは、お父様、あなたの方です。お帰りください。次に会うのは、法廷の証言台です」
言い放たれた決別の言葉。
そこには、かつての「従順な聖女」の面影は微塵もなかった。
ハインリヒは幽鬼のように蹌踉めき、駆けつけた法院の警備兵たちによって、半ば引きずられるように部屋から摘み出されていった。
静寂が戻った執務室。
ルナリアは、荒い呼吸を繰り返しながら、その場に崩れ落ちそうになった。
全身の震えが止まらない。実の父親を、自分の言葉で完全に切り捨てたのだ。
「……わたくしは……ひどい娘でしょうか……」
ぽつりとこぼれたルナリアの問い。
カイルは、床に落ちていた白紙の羊皮紙を拾い上げ、机の上に戻した。
そして、まだ小刻みに震えている彼女の華奢な肩に、そっと、だが力強く手を置いた。
「いいえ。あなたは、あなたの尊厳を守り抜いた。法務官として、いや、一人の人間として、誇りに思います」
カイルの鋼色の瞳が、かつてなく柔らかな光を帯びてルナリアを見つめていた。
「その怒りは、正しい。――さあ、奴らを裁くための剣(訴状)を、共に書き上げましょう」
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