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第一話 オムライスと野菜スープ

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 紗和子は、千春に連絡を取って、薫をお風呂に入れて着替えさせた。千春を待つという薫と共に居間で待っていたのだが、薫は紗和子の膝を枕に眠ってしまった。勝手に寝室に入るのは憚られて、紗和子が寝かせてもらっていた部屋に運んで、敷きっぱなしだった布団に薫を寝かせる。布団を掛けると春ノ助が潜り込み、薫に寄り添うように眠り始めた。
 その場面を写真に撮って千春に『薫ちゃん、とりあえず寝ました』と送ると何よりも先に『可愛いです』と返事が来て、笑ってしまった。
 二人は親子なのだろうか、と紗和子は薫の寝顔を見ながら首を傾げる。親子にしては、何か違和感があるのだ。
 ふとスマホを見れば『ようやく終わりました。帰ります』とメッセージが入っていて、紗和子は薫と春ノ助を順番に撫でて立ち上がる。襖は薄く開けたままにして、台所に行き、オムライスと野菜スープを温める。薫はこの野菜スープも気に入ってくれたようだった。
 卓袱台に全てを並べ終えた頃、カラカラと玄関の戸が開く音がして廊下に出る。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい」

 千春は、一瞬、驚いたような顔をしたあと、小さく笑った。

「手、どうでしたか?」

「一週間後にもう一度、受診することになりました。当分は薬とガーゼと包帯が必須のようですね」

「そうですか、お大事になさってくださいね。あ、お夕飯、仕度してありますよ」

 居間へと入った千春が、ぱちりと目を瞬かせる。

「出前を取ったのですか?」

「薫ちゃんのリクエストで、台所をお借りしました。あの、すみません、勝手に……」

「いえ、すごく綺麗なオムライスなので驚いて、すごいですね、紗和子さん」

 席に着いた千春がしげしげとオムライスを見ながら言った。
 しばらく眺めた後、千春は「いただきます」と手を合わせ、ようやくスプーンを手に取り、オムライスを頬張る。薫と全く同じような顔をして食べ始めた千春に紗和子は、くすりと笑ってしまう。
 オムライスも野菜スープもあっという間に空になる。

「ごちそうさまでした。オムライスもスープもとても美味しかったです。紗和子さんはすごいですね」

「私、一応、調理師免許と管理栄養士と色々な資格を持った家政婦をしていたんです。……あの、そろそろお暇させて頂きます。今日は助けて下さって、本当にありがとうございました」

「僕のせいで、もうだいぶ遅いですし、今夜は泊まっていかれてはいかがですか?」

「い、いえそんな! そこまでご迷惑をおかけするわけには……」

「ですが、紗和子さん、保険証を拝見した時に、住所も見てしまったんですが、あの公園の周辺にお住まいということですよね?」

 紗和子は「はい」と頷く。

「でしたら、尚のことです。あの男性、諦めた様子ではなかったですし、家に迎えに行くと言っていたでしょう……貴女が怯えていた様子でしたので間に入りましたが、本当に婚約者ではないのですか?」

 千春が躊躇いがちに尋ねてきた。

「父が勝手に言い出したことなのですが、あの人がお見合い写真の私を見て気に入ったとかで、連日、職場にも押しかけて来て、困っていたのです」

「そうですか。お父上は何故彼との結婚を?」

 分かりません、と首を横に振って膝の上で手を握りしめる。

「……そもそも私は家族とあまりうまくいっていなくて、短大に進学をしたのを機に連絡を絶っていたのですが、どこで調べたのか急に連絡をしてきて。ああ、その前に、私が勤めていた会社がですね……」

 紗和子の話はお世辞にも整頓されてはいなかっただろうに、千春は、時折、相槌を打ちながら真剣に話を聞いてくれた。彼は、とても聞き上手だ。
 本来なら今日会ったばかりの見知らぬ人、それも男性にこんな身の上話をするなんて普段の紗和子ながら考えられないことだった。
 だが、心のどこかで何も知らない誰かに話してしまいたかったのかもしれない。どうにもならなくても、このどうにもならない気持ちを聞いてほしかったのだ。
 ようやく全てを話し終えた。自分でもたかだか一か月かそこらの間に色々とあるものだな、と他人事のように感心してしまった。

「なかなか……大変なようですね」

 千春が一生懸命、言葉を選んでくれたのが伝わってくる。
 紗和子は、曖昧に微笑んで返した。

「所在がばれた理由は、考え付きますか?」

「父かな、と思っています。私のことを勝手に調べて連絡してきましたし、父はこの結婚に乗り気なので、相手方に教えたのかと」

「でしたら余計に今夜はやめた方がいいです。……赤の他人で初対面だった僕でも、彼には異常なものを感じました」

 それを否定できないほど、紗和子も綾小路が恐ろしかった。
 瞬間、どろりとした彼の悍ましい「糸」を思い出して、唇を噛む。千春が助けに入ってくれなければ、どうなっていたか分からない。紗和子も春ノ助も間違いなく怪我を負っていただろうし、紗和子は、どこへとも分からぬ場所へ連れて行かれていたかもしれない。
 そう思うと、背筋がぞっとして震えが走る。

「……今の紗和子さんにこんなことを頼むのは、卑怯なことだと分かっています」

 おもむろに千春が言った。
 顔を上げれば、強張った表情を浮かべた千春と目が合う。

「……そのお仏壇の写真、片方は僕の祖父母で、この家は母の実家で祖父母が暮らしていた家です。そして、もう片方……あの二人は僕の姉夫婦で、薫の両親です」

 思わずお仏壇を振り返る。

「半年前に交通事故で……薫を保育所に迎えに行く途中のことでした」

「もしかしてそのことが原因で薫ちゃんは、声が……」

 千春が痛みを耐えるように頷いた。

「最初の一カ月ほどは食事も睡眠もろくに取ってくれませんでした。今はもう近所の幼稚園に通えるほど元気になり笑顔も見せてくれるようになりました。ですが……声だけが、どうしても戻らないのです。声帯などには異常がなく、問題は心のほうだと医者にも言われています」

 薫の笑顔を思い出して、胸が痛む。

「……姉の夫である義兄は、学生の頃に相次いでご両親を亡くされていて、兄弟や親戚もおらず、いわゆる天涯孤独でした。そして、僕と姉は、両親と反りが合わず疎遠になっていまして。両親はとても厳しい人で姉と義兄の結婚を認めようとせず、姉は駆け落ち同然に結婚して、薫を生みました。夫は天涯孤独の身の上で、自分は家と絶縁している。そんな環境だったからか姉夫婦は自分たちにいつ何があってもいいように遺言状を作成していて、それで薫は僕のところに来たのです。ですが……」

 そこで言葉を切って、千春は卓袱台の上に合ったグラスを手に取り、残っていた水を飲んだ。

「僕には姉と、その上に兄もいるんですが、姉が亡くなって一カ月が経った頃、その兄が突然、失踪してしまいまして」

「失踪、ですか?」

「はい。本当にいきなり。今も行方不明のままです。僕の実家は、代々続く道場なのですが、後継の兄が失踪し、急に僕に後を継げ、と。もちろん断りました。僕には僕の仕事や生活がありますから。そうしたら、ならば薫を寄越せと」

 千春が疲れたようにため息を零す。

「それから揉めに揉めまして……遺言もありましたし、僕は薫を養うだけの経済力もありますし、在宅が基本の仕事ですので一緒にいる時間も確保できます。それに薫自身が、僕がいいと言ってくれたので……。でも両親は諦めていないようで、僕にある条件を出してきたんです」

「条件、ですか?」

 千春は言いづらそうに視線を彷徨わせた後、何かを決意したように紗和子に向き直った。

「半年以内に結婚しろ、という条件です」

「結婚、半年以内にですか? そんな無茶な……」

「ええ。僕もそう反発しました。当時、僕には恋人がいませんでしたから、余計にお互いの一生を左右するようなことをそんな短期間では決められない、と。ですが、両親は古い考えの人間なので子育てをするなら母親がいなければだめだ、と。両親としても僕は独身の男ですし、もちろん、子育てなんてしたこともありませんから心配なのでしょう。……結果、あと一カ月を切ってしまったのです。このままではまた薫のことで揉め事になります。せっかく、笑ってくれるようになった薫を僕は絶対に手放したくありません。姉の分も、義兄の分も、あの子を愛して護ると僕は決めているのです」

 千春が立ち上がり、卓袱台をどかすと紗和子の前に膝をついた。

「紗和子さん」

「千春さん?」

 首を傾げる紗和子を前に千春が両手を畳に着く。

「僕と、結婚してください」

 がばり、と頭を下げた千春に驚き過ぎて声が出なかった。
 だが、固まった思考をどうにかこうにか動かしてその言葉の意味を理解して、紗和子は彼が自分に向って土下座をしていることに気づいた。

「か、顔を上げて下さい……っ」

「卑怯であることは百も承知です。でも、紗和子さんにとっても悪い条件ではないと思うのです」

「私に、とって、ですか?」

 千春がやっと顔を上げてくれる。

「僕と籍を入れてしまえば、あの男と結婚する必要はなくなりますし、不受理届などの対策を講じれば、勝手な入籍も離婚もなくなります。もちろん僕と夫婦の義務を果たさなくていいです。紗和子さんの職業である家政婦として我が家に来て下さい。もちろんお給料もお出しします」

「き、期間はどのくらいですか」 

 断ろうと思っていたはずの口からは、問いを投げていた。

「最低、一年はお時間を頂けませんか?」

 千春はどこまでも真剣に紗和子を見つめている。
 大きな手が、膝の上で握りしめていた紗和子の手に重ねられた。自分の手がまだ震えていたのを自覚する。

「僕からは絶対に離婚を切り出したりはしません。貴女が僕の妻でいてくれる間は、僕が必ず貴女を護ります」

 護ります、なんてこれまでの人生で誰かに言われたことは一度もなかった。
 自分でも驚くほど、笑って、しまうほど。
 その言葉が、ただ嬉しかった。

「契約結婚、ということでしょうか?」

「……そうなります」

 千春は、真っ直ぐに紗和子を見つめて頷いた。
 紗和子は、その眼差しから逃げるように俯いた。
 その先で、大きな手が紗和子の震える手を包み込んでくれている。骨ばっていて、硬くて、温かい優しい手だった。

「……一晩、考えさせてくださいませんか?」

「か、考えていただけるんですか?」

「あ、も、もしかして冗談でしたか?」

 千春の焦った声に紗和子は、思わず顔を上げる。大きな手が離れていき、千春は、紗和子と目が合うと「まさか」と手と首を横に振った。

「そもそも検討して頂けると思わなかったので……! 自分でも無茶なお願いだというのは分かっていますから。本当は、いくらでもお時間をと言いたいのですが、やはり彼のことがあるので、紗和子さんのためにも早い方がいいかと……」

 綾小路の顔が脳裏に浮かんで、唇を噛み締める。千春が「紗和子さん」と気づかわしげに名を呼んで顔を覗き込んでくる。

「結婚のお話を受けて頂けなかったとしても、僕は貴女の力になります」

「ど、どうしてですか……? 私と貴方は今日会ったばかりです」

「困っている人を助けるのは、人として当然のことです。紗和子さんだって、今日、困っている僕に手を貸してくれたじゃないですか?」

「そ、それは……」

 なんと返したらいいか分からず、言葉を詰まらせる。
 きっと、千春の言葉に甘えてしまえば、紗和子は、この胸に渦巻く不安や恐怖から解放されるだろう。
 だが、千春や薫に何かあったらと考えれば、その言葉を受け入れることが出来ない。

「……紗和子さん。今日はもう休みましょう。色々あってお疲れしょう? よければお風呂もどうぞ。祖母のものですが、浴衣をお貸ししますよ」

 そう言って千春は、紗和子が口を開く隙を与えず立ち上がり、居間を出て行ってしまった。
 一人きりになった居間は、しんと静かで、その静けさに押し潰されそうになる。
 たった一日の間に色々とありすぎて、さすがに疲れた。
 自然と包帯の巻かれた手首に目が行く。
 薫を風呂に入れた時、包帯が濡れてしまい、一度、外した。湿布を剥がした先にあったのは、手の形をした赤黒い痣だった。まるであの男が紗和子に寄せる執着心そのもののような禍々しい痣だった。
 震えそうになる体を唇を噛んで、どうにか落ち着ける。

「……大丈夫。大丈夫です、紗和子、貴女は一人で生きていける強い子です」

 目を閉じて、深呼吸をして呼吸を整え、心の中で同じ言葉を言い聞かせるように何度も繰り返す。
 千春の足音が居間へと近づいてきている。
 障子が開けられるタイミングで、紗和子は背筋を伸ばすようにして顔を上げた。

「少し樟脳の匂いがしますが、新品のようですのでよければどうぞ」

 差し出された浴衣を受け取る。彼の言う通り、まだ袖を通されたことがないのか、回数が少ないのか生地はまだ固い。

「ありがとございます」

「僕は薫のところにいますから、お風呂から出たら声をかけてくださいね」

 そう言って千春は、会釈をすると居間を出て行った。紗和子は、受け取ったそれをそっと撫でて、風呂へと足を向けたのだった。


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