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第四話 手巻き寿司パーティー
幕間2 城井恵太の溜め息
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※千春さんの親友兼担当編集者の城井恵太視点
城井恵太にとって、小花衣千春は担当作家であるよりも前に、生まれた時から一緒の幼馴染だった、
家が隣同士で、産院も一緒で、生まれた日も二日違い(千春のほうが先)で、兄と姉も学年が同じで、家族ぐるみの付き合いだった。
だから、千春の姉が亡くなった時は、本当にショックだった。もう一人の姉ちゃんだと恵太は思っていたし、あまりに突然のことで信じられなかった。信じたくなかった。
葬儀場で、泣き崩れる千春の母とその横で立ち尽くす父、茫然とする薫を抱き締めていた千春の決意をした表情を、恵太は一生、忘れないだろう。
最初は本当にどうなることかと思った。突然、両親を喪った薫はそのショックで喋れなくなっていたし、夜泣きや後追いがひどくて、千春は寝不足と疲労でふらふらしていた。恵太も担当編集者のひとりとして、原稿スケジュールをなんとか調整したり、上に掛け合ったり、親友として時に家事を手伝ったりして、陰ながら千春を支えていた。
薫はなんとか回復して、その内、控えめながら笑うようになった。その笑顔がだんだんと増えて、幼稚園に通えるようになった時は、我が事のように安心して泣いてしまったのは、千春には内緒だ。
だが、そう、だが。
ある日、いつも通り親友の家を訪ねたら、まさか嫁さんが出てきたというのは驚き以外の何物でもなかった。
しかもその嫁さんがめちゃくちゃ美人だった。
どうしてだ、なんでだ。
あの幼稚園(徒歩十分)と自宅の往復しかしていないような引きこもり作家が、どうしてこんな美女と出会って結婚できるんだ、と恵太は人生で一番混乱した。
親友のお嫁さんになった紗和子は、笑顔の優しい女性だった。
千春同様、いつも和服姿で、それがとてもよく似合っている。おっとり微笑んで、気が利いて、料理上手。聞けば、未だに恵太にはあんまり懐いてくれない薫も初日から懐いて、今ではちょっと千春の地位が危ういらしい。
親友は、紗和子に一目ぼれして結婚を申し込んだらしいが、あいつならやりそうだなと思った。でも、紗和子がそれを承諾して、出会った翌日に入籍したのは驚いた。似た者夫婦なのかもしれない。
「おれだっで、げっごんじたいぃ~!!」
そして、恵太は今日も小花衣家の縁側で親友の固い膝に突っ伏した。
薫は幼稚園に行っている時間。二人は縁側でのんびりお茶を楽しんでいた様子だった。なんだそれ、羨ましい。
「あらあら」
千春の隣でお茶を飲んでいた紗和子の声がする。
本当は恵太だって女の膝のほうがいいが、親友を失いたくないし、良識はちゃんとあるのだ。
「はぁ……今回はどうしたんです?」
千春が面倒くさそうに尋ねて来る。
「マッチングアプリで、会ったんだ! ちゃんと事前にお互いの趣味も確認した! でも、でも、会って一時間で『ごめん、ついてけない』って言われてフラれたぁ……っ」
「あらら……」
「もうオカルトを諦めるか、結婚を諦めるかの二択ですよ」
ぞんざいに頭を撫でながら千春が言った。
「ヤダヤダヤダ、俺も結婚じたいぃ! 紗和ちゃんみたいなお嫁さんと薫ちゃんみたいな可愛い娘ほじいっ!」
恵太は、これまでまともに女性と長続きしたことがなかった。
だいたいが恵太の趣味である「オカルト」を受け入れてもらえずに破局に至っている。何度か親に頼み込んでお見合いの席も設けてもらったが、趣味が無理と同じ理由で五回連続断られた結果、親にも匙を投げられた。
兄も姉も既に結婚していて、恵太には五人の甥と姪がいるのに、恵太だけ、三十になっても結婚相手のけの字すら見えてこないのだ。
「俺、家事得意だし、子育てだって育休取る気満々なのに……っ」
「そう言われましてもねぇ」
千春がぽんぽんと恵太の頭を撫でながら言った。
「というか恵太、日菜子先生はどうしたんです? この間、僕にあれこれ聞いて来てうるさかったのに……」
恵太は自分の肩が大げさなほどに跳ね上がるのを止められなかった。
「……だって」
「だって?」
「日菜子先生、可愛すぎて……っ、フラれたら、俺、俺ぇ……っ!」
日菜子先生とは、薫の担任先生だ。
くりっとした大きな目に笑顔のとびきり可愛い女性で、性格も明るくてはきはきしていて、子どもたちのために一所懸命な素敵な人だ。
「これはあれですね、本命に怯えるアラサーです」
「そうなんですか。まあ、本命には奥手になる方ってけっこういますものね」
恵太の上で夫婦はのんびりと言葉を交わしている。
「あんなに可愛い日菜子先生に、『オカルト無理』とか言われたら俺が無理ぃ……っ」
「はいはい。日菜子先生はオカルトだめなんです? 連絡先、交換したんでしょう?」
「……聞いてない。むしろ、挨拶だけしかしてない……」
「えっ!? あのコミュニケーション能力の塊と言われた恵太が⁉ 少しでも気になる女性は二秒後には口説き始めていたあの、恵太が!?」
「あらあらあらぁ」
千春は恵太に失礼だし、紗和子は本当に驚いているんだろうかと顔を上げると、ばっちり驚き顔の紗和子と目が合った。リアクションが薄いが本当に驚いているようだ。
顔を上げた恵太の額に千春の手が触れる。
「熱は……ないみたいですね」
「お前、俺のことなんだと思ってんの」
「そう言われましてもねえ。そうだ、今夜は紗和子さん特製タルタルソース付き、アジフライ&エビフライですよ」
「マジで⁉」
恵太は勢いよく立ち上がる。
紗和子の手作りタルタルソースは、市販のタルタルソースが食べられなくなるくらい、美味しいのだ。
茹で玉子を潰して、マヨネーズと和えてそこに、紗和子自家製ピクルスと生の玉葱をみじん切りしたものが入っている。他の調味料は不明だが、とにかくこれが美味しいのだ。
それをアジフライとエビフライにかけて食べられるなんて、最高オブ最高に間違いなかった。
「俺、残りの仕事片付けて来る! 絶対、絶対に夕飯には帰って来るから! 行ってきます!」
恵太は二人に手を振って、門を目指して走り出す。
ああ、絶対に美味しい、と噛み締めながら仕事の予定を脳内で組み直すのだった。
「いっただきまーす!」
恵太は大皿に山盛りのアジフライとエビフライに箸を伸ばし、まずはアジフライを取り皿に連れて来る。
紗和子特製のタルタルソースをたっぷりかけて、大きな口で頬張る。
さくっという衣の軽い音につづいて、じゅわぁとアジの旨味が口いっぱいに広がる。コク深いのにさっぱりしているタルタルソースがその旨味をこれでもかと引き立てて、口の中に幸せが広がる。そこに白米を頬張れば、更に米の甘みが加算されて、美味しいの連鎖が止まらない。ついでに箸も止まらない。
「おいひい……っ」
冗談じゃなく泣けてくる。
「これは白ご飯が何杯あっても足りませんねぇ」
「ふふっ、ありがとうございます。薫ちゃんも蓮人くんも、いっぱい食べてくださいね」
「うん! 紗和子さんのごはん、おいしい。お母さんもいつも、おいしいっていってるよ。美智もね、おみせでかったやつより、紗和子さんのごはんすきだよ」
現在、父が仕事で海外に長期出張中、母が多忙のため小花衣家で夕飯を食べているご近所の蓮人がにこにこしながら紗和子に言った。薫もその横でにこにこと頷いている。
「それは良かったです」
紗和子が嬉しそうに微笑んで、子どもたちの頭を交互に撫でた。
ふと親友を見れば、柔らかに目を細めて子どもと妻を見守っている。甘くて優しい眼差しは、ちょっと胸焼けしそうなくらいだ。
「そういえば、蓮人は空手の道場に通うの?」
胸やけするとアジフライが食べられなくなるので、話題の転換を試みる。前回来た時に、千春も講師を務めている空手の道場に通いたいと蓮人が言っていたのを思い出したのだ。
「まだ。でもね、お母さんがお父さんがかえってきたらいいよって。お父さんもね、このあいだのおやすみのひにでんわしたら、いいよっていってくれたんだ! いまは、お父さんもお母さんも、いそがしいから、むりだけど、お父さんがかえってきたら、だいじょうぶだよって」
幼い内は習い事には保護者の付き添いが必要な場合が多い。千春の空手の道場は、大会以外は基本的には送迎だけだが、送迎だって大変だ。それにスポーツドリンクの準備や万が一怪我をした時に病院に連れて行くために二人か三人は順番に見守りとして残る当番があったはずだ。
「そっかそっか、良かったじゃん」
「うん!」
蓮人が嬉しそうに頷く。
蓮人は、恵太によく懐いてくれて、この間も空手の話をしていたのだ。自分の心に余裕がない時に薫を泣かせてしまった蓮人は、どうやら薫を護れる強い男になるために空手をやりたいらしいのだ。内緒だよ、とこっそり教えてくれたので、誰にも言っていない。
一方、薫は、実際に当てるわけではないが(うっかりを除いて)殴ったり蹴ったりする様子が怖いらしく、空手には興味が無いようだった。
「薫ちゃんは習い事しないの?」
「薫は、ピアノ教室に通いたいんですよね」
薫がうんと頷く。
「ただ近所の教室に空きがないのですよ。でも夏休み以降に空きが出るそうなので、順番待ちです。遠いと送迎が大変ですし、薫の体力も心配ですからね。その教室は、うちから徒歩五分なので」
「へぇ。人気なんだ」
「優しい先生で薫みたいなちょっと人見知りの子にも人気の教室なんだそうです。風香ちゃんが通っているんですよ」
「なるほどね」
風香ちゃんは薫の親友の女の子だったと記憶している。
「薫ちゃんのピアノの発表会とか楽しみですねぇ」
ちょっと早い気もするが、紗和子の言葉に恵太も頷く。きっと可愛くおめかしして、舞台で緊張しながらもピアノを弾く姿を想像すると、その成長に泣けてくる。
ここで泣くと引かれそうなので、エビフライを食べて誤魔化す。
太いエビフライはずしりと重い。薫には紗和子が小さく切り分けているが、蓮人は待ちきれなかったのか豪快にかぶりついている。口の周りはタルタルソースだらけだ。
「えっ、うま……エビがぷりっぷりっ!」
口に入れた瞬間、衣の下でぷりぷりの身が弾けた。
「前に恵太が紹介してくれた魚屋さんで買ってきたんですよ。あそこはとても新鮮で美味しいですよね」
「あー、あそこのうまいよねぇ。あそこで買ったアジでなめろうも最高なんだよ」
「紗和子さん、次に行ったときは絶対にアジを買いましょうね」
「ふふっ、はい」
真顔になった千春に紗和子が笑って頷く。
平和だなぁ、と付け合わせのキュウリの糠漬けをぽりぽりかじる。この紗和子謹製糠漬けもめちゃめちゃ美味い。食卓に美味しいしか乗っていない。
お皿が全て空っぽになり、後片付けをする。
片付けを終えたら居間でのんびりタイムだ。
「千春、今日泊まっていい?」
「紗和子さんに聞いて下さい」
「紗和ちゃん、泊まっていい? 朝のゴミ出し、俺行くよ!」
「ふふっ、どうぞ。お布団も干してありますから」
「やったぁ!」
紗和子は「お風呂いただきますね」と薫を連れて風呂に行く。蓮人は、千春と入るが、恵太と入る時もある。
居間でテレビを見ていた蓮人に絡む。
「蓮人ー、今日は俺とお風呂入ろー」
「もう、恵太くんはしょうがないなぁ」
小さな手がよしよしと髪を撫でてくれた。娘もいいけど、息子も可愛い。甥も姪もどっちも可愛いもんなぁとまだ見ぬ将来に思いをはせる。
親友が結婚した当初、さすがの恵太も家に来る回数を減らそうと思ったし、泊まるのもやめようかと思ったが、紗和子が「遠慮しないでくださいね。私は気にしませんから」と言ってくれた。
でも、建前と本音は違うしなと思ったが失恋すれば、勝手に足が小花衣家に向いてしまうのだから厄介だ。
その度、紗和子は「あらあら」と笑って迎え入れてくれるので、すっかり以前と変わらぬ、いや、以前よりも頻繁に小花衣家を訪れている。
千春が行き倒れていないか、確認用に持っていた合い鍵も未だ恵太は持っている。とはいってもこの合い鍵を使ったことは、これまで一度もないが。
紗和子は、人をもてなすのが上手だし、人の世話を焼くのも好きなのだろうなと思う。
小花衣家は、紗和子が来てからとても居心地が良くなっている。実家のような安心感があるのだ。
もちろん、紗和子への感謝の気持ちを忘れないよう恵太は出来るだけ家事を手伝うし、手土産も持参している。
ここへ来ると、美味しいご飯とあったかいお風呂とふかふかの布団があって、また明日も頑張れる気持ちになるのだ。
「千春、お前本当、いい人捕まえたよなぁ」
「紗和子さんはあげませんよ。僕の大事な奥さんですからね」
ふふんと得意げに笑った親友に恵太はやれやれと肩を竦める。蓮人が「うちのお父さんとお母さんもなかよしだよ」と律儀に教えてくれた。
「はぁ、俺も結婚してー」
できれば、笑顔の可愛い日菜子先生と結婚したい。ラブラブハッピーな家庭を築きたい。
蓮人の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、心からの願望を何度目ともつかぬ溜め息とともに吐き出すのだった。
城井恵太にとって、小花衣千春は担当作家であるよりも前に、生まれた時から一緒の幼馴染だった、
家が隣同士で、産院も一緒で、生まれた日も二日違い(千春のほうが先)で、兄と姉も学年が同じで、家族ぐるみの付き合いだった。
だから、千春の姉が亡くなった時は、本当にショックだった。もう一人の姉ちゃんだと恵太は思っていたし、あまりに突然のことで信じられなかった。信じたくなかった。
葬儀場で、泣き崩れる千春の母とその横で立ち尽くす父、茫然とする薫を抱き締めていた千春の決意をした表情を、恵太は一生、忘れないだろう。
最初は本当にどうなることかと思った。突然、両親を喪った薫はそのショックで喋れなくなっていたし、夜泣きや後追いがひどくて、千春は寝不足と疲労でふらふらしていた。恵太も担当編集者のひとりとして、原稿スケジュールをなんとか調整したり、上に掛け合ったり、親友として時に家事を手伝ったりして、陰ながら千春を支えていた。
薫はなんとか回復して、その内、控えめながら笑うようになった。その笑顔がだんだんと増えて、幼稚園に通えるようになった時は、我が事のように安心して泣いてしまったのは、千春には内緒だ。
だが、そう、だが。
ある日、いつも通り親友の家を訪ねたら、まさか嫁さんが出てきたというのは驚き以外の何物でもなかった。
しかもその嫁さんがめちゃくちゃ美人だった。
どうしてだ、なんでだ。
あの幼稚園(徒歩十分)と自宅の往復しかしていないような引きこもり作家が、どうしてこんな美女と出会って結婚できるんだ、と恵太は人生で一番混乱した。
親友のお嫁さんになった紗和子は、笑顔の優しい女性だった。
千春同様、いつも和服姿で、それがとてもよく似合っている。おっとり微笑んで、気が利いて、料理上手。聞けば、未だに恵太にはあんまり懐いてくれない薫も初日から懐いて、今ではちょっと千春の地位が危ういらしい。
親友は、紗和子に一目ぼれして結婚を申し込んだらしいが、あいつならやりそうだなと思った。でも、紗和子がそれを承諾して、出会った翌日に入籍したのは驚いた。似た者夫婦なのかもしれない。
「おれだっで、げっごんじたいぃ~!!」
そして、恵太は今日も小花衣家の縁側で親友の固い膝に突っ伏した。
薫は幼稚園に行っている時間。二人は縁側でのんびりお茶を楽しんでいた様子だった。なんだそれ、羨ましい。
「あらあら」
千春の隣でお茶を飲んでいた紗和子の声がする。
本当は恵太だって女の膝のほうがいいが、親友を失いたくないし、良識はちゃんとあるのだ。
「はぁ……今回はどうしたんです?」
千春が面倒くさそうに尋ねて来る。
「マッチングアプリで、会ったんだ! ちゃんと事前にお互いの趣味も確認した! でも、でも、会って一時間で『ごめん、ついてけない』って言われてフラれたぁ……っ」
「あらら……」
「もうオカルトを諦めるか、結婚を諦めるかの二択ですよ」
ぞんざいに頭を撫でながら千春が言った。
「ヤダヤダヤダ、俺も結婚じたいぃ! 紗和ちゃんみたいなお嫁さんと薫ちゃんみたいな可愛い娘ほじいっ!」
恵太は、これまでまともに女性と長続きしたことがなかった。
だいたいが恵太の趣味である「オカルト」を受け入れてもらえずに破局に至っている。何度か親に頼み込んでお見合いの席も設けてもらったが、趣味が無理と同じ理由で五回連続断られた結果、親にも匙を投げられた。
兄も姉も既に結婚していて、恵太には五人の甥と姪がいるのに、恵太だけ、三十になっても結婚相手のけの字すら見えてこないのだ。
「俺、家事得意だし、子育てだって育休取る気満々なのに……っ」
「そう言われましてもねぇ」
千春がぽんぽんと恵太の頭を撫でながら言った。
「というか恵太、日菜子先生はどうしたんです? この間、僕にあれこれ聞いて来てうるさかったのに……」
恵太は自分の肩が大げさなほどに跳ね上がるのを止められなかった。
「……だって」
「だって?」
「日菜子先生、可愛すぎて……っ、フラれたら、俺、俺ぇ……っ!」
日菜子先生とは、薫の担任先生だ。
くりっとした大きな目に笑顔のとびきり可愛い女性で、性格も明るくてはきはきしていて、子どもたちのために一所懸命な素敵な人だ。
「これはあれですね、本命に怯えるアラサーです」
「そうなんですか。まあ、本命には奥手になる方ってけっこういますものね」
恵太の上で夫婦はのんびりと言葉を交わしている。
「あんなに可愛い日菜子先生に、『オカルト無理』とか言われたら俺が無理ぃ……っ」
「はいはい。日菜子先生はオカルトだめなんです? 連絡先、交換したんでしょう?」
「……聞いてない。むしろ、挨拶だけしかしてない……」
「えっ!? あのコミュニケーション能力の塊と言われた恵太が⁉ 少しでも気になる女性は二秒後には口説き始めていたあの、恵太が!?」
「あらあらあらぁ」
千春は恵太に失礼だし、紗和子は本当に驚いているんだろうかと顔を上げると、ばっちり驚き顔の紗和子と目が合った。リアクションが薄いが本当に驚いているようだ。
顔を上げた恵太の額に千春の手が触れる。
「熱は……ないみたいですね」
「お前、俺のことなんだと思ってんの」
「そう言われましてもねえ。そうだ、今夜は紗和子さん特製タルタルソース付き、アジフライ&エビフライですよ」
「マジで⁉」
恵太は勢いよく立ち上がる。
紗和子の手作りタルタルソースは、市販のタルタルソースが食べられなくなるくらい、美味しいのだ。
茹で玉子を潰して、マヨネーズと和えてそこに、紗和子自家製ピクルスと生の玉葱をみじん切りしたものが入っている。他の調味料は不明だが、とにかくこれが美味しいのだ。
それをアジフライとエビフライにかけて食べられるなんて、最高オブ最高に間違いなかった。
「俺、残りの仕事片付けて来る! 絶対、絶対に夕飯には帰って来るから! 行ってきます!」
恵太は二人に手を振って、門を目指して走り出す。
ああ、絶対に美味しい、と噛み締めながら仕事の予定を脳内で組み直すのだった。
「いっただきまーす!」
恵太は大皿に山盛りのアジフライとエビフライに箸を伸ばし、まずはアジフライを取り皿に連れて来る。
紗和子特製のタルタルソースをたっぷりかけて、大きな口で頬張る。
さくっという衣の軽い音につづいて、じゅわぁとアジの旨味が口いっぱいに広がる。コク深いのにさっぱりしているタルタルソースがその旨味をこれでもかと引き立てて、口の中に幸せが広がる。そこに白米を頬張れば、更に米の甘みが加算されて、美味しいの連鎖が止まらない。ついでに箸も止まらない。
「おいひい……っ」
冗談じゃなく泣けてくる。
「これは白ご飯が何杯あっても足りませんねぇ」
「ふふっ、ありがとうございます。薫ちゃんも蓮人くんも、いっぱい食べてくださいね」
「うん! 紗和子さんのごはん、おいしい。お母さんもいつも、おいしいっていってるよ。美智もね、おみせでかったやつより、紗和子さんのごはんすきだよ」
現在、父が仕事で海外に長期出張中、母が多忙のため小花衣家で夕飯を食べているご近所の蓮人がにこにこしながら紗和子に言った。薫もその横でにこにこと頷いている。
「それは良かったです」
紗和子が嬉しそうに微笑んで、子どもたちの頭を交互に撫でた。
ふと親友を見れば、柔らかに目を細めて子どもと妻を見守っている。甘くて優しい眼差しは、ちょっと胸焼けしそうなくらいだ。
「そういえば、蓮人は空手の道場に通うの?」
胸やけするとアジフライが食べられなくなるので、話題の転換を試みる。前回来た時に、千春も講師を務めている空手の道場に通いたいと蓮人が言っていたのを思い出したのだ。
「まだ。でもね、お母さんがお父さんがかえってきたらいいよって。お父さんもね、このあいだのおやすみのひにでんわしたら、いいよっていってくれたんだ! いまは、お父さんもお母さんも、いそがしいから、むりだけど、お父さんがかえってきたら、だいじょうぶだよって」
幼い内は習い事には保護者の付き添いが必要な場合が多い。千春の空手の道場は、大会以外は基本的には送迎だけだが、送迎だって大変だ。それにスポーツドリンクの準備や万が一怪我をした時に病院に連れて行くために二人か三人は順番に見守りとして残る当番があったはずだ。
「そっかそっか、良かったじゃん」
「うん!」
蓮人が嬉しそうに頷く。
蓮人は、恵太によく懐いてくれて、この間も空手の話をしていたのだ。自分の心に余裕がない時に薫を泣かせてしまった蓮人は、どうやら薫を護れる強い男になるために空手をやりたいらしいのだ。内緒だよ、とこっそり教えてくれたので、誰にも言っていない。
一方、薫は、実際に当てるわけではないが(うっかりを除いて)殴ったり蹴ったりする様子が怖いらしく、空手には興味が無いようだった。
「薫ちゃんは習い事しないの?」
「薫は、ピアノ教室に通いたいんですよね」
薫がうんと頷く。
「ただ近所の教室に空きがないのですよ。でも夏休み以降に空きが出るそうなので、順番待ちです。遠いと送迎が大変ですし、薫の体力も心配ですからね。その教室は、うちから徒歩五分なので」
「へぇ。人気なんだ」
「優しい先生で薫みたいなちょっと人見知りの子にも人気の教室なんだそうです。風香ちゃんが通っているんですよ」
「なるほどね」
風香ちゃんは薫の親友の女の子だったと記憶している。
「薫ちゃんのピアノの発表会とか楽しみですねぇ」
ちょっと早い気もするが、紗和子の言葉に恵太も頷く。きっと可愛くおめかしして、舞台で緊張しながらもピアノを弾く姿を想像すると、その成長に泣けてくる。
ここで泣くと引かれそうなので、エビフライを食べて誤魔化す。
太いエビフライはずしりと重い。薫には紗和子が小さく切り分けているが、蓮人は待ちきれなかったのか豪快にかぶりついている。口の周りはタルタルソースだらけだ。
「えっ、うま……エビがぷりっぷりっ!」
口に入れた瞬間、衣の下でぷりぷりの身が弾けた。
「前に恵太が紹介してくれた魚屋さんで買ってきたんですよ。あそこはとても新鮮で美味しいですよね」
「あー、あそこのうまいよねぇ。あそこで買ったアジでなめろうも最高なんだよ」
「紗和子さん、次に行ったときは絶対にアジを買いましょうね」
「ふふっ、はい」
真顔になった千春に紗和子が笑って頷く。
平和だなぁ、と付け合わせのキュウリの糠漬けをぽりぽりかじる。この紗和子謹製糠漬けもめちゃめちゃ美味い。食卓に美味しいしか乗っていない。
お皿が全て空っぽになり、後片付けをする。
片付けを終えたら居間でのんびりタイムだ。
「千春、今日泊まっていい?」
「紗和子さんに聞いて下さい」
「紗和ちゃん、泊まっていい? 朝のゴミ出し、俺行くよ!」
「ふふっ、どうぞ。お布団も干してありますから」
「やったぁ!」
紗和子は「お風呂いただきますね」と薫を連れて風呂に行く。蓮人は、千春と入るが、恵太と入る時もある。
居間でテレビを見ていた蓮人に絡む。
「蓮人ー、今日は俺とお風呂入ろー」
「もう、恵太くんはしょうがないなぁ」
小さな手がよしよしと髪を撫でてくれた。娘もいいけど、息子も可愛い。甥も姪もどっちも可愛いもんなぁとまだ見ぬ将来に思いをはせる。
親友が結婚した当初、さすがの恵太も家に来る回数を減らそうと思ったし、泊まるのもやめようかと思ったが、紗和子が「遠慮しないでくださいね。私は気にしませんから」と言ってくれた。
でも、建前と本音は違うしなと思ったが失恋すれば、勝手に足が小花衣家に向いてしまうのだから厄介だ。
その度、紗和子は「あらあら」と笑って迎え入れてくれるので、すっかり以前と変わらぬ、いや、以前よりも頻繁に小花衣家を訪れている。
千春が行き倒れていないか、確認用に持っていた合い鍵も未だ恵太は持っている。とはいってもこの合い鍵を使ったことは、これまで一度もないが。
紗和子は、人をもてなすのが上手だし、人の世話を焼くのも好きなのだろうなと思う。
小花衣家は、紗和子が来てからとても居心地が良くなっている。実家のような安心感があるのだ。
もちろん、紗和子への感謝の気持ちを忘れないよう恵太は出来るだけ家事を手伝うし、手土産も持参している。
ここへ来ると、美味しいご飯とあったかいお風呂とふかふかの布団があって、また明日も頑張れる気持ちになるのだ。
「千春、お前本当、いい人捕まえたよなぁ」
「紗和子さんはあげませんよ。僕の大事な奥さんですからね」
ふふんと得意げに笑った親友に恵太はやれやれと肩を竦める。蓮人が「うちのお父さんとお母さんもなかよしだよ」と律儀に教えてくれた。
「はぁ、俺も結婚してー」
できれば、笑顔の可愛い日菜子先生と結婚したい。ラブラブハッピーな家庭を築きたい。
蓮人の頭をぐしゃぐしゃと撫でながら、心からの願望を何度目ともつかぬ溜め息とともに吐き出すのだった。
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