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第四話 手巻き寿司パーティー

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 ふと目が覚めて、体を起こす。
 二間の和室に敷かれた布団では、皆が穏やかな寝息を立てている。
 応接間の方から日菜子、美智、京子、蓮人、紗和子、薫、千春、恵太と並んでいるはずなのだが、京子の姿がなかった。
 お手洗いか何か行ったのだろうか、と辺りを見回し、足元側の雪見障子が少し開いているのに気づいた。
 紗和子は、薫と蓮人を起こさないようにそっと立ち上がり、廊下へと出る。
 小花衣家の庭にぽつんと人影があった。今は空っぽの池の傍に京子がいて、満月に近い丸い月が浮かぶ夜空を見上げている。

「紗和子さん」

「ひっ」

 突然、後ろから声を掛けられて悲鳴が漏れそうになる。咄嗟に口を押えて振り返れば、いつの間にか、千春が後ろに立っていた。

「す、すみません。驚かせてしまいました」

「い、いえ。私のほうこそ、起こしてしまいましたか」

 千春は首を横に振って、手に持っていた紺色の羽織を紗和子の肩に掛けてくれた。百八十センチ以上も背丈がある千春が使う羽織は、とても大きくて紗和子には長羽織のようになってしまう。着物は彼の祖父の遺品なので、彼の祖父も随分と背が高かったようだ。

「もうすぐ五月とはいえ、まだ夜は冷えます。様子を見に行くのなら着て行ってください」

「ありがとうございます」

 ふわり、と香る白檀は柔らかく紗和子を包み込んでくれる。
 紗和子は、千春に見送られるようにして、縁側から草履をはいて外へと出る。震えるほど寒いわけではないが、ひんやりとした空気が夜を包んでいる。

「京子さん」

 声を掛けると、京子の肩が大きく跳ねて驚いたように振り返った。

「あ、さ、紗和子さん」

「ごめんなさい、驚かせてしまいましたね」

 先程、千春が言った言葉と同じようなことを紗和子も口にする。

「私のほうこそ、起こしちゃったかしら」

「いえ、ただなんとなく目が覚めただけです。京子さんがいなかったので、どうされたのかな、と」

 紗和子は、京子の隣に並んで彼女がそうしていたように空を見上げる。あと、二日か三日で満月になるだろう月は、真ん丸に見えるけれど少し欠けている。

「紗和子さんは、結婚して何年?」

「実はまだ一カ月です」

 驚いたように京子が振り返った。京子は、紗和子より背が高いので、少し見上げるように首を動かす。

「京子さんがご存じなくても仕方ありませんよ。まだ越してきたばかりですし」

「え、でも薫ちゃんは」

「薫ちゃんは、実際は千春さんの姪です。事故で亡くなられたお姉様夫婦の娘さんで、千春さんが唯一の肉親として引き取ったのだそうです」

「事故……もしかしてだから、喋れないの?」

「ええ。ご両親を突然失ったことが原因だと……千春さんは町内では有名人ですから、皆さん知っていることなので、京子さんにもお話しておこうと思って」

「そう……本当の親子だと思ってたわ」

 思わぬ言葉は、紗和子に喜びを与えてくれる。お礼を言うと京子は「本当にそう思ったんだもの」と肩を竦めた。

「……私、結婚する気なんてなかったの」

 不意に京子が言った。紗和子は、黙って耳を傾ける。

「大樹くん……夫に出会うまで、本当に、結婚する気も子どもを持つ気も更々なかったの。弁護士としてバリバリ働いてキャリアを積んでいくつもりだった。だから家事なんてする気もなかったし、外注すればいいって思っていたし、事実そうしていたわ」

 京子の声は静かに凪いでいた。

「でも、大樹くんに出会って、家事は俺が全部するから結婚してって言われて、私、二十九歳で結婚して、三十で蓮人を産んだの。本当は、子ども、産む気はなかったのよ」

 京子がちらりと家の方を見た。つられて紗和子もそちらに顔を向けるが、千春も布団に戻ったのか、そこには誰もいない。

「でも、出来ちゃって……大樹くんは大喜びだったけど、私……最初は気持ち悪くて仕方なかった」

 つわりじゃなくてね、と京子は目を伏せた。

「膨れていくお腹が気持ち悪くて、ここに子どもが入っているなんて信じたくなくて、産みたくないとさえ思った。愛せるのかな、ってずっと不安だった。でも、私が愛せなくても大樹くんがいると思ったから産めたの。大樹くんの子どもなんだと思ったら堕ろそうなんて考えられなかった。蓮人、生まれた時四〇〇〇グラム近くあって、臨月に入るとまあ重いし、腰は痛いし、胃は圧迫されて気持ち悪いしで大変だった。陣痛との戦いなんて二十八時間にも及んだのよ? それに立ち合い出産だったんだけど、あまりに痛くて大樹くんの髪の毛、むしっちゃったのよ、私」

 その時のことを思い出したのか、ふふふっと京子が笑った。

「……ようやく蓮人が産まれて、産声が聞こえて、処置を終えて『元気な男の子ですよ』って先生が抱かせてくれたの。しわくちゃで真っ赤っかで人間より猿みたいで……――ああ、-なんて可愛いんだろうって思った。二十八時間の陣痛も十カ月間のつわりや腰痛やむくみや、そういうのが全部吹っ飛んじゃうほど、愛しくて愛しくてたまらなかった。会えて嬉しいって、本当は私、会いたかったんだって心から思ったの」

 京子の横顔に優しい笑みが浮かぶ。

「産まれるまで、あんなに気持ち悪いって思ってたのに、実際の蓮人を見たら、可愛くて可愛くて、私からこんなに可愛いの赤ちゃんが産まれたなんて嘘みたいって思ったわ。産休が開けて、働き出す時、私、蓮人と離れるのが寂しくて泣いたほどなんだから」

 さああと風が吹いて、咲き始めた牡丹の苦く甘い香りが鼻先を撫でていく。

「美智を妊娠した時にね気が付いたの。蓮人を妊娠している時の私は、大きくなるお腹が気持ち悪いって思っていたけど……本当は怖かったんだって。母親になることって、重大な責任が伴うじゃない。裁判で感じる責任だって重いけど……でも、そうじゃないのよ。何か一つ間違えば死んじゃうような、柔くて弱い命なの。それが怖かったんだなって」

「今も、怖いですか」

 紗和子の問いに京子は、目を伏せた。

「……大樹くんがいたら、怖くないけど、私だけだと怖いわ。……蓮人を叩いちゃったこと、本当に後悔しているの。めって指でつんとすることくらいはあったけど、叩いたことなんて一度もなかった。蓮人だって、あんなに暴れたり、誰かを傷つけるようなことはしない子だった。……私、母親失格ね。大樹くんがいないと、母親にもなれない」

 京子が腕に付けたままの腕時計に触れる。
 よくみれば、それはバンドも太く時計部分も大きくて、おそらく男物だった。

「……これね、大樹くんの時計なの」

 紗和子の視線に気づいたのか、京子が教えてくれる。

「結婚する前にペアで買った時計でね、出張に行く前に交換したの。まあ、彼は男だから女性向けの時計だとベルトが足りなくて、ポケットに入れてるけどね」

 だからか、と紗和子は、今日の心から溢れるオレンジ色のレースのリボンがその時計にぐるぐるに巻き付いていた理由を見つける。
 彼女の心のよりどころである夫のものだから、彼女の心はその腕時計にしがみついていたのだ。

「きっと、出張に行ったのが私だったら、こんなことにはならなかっただろうなぁ……」

 京子が、ぽつりと言った。自分を責める色がありありと浮かんでいる。

「人には得手不得手があります。でも、だから人は一人では生きて行けないのだと、私は思うのです」

「……でも、ほとんどの母親が当たり前にできていることが私は、」

「だから、大樹さんと京子さんが巡り合って、蓮人くんと美智ちゃんが産まれたんです」

 京子がパチリと目を瞬かせて顔を上げた。

「家事が苦手な京子さんに家事が得意な大樹さん。出会うべくして、出会った二人です。大樹さんに苦手なことは、ありますか?」

「……虫よ。虫の類が一切ダメなの。蟻一匹でも大騒ぎなの」

「京子さんも虫は苦手ですか?」

「私は、どんな虫でも平気よ」

「ほら、ぴったりです」

「でも、虫なんて……」

「大樹さん、虫で困ると京子さんに一番に頼るんじゃないですか?」

「え、ええ。私か蓮人に泣きついて来るわ。蓮人も私が平気だからか、むしろ虫は好きみたいだし」

「ふふっ、そうやって足りないところを補える。素敵なことじゃないですか。京子さんが今、一生懸命なのは分かっています。でも苦手を克服することは素晴らしいことですが、完璧な人間なんてこの世にはいません。ですから、自分一人きりでは補えないことってあるんです。もしかしたら海外にいる旦那様も「京子ー、虫取ってくれー」って泣いてらっしゃるかもしれませんよ」

「そう、かもしれないわ、行ってるのオーストラリアだから。あそこ、虫のサイズが尋常じゃないのよ」

 京子が、ふっと小さく笑った。

「ねえ、京子さん。私、前職が家政婦なんです。社長の不祥事で会社がなくなっちゃいまして、今は元家政婦ですが、家政婦として磨いた腕は私の自慢です」

 きょとんとして京子が首を傾げる。

「週に二度か三度、京子さん宅のお掃除、お洗濯、お食事、どれか一つでも私に任せて下さいませんか? もちろん、旦那様が帰っていらっしゃるまでの期限付きで構いません」

「で、でも……紗和子さんだって家事もあるし、薫ちゃんもいるのに」

「私はプロの家政婦です。我が家は、三人暮らしですし、薫ちゃんが幼稚園に行っている間にささっとさせて頂ければと思っています」

「うち……今本当に足の踏み場もないくらい散らかってるの。私、片付けも苦手だし」

「でしたら、明日、一緒に片づけましょう。子どもたちは、千春さんが見ていてくれますから。……そして、これは千春さんからの提案なのですが、京子さんが迎えに来られる時間まで、蓮人くんを家でお預かりしますよ」

「……」

「もちろん、京子さんがお嫌でしたら断って下さって構いません。これは私たちのいわゆる『お節介』に過ぎませんから。でも、折角、ご近所さんになれたんですし、私は京子さんにも蓮人くんや美智ちゃんにも、笑っていてほしいです」

 さぁぁと二人の間を風が吹き抜けていく。肌寒さに紗和子は、大きな羽織の襟を引き寄せ首を竦める。

「京子さん、今夜はとりあえず戻りましょうか。まだまだ夜は冷えま……」

 家を振り返った紗和子の羽織の袖が、くいっと引かれる。ゆっくりと振り返れば、薫に謝った時の蓮人と同じ顔をした京子が紗和子を見つめていた。

「…………たよってもいい?」

 頼りないその弱弱しい声に紗和子は、ぱちりと目を瞬かせた後、ふっと微笑んで京子の手を取った。随分と冷たくなってしまっている手を温めるように両手で握りしめる。

「もちろんです。代わりに私、まだママ友がいないので、ママ友になってください」

「……私で、いいの? ママなんて胸張って言えるようなママじゃないのに」

「蓮人くんも美智ちゃんも、ママが大好きじゃないですか。これ以上の何がママであることに必要なんですか」

 とんとんとあやすように京子の手を撫で、その顔を覗き込んだ。ぽろりと落ちた涙は、安堵からくるものなのだろうか。紗和子は、柔らかに微笑んで「大丈夫ですよ」と言った。

「……ありがとう、紗和子さん。ママ友優遇で訴訟関係のことは幾らでも相談してね」

「ふふっ、本当ですか? 心強いです。さあ、寝ましょうか。明日も朝から大忙しですよ」

 京子の手を引き歩き出す。
 京子は何も言わなかった。紗和子も何も言わなかった。
 だが、二人の間の沈黙は、決して居心地の悪いものではなかった。
 縁側から中へと上がり、雨戸を閉めて雪見障子を開けて部屋へと入る。
 京子が蓮人と美智の間に横になり、紗和子も羽織を畳んで枕元に置き、薫と蓮人の間に寝転ぶ。
 ごそごそと薫が動いて、起こしてしまったかと焦るが紗和子を見つけるとふにゃんと笑って身を寄せてきた。そっと抱き寄せると子ども特有の高めの体温が心地よかった。
 ふと顔を上げると薄眼を開けた千春と目が合った。紗和子が微笑むと千春も、ふっと笑って薫の頭を撫で、何故か紗和子の頭も撫でると、ゆっくりと目を閉じた。
 思わぬことに固まる紗和子を他所に、千春からはすーすーと穏やかな寝息が聞こえてくる。
 大きな手だった。眠いからか温かく、でも、固い手の平は、薫の柔い小さな手とも紗和子の細い手ともまるで違う、男の人のものだった。

「……ね、寝ぼけていたんでしょうね」

 とろんとしていた一重の眼差しを思い出して、紗和子はなんとか心を落ち着けるのだった。

 



「蓮人、日菜子先生と紗和子さんの言うこと、ちゃんと聞くのよ?」

「うん。お母さんも、おしごとがんばってね」

 掃除で一日が終わった日曜日を乗り越えた月曜日。
 幼稚園の門の前で京子がしゃがみこみ、蓮人と視線を合わせている。
 紗和子は、それを千春と薫、そして日菜子と共に見守っていた。
 御影家の掃除は、散らかっているとはいえ、ゴミなどをまとめておもちゃを片し、洗濯物を片付ければ、まだどうにかなる程度だった。必要な物は出してあると言うので、リビングに積み上げられていた荷物は、とりあえず使っていない部屋に恵太と千春が運び込み、紗和子が一番使うリビングダイニングとキッチン、親子三人で寝ているという広い主寝室と水周りを掃除すれば、それで体裁は整った。とはいえ、洗濯物はまだアイロンがけなどが残っていて片付いていないので、今日のお昼に行って片付ける予定だ。

「薫ちゃん、行ってらっしゃい」

 紗和子もしゃがみ込み、いつもと同じように薫をぎゅっとする。薫もぎゅっと抱き着いて来て、小さな手がとんとんと背を叩く合図に離れる。
 紗和子から離れた薫が、同じように京子とぎゅっと挨拶をして離れた蓮人に手を差し出す。蓮人が首を傾げていると薫は、蓮人の手を取り、園舎を指差して笑う。

「一緒に行こう、と言っていますよ」

 千春がそう教えると蓮人は「うん!」と嬉しそうに頷いて、薫の手を握り返す。

「お母さん、いってきまーす」

 蓮人が笑顔で薫と一緒に手を振って、園舎に駆けて行く。

「御影さん、蓮人くんのことはお任せくださいね」

 日菜子がぐっと拳を握りしめて力強く言った。

「よろしくお願いします。紗和子さんと千春さんも、よろしくお願いします」

「はい。京子さんもお仕事頑張ってくださいね」

 紗和子が見送るように手を振ると京子は「行ってきます」と頭を下げて、颯爽と駐車場へと駆けて行く。今日の彼女のスーツは皺ひとつなく、びしっと決まっていて、その背中も心なしかぴんと背筋が伸びている。

「さて、僕たちも帰りましょうか」

「はい。それでは日菜子先生、よろしくお願いします」

 千春と揃って日菜子に頭を下げて、幼稚園を後にする。

「今日から大変だと思いますが、僕も出来る限りのことはしますので、いくらでも頼って下さいね。洗濯物とか畳めます」

 頭一つ高いところにある千春の顔を見上げて、紗和子は小さく笑みを零す。

「ありがとうございます。千春さんは、優しいですね」

 紗和子がそう口にすると千春は「そんなことはないですよ」と言いながら顔を空へと向けてしまった。髪の隙間から見える耳が赤くなっているのには気づかないふりをする。

「千春さん、今日のお夕飯は薫ちゃんのリクエストで肉じゃがなんです。小鉢をつけようと思うのですが千春さんは何か食べたいものはありますか?」

「……なにか、いんげんでもホウレン草でもいいので、ごまあえを」

「ふふっ、分かりました」

 未だに赤い耳を持て余す千春の隣を歩きながら、紗和子は、小さく笑ったのだった。


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