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Scene 3
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それから数日が過ぎた。
その間、伊沢が『ムーンリバー』を訪れることはなかった。
カウンター席に毎日のように現れていた伊沢がやってこないことに空虚な感覚が雪音にはあった。
彼に懐いていたゆんも居場所を探すかのように、雪音の足元をうろうろとしていた。
「ゆんも寂しいの? 伊沢さん、どうしちゃったんだろうねぇ」
膝を折り、ゆんに目線を合わせながら雪音は言った。
そして思った。ゆんが伊沢を寂しがることはよいが、自分が思うのはダメだなと。長い間、伊沢の好意を知りながら、それは本気ではないと思うようにして、はっきりと断らず時間だけが過ぎてきた。
「いなくなってから寂しがるなんて私はダメな女だね」
そんな独り言をつぶやいた雪音に、ゆんが細い声で鳴きながらくっついてきた。雪音はゆんを愛おしく思い、抱きしめようとした。しかし、ゆんは雪音の両腕をすり抜けるように逃げていった。そのまま入り口のほうへと歩いていく。
「ゆんにも避けられちゃうかぁ……」
そう呟いたとき、店のドアが開いた。
入ってきたのは、背の高い細身の男性、伊沢だった。ゆんが伊沢の足元に寄っていく。
「いらっしゃいませ」
立ち上がった雪音は嬉しくなり伊沢に微笑みかけた。伊沢もまたいつもの笑みを浮かべた。
「やぁ久しぶり、雪音ちゃん」
「もう来ないのかなって思ってましたよ」
「ここのコーヒーは僕の愛するものだからね。ただ……それでもここ数日はお店の中にいるわけにはいかなくてね」
「……どういう意味ですか?」
「店の中じゃわからないこともあるからさ。ちょっと待ってて」
と伊沢はいつものカウンター席には座らず、またドアを開けた。どうしたんだろう? とドアの向こうを雪音は覗き込んだ。その瞬間、全身に電流が走ったような感覚があった。もうずっと感じていなかったような感覚だった。
「嘘……」
「ほら、早く入って」
伊沢がドアの向こうにいる人物の腕を引いた。流されるように店に入ってきたのは男性だった。その顔を改めて確認し、雪音は何度も瞬きを繰り返した。
店に入ってきたのは、亮介だった。
*
亮介は、雪音を見ながらどこか照れくさそうに微笑んだ。
それはかつて二人が大学生だった頃、付き合い出した頃に見せたような微笑みで、雪音は目に涙が溜まっていくのを感じた。
「どうして……なんで、伊沢さんと……」
雪音の言葉に、亮介は何も言わず、やや俯いた。「やれやれ」と伊沢が口を開く。
「雪音ちゃんから彼の話はいろいろ聞かされてた。ああ、綺羅ちゃんからもね。現世でしっかり娘さんを育て上げ、他の女にも揺るがなかった男が雪音ちゃんを本当に裏切るかなと考えたとき……オレが聞いてた人物どおりならばそんなことはしないだろうって思ってた。ただ、実際、彼は現れなかった。それはなぜか?」
伊沢が亮介の顔を見た。それから雪音を見た。
「何かすぐに会いに行けないためらいがあるんだろうとオレは思った。そして、それならこの店の近くにまで来ていたりするんじゃないかなって思ったんだ。それでここ数日、探偵きどりで店を見ている男がいないかチェックしていたんだよ。そしたらここ一週間、毎日、店を見ている彼を見つけて確信したわけさ。彼が藤井亮介だと」
「それで最近、伊沢さんはお店に来なかったんですか……」
「そうだね。オレのものにならないなら……せめて幸せになってほしくてね」
そう言って伊沢は亮介の左肩をポンと叩いた。
「あとは君の番だ。フラれた男をこれ以上、晒し者にしないでくれ」
耳元でそう言うと、伊沢は振り返り「また来るよ」と言って、店を出ていった。
呆然としている雪音の前に亮介が立った。
その間、伊沢が『ムーンリバー』を訪れることはなかった。
カウンター席に毎日のように現れていた伊沢がやってこないことに空虚な感覚が雪音にはあった。
彼に懐いていたゆんも居場所を探すかのように、雪音の足元をうろうろとしていた。
「ゆんも寂しいの? 伊沢さん、どうしちゃったんだろうねぇ」
膝を折り、ゆんに目線を合わせながら雪音は言った。
そして思った。ゆんが伊沢を寂しがることはよいが、自分が思うのはダメだなと。長い間、伊沢の好意を知りながら、それは本気ではないと思うようにして、はっきりと断らず時間だけが過ぎてきた。
「いなくなってから寂しがるなんて私はダメな女だね」
そんな独り言をつぶやいた雪音に、ゆんが細い声で鳴きながらくっついてきた。雪音はゆんを愛おしく思い、抱きしめようとした。しかし、ゆんは雪音の両腕をすり抜けるように逃げていった。そのまま入り口のほうへと歩いていく。
「ゆんにも避けられちゃうかぁ……」
そう呟いたとき、店のドアが開いた。
入ってきたのは、背の高い細身の男性、伊沢だった。ゆんが伊沢の足元に寄っていく。
「いらっしゃいませ」
立ち上がった雪音は嬉しくなり伊沢に微笑みかけた。伊沢もまたいつもの笑みを浮かべた。
「やぁ久しぶり、雪音ちゃん」
「もう来ないのかなって思ってましたよ」
「ここのコーヒーは僕の愛するものだからね。ただ……それでもここ数日はお店の中にいるわけにはいかなくてね」
「……どういう意味ですか?」
「店の中じゃわからないこともあるからさ。ちょっと待ってて」
と伊沢はいつものカウンター席には座らず、またドアを開けた。どうしたんだろう? とドアの向こうを雪音は覗き込んだ。その瞬間、全身に電流が走ったような感覚があった。もうずっと感じていなかったような感覚だった。
「嘘……」
「ほら、早く入って」
伊沢がドアの向こうにいる人物の腕を引いた。流されるように店に入ってきたのは男性だった。その顔を改めて確認し、雪音は何度も瞬きを繰り返した。
店に入ってきたのは、亮介だった。
*
亮介は、雪音を見ながらどこか照れくさそうに微笑んだ。
それはかつて二人が大学生だった頃、付き合い出した頃に見せたような微笑みで、雪音は目に涙が溜まっていくのを感じた。
「どうして……なんで、伊沢さんと……」
雪音の言葉に、亮介は何も言わず、やや俯いた。「やれやれ」と伊沢が口を開く。
「雪音ちゃんから彼の話はいろいろ聞かされてた。ああ、綺羅ちゃんからもね。現世でしっかり娘さんを育て上げ、他の女にも揺るがなかった男が雪音ちゃんを本当に裏切るかなと考えたとき……オレが聞いてた人物どおりならばそんなことはしないだろうって思ってた。ただ、実際、彼は現れなかった。それはなぜか?」
伊沢が亮介の顔を見た。それから雪音を見た。
「何かすぐに会いに行けないためらいがあるんだろうとオレは思った。そして、それならこの店の近くにまで来ていたりするんじゃないかなって思ったんだ。それでここ数日、探偵きどりで店を見ている男がいないかチェックしていたんだよ。そしたらここ一週間、毎日、店を見ている彼を見つけて確信したわけさ。彼が藤井亮介だと」
「それで最近、伊沢さんはお店に来なかったんですか……」
「そうだね。オレのものにならないなら……せめて幸せになってほしくてね」
そう言って伊沢は亮介の左肩をポンと叩いた。
「あとは君の番だ。フラれた男をこれ以上、晒し者にしないでくれ」
耳元でそう言うと、伊沢は振り返り「また来るよ」と言って、店を出ていった。
呆然としている雪音の前に亮介が立った。
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