10 / 16
三話 残響と序奏
03
しおりを挟む
「外に出るのは34年ぶりです……」
「それだけブランクがあれば戸惑うことも多そうですね。切り出したのはわたしですし、わたしのほうが街には詳しいですから、適当に気軽にぶらつきましょう。別にこれが最後ってわけでもないんで」
屋敷の外へ出る時点ですでに軽くおろおろしていたとおるを導く。
人の姿になる前はどうだったんだ、と尋ねたくなったが別にそれは夕食の時でも良いか、とひとまず置いておいた。
アスファルトの上を不思議そうに歩み、時折通る車には少し怯えて。
しかし、とおるは車道側を歩いてくれていた。
それは無意識なのか、男性としての配慮なのか、どちらなのかは解らない。
しかし泉にはなんとなく、男性としての配慮のように思えたのだった。
きっととおるにとって恐ろしい存在であろう車が、現代人にとっても危険であることを知っているのだろう。
だから泉がその危険に晒されないよう、いざとなれば自分が守れるよう、そちら側にいるのだと。
ほどなくして賑わいのある通りに出て、車道と歩道が柵で区切られていることにより龍神は少しほっとした様子を見せる。
「このあたりも随分変わりましたね……昔はもっと素朴な店が並んでいたものです」
「……それは、34年より前のことですか?」
意外と尋ねるチャンスが早く訪れたので訊いてみた。
するととおるは街並みに視線を配らせながら目を細め、穏やかな声で説明する。
「いいえ。この姿になってから、私は私の加護が届く範囲内であればあらゆるものを『視る』ことが出来るようになりました。34年前は、個人が経営する小規模な店が多かったんですよ。この美容院などは、確か4年ほど前に出来たばかりですね」
また神様要素を提示されたので、少し困惑してしまった。
一方的に泉を知っていたのも、その『視る』能力によるものなのだろうか。
それにしても、加護が届く範囲を認識出来るなんて相当の情報量だろうに、処理できるのはさすが神様と言うべきか。
……先日の盗み聞きも、もしかしたらバレているのかもしれない。
「ですが、こうして実際に訪れてみると、全然違いますね。香りや音、私の能力だけでは感じられないものを肌で感じ取ることが出来ます」
「文字通り、視覚情報しか解らないってことですか」
「ええ。なので今も、この……何か甘い匂いがしますが、それがどこから来るのか解りません。今の時代でこうして甘い香りを通りにまで漂わせるものが何かすら……」
言われてみれば、鼻腔を擽る甘い香りに気が付く。
ホットケーキ、クレープ、そういった小麦粉で出来た焼き菓子のものに近いがこのあたりにそんな店などあっただろうか、と泉は首をあちらこちらへ向けてその発生源を探った。
「……たい焼き」
「え?」
泉が香りの元に気付くより前に、とおるが「あれです」と指で示したのはキッチンカーだった。
それならば香りが通りに広がるのも当然だし、泉の記憶に無いのも合点がいくし、なによりでかでかと書かれた『たい焼き』の文字でとおるが判別出来るのも自然である。
「食べてみますか?」
その質問は、愚問。
解り切った答えを携えて、ふたりはキッチンカーへと歩を進めた。
「とおるさん結構俗っぽいもの食べてましたよね、あんこもありますけどカスタードも今わりとメジャーだし食べたことありますか」
「そう、ですね……カスタードクリームは解りますがたい焼きを食べたことは無い……かと……」
メニューを前にして、とおるは眉根に深い皺を寄せる。悪くないはずの目で並ぶ文字列をじっと見つめて険しい顔をしていた。
確かにたい焼きは家庭で作るものではないし、屋敷での食生活で出来合いの何かが並ぶことは無かった。
もしかして、と思い泉は提言してみる。
「……ふたりで別々のものを頼んで、半分にしませんか? それなら二種類食べられますよ」
「……! で、ですがそれでは……泉さんはどの味が食べたいのですか? 私もひとつに絞るので少々お時間を頂けたら……」
当たりだ、何味にするか迷っているらしい。
あんこもカスタードクリームも食べたことはある。しかし『たい焼きの中身として』食べたことはないのだ。
ふたりでの外出はこれで最後ではなくとも、キッチンカーはいずれどこかへと去ってしまう。
その時、泉の中でなにかがちらりと燻ぶった。
いつもいつも、とおるはこちらを優先してくれるけれど、とおるの喜びは、幸せは、些細なことで後回しにされすぎではないだろうか?
彼の本心が見えない。それがもどかしいのだ、結局いつだってそこに思考が帰ってくる。
同時に、彼の喜ぶところをきちんと見てみたい、とも。
「わたしはたい焼きなんていろいろ食べてきましたから。今、わたしはとおるさんとふたりで出かけてるんですよ。それなら、ふたりともが嬉しいようにしたいです。わたしは、とおるさんにもちゃんと喜んで欲しい」
「……っ」
蒼いひとみが、驚きに見開かれる。
何かを言いかけて口をわずかに開き、しかしそれは一度閉じられて。
へにゃりと笑うと、「ありがとうございます」と子どものような声色で無邪気に礼を告げられるものだから。
心臓が跳ねたことに対して、この感情を、この感覚を、どう名付けようか。
「それだけブランクがあれば戸惑うことも多そうですね。切り出したのはわたしですし、わたしのほうが街には詳しいですから、適当に気軽にぶらつきましょう。別にこれが最後ってわけでもないんで」
屋敷の外へ出る時点ですでに軽くおろおろしていたとおるを導く。
人の姿になる前はどうだったんだ、と尋ねたくなったが別にそれは夕食の時でも良いか、とひとまず置いておいた。
アスファルトの上を不思議そうに歩み、時折通る車には少し怯えて。
しかし、とおるは車道側を歩いてくれていた。
それは無意識なのか、男性としての配慮なのか、どちらなのかは解らない。
しかし泉にはなんとなく、男性としての配慮のように思えたのだった。
きっととおるにとって恐ろしい存在であろう車が、現代人にとっても危険であることを知っているのだろう。
だから泉がその危険に晒されないよう、いざとなれば自分が守れるよう、そちら側にいるのだと。
ほどなくして賑わいのある通りに出て、車道と歩道が柵で区切られていることにより龍神は少しほっとした様子を見せる。
「このあたりも随分変わりましたね……昔はもっと素朴な店が並んでいたものです」
「……それは、34年より前のことですか?」
意外と尋ねるチャンスが早く訪れたので訊いてみた。
するととおるは街並みに視線を配らせながら目を細め、穏やかな声で説明する。
「いいえ。この姿になってから、私は私の加護が届く範囲内であればあらゆるものを『視る』ことが出来るようになりました。34年前は、個人が経営する小規模な店が多かったんですよ。この美容院などは、確か4年ほど前に出来たばかりですね」
また神様要素を提示されたので、少し困惑してしまった。
一方的に泉を知っていたのも、その『視る』能力によるものなのだろうか。
それにしても、加護が届く範囲を認識出来るなんて相当の情報量だろうに、処理できるのはさすが神様と言うべきか。
……先日の盗み聞きも、もしかしたらバレているのかもしれない。
「ですが、こうして実際に訪れてみると、全然違いますね。香りや音、私の能力だけでは感じられないものを肌で感じ取ることが出来ます」
「文字通り、視覚情報しか解らないってことですか」
「ええ。なので今も、この……何か甘い匂いがしますが、それがどこから来るのか解りません。今の時代でこうして甘い香りを通りにまで漂わせるものが何かすら……」
言われてみれば、鼻腔を擽る甘い香りに気が付く。
ホットケーキ、クレープ、そういった小麦粉で出来た焼き菓子のものに近いがこのあたりにそんな店などあっただろうか、と泉は首をあちらこちらへ向けてその発生源を探った。
「……たい焼き」
「え?」
泉が香りの元に気付くより前に、とおるが「あれです」と指で示したのはキッチンカーだった。
それならば香りが通りに広がるのも当然だし、泉の記憶に無いのも合点がいくし、なによりでかでかと書かれた『たい焼き』の文字でとおるが判別出来るのも自然である。
「食べてみますか?」
その質問は、愚問。
解り切った答えを携えて、ふたりはキッチンカーへと歩を進めた。
「とおるさん結構俗っぽいもの食べてましたよね、あんこもありますけどカスタードも今わりとメジャーだし食べたことありますか」
「そう、ですね……カスタードクリームは解りますがたい焼きを食べたことは無い……かと……」
メニューを前にして、とおるは眉根に深い皺を寄せる。悪くないはずの目で並ぶ文字列をじっと見つめて険しい顔をしていた。
確かにたい焼きは家庭で作るものではないし、屋敷での食生活で出来合いの何かが並ぶことは無かった。
もしかして、と思い泉は提言してみる。
「……ふたりで別々のものを頼んで、半分にしませんか? それなら二種類食べられますよ」
「……! で、ですがそれでは……泉さんはどの味が食べたいのですか? 私もひとつに絞るので少々お時間を頂けたら……」
当たりだ、何味にするか迷っているらしい。
あんこもカスタードクリームも食べたことはある。しかし『たい焼きの中身として』食べたことはないのだ。
ふたりでの外出はこれで最後ではなくとも、キッチンカーはいずれどこかへと去ってしまう。
その時、泉の中でなにかがちらりと燻ぶった。
いつもいつも、とおるはこちらを優先してくれるけれど、とおるの喜びは、幸せは、些細なことで後回しにされすぎではないだろうか?
彼の本心が見えない。それがもどかしいのだ、結局いつだってそこに思考が帰ってくる。
同時に、彼の喜ぶところをきちんと見てみたい、とも。
「わたしはたい焼きなんていろいろ食べてきましたから。今、わたしはとおるさんとふたりで出かけてるんですよ。それなら、ふたりともが嬉しいようにしたいです。わたしは、とおるさんにもちゃんと喜んで欲しい」
「……っ」
蒼いひとみが、驚きに見開かれる。
何かを言いかけて口をわずかに開き、しかしそれは一度閉じられて。
へにゃりと笑うと、「ありがとうございます」と子どものような声色で無邪気に礼を告げられるものだから。
心臓が跳ねたことに対して、この感情を、この感覚を、どう名付けようか。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
大丈夫のその先は…
水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。
新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。
バレないように、バレないように。
「大丈夫だよ」
すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写はすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる