22 / 27
22. 今なら、まだ間に合う
しおりを挟む
「おはようございます」
えんじ色のネクタイに、黒のスリーピースをカチッと決め、カフェバーに入ってきたのは、上代だった。
「おはようございます、オーナー」
上代を迎えたのは、この店のマネージャーを務める、梶だった。
梶は、上代の学生時代の同級生。
大学を卒業してからも仲がよかったせいもあって、上代の店で働いており、飛びぬけて何か才能が秀でているわけでもないが、とかく真面目で、上代は信頼を寄せていた。
「昨日の売り上げのチェックはどうですか?」
かけているメガネのブリッジを指で上げ、上代は事務所にスタスタと向かいながら、梶に尋ねた。
「はい、完了しております」
梶は、上代の後を追うように、続けて事務所に入ってゆく。
「スタッフの方はどうですか?皆さん、ちゃんとやっていますか?辞めそうになっていた中村はその後どうですか?」
上代は、パソコンのシフト表のフォルダを開くと、中を確認しながら、話す。
梶は、淡々とした口調で、
「中村さんとは、話し合いを重ね、何とかシフトのやりくりで、続けてもらえるよう、説得致しました」
「そう…」
梶に視線を送ると、上代は、ほっとした様子で、
「彼は、なかなか有能なバリスタですからね、そう易々と手離したくないんです」
そう言い終えると、今度は、梶が声のトーンを落として口を開いた。
「実は…」
「何ですか?」
困惑気味に、話しづらそうにしている梶に、上代は、
「どうしました?話してください、遠慮なく」
チラッと上代を見ると、梶は重い口を開いた。
「実は、数日前から、千春君が無断欠勤しています」
「え???」
驚いた上代は、梶を見つめると、すぐにパソコンのタイムカードのフォルダを開け、『八坂千春』の出勤管理を確認した。
そこには、5日前から、打刻されておらず、空白になっている千春のタイムシートが、上代の目に飛び込んできた。
「…5日前から…?」
「……報告が遅くなり、申し訳ございません」
頭を下げる梶。
「連絡は?」
鋭い眼差しで、上代が尋ねる。焦る梶は、
「スマホに何度か…ですが、全く繋がらず…」
上代は、顎に手を当てて、しばらく考え込んだ。
(…5日前というと…健人君が千春のマンションに行った日…)
ふう、と深いため息をつくと、
「梶君、私は少し店を空けます」
「何かお心当たりでも」
上代は、梶にニコッと微笑むと
「後はよろしくお願いします」
「了解しました」
梶は、快く返事すると、上代は梶の肩を力強く握り、事務所を出ていった。
千春のマンションにやってきた上代は、インターホンを鳴らすも、返事が返ってこない様子に、次はスマホを取りだし、千春の電話番号にかけてみる。
トゥルトゥル…と、鳴り続けるコール音。
「ふむ…」
しばらく考え込んで、上代は、さっとその場を離れた。
(家にいないとすると…千春が行きそうな場所…)
マンションの側に停めていた車に乗り込むと、上代は急いで車を出した。
煌めくネオンに彩られている一軒のバー。
黒く重いその扉の向こうには、何人もの人々が、お酒を、料理を、会話を楽しんでいた。
見渡す限り、そのバーにいるのは、男性ばかり。
そこは、ゲイバーで、肩を寄せ合う者や、ゲラゲラと大声で笑いながら談笑する者、一晩のお相手を探しに来ている者たちが、集まっていた。
「あれ?千春?久しぶり~!」
愛くるしい瞳を輝かせて、派手なブルゾンを着込んだ綺麗なひとりの男性が、カウンターに座っている千春に声をかけた。
「ハヤト…」
ボソッと小声で、呟くと、カランとグラスの中で氷を転がした。
千春の隣に座ると、ハヤトは、カウンターの中のマスターに、千春と同じウイスキーのロックをオーダーした。
「ここ最近、見ないから、どうしたのかって思ってたよ」
「別に…」
(1人になりたくなくて…ここにきたけど…)
そっけなく返事する千春。
「何!何ー!元気ないじゃん~!さては?お目当ての彼にお相手してもらえなかったとか?」
馴れ馴れしく、千春に抱きつきながら、話しかける。
「そんなんじゃないよ!」
(誰かの胸に頼りたくて…)
顔を赤くして突っぱねる千春。
「怒んないでよー!」
「……」
(誰かに助けてほしくて…)
不機嫌そうにお酒を飲む千春。
「機嫌悪いの?ごめんね」
「……僕に構わないでよ」
(誰かの腕にすがりつきたくて…)
拗ねた子供のように、憮然とした顔つきのままの千春。
そんな千春に、ハヤトは、耳元で囁く。
「気分が最悪なら、楽しいことしようよ」
「え?」
意味深に小悪魔のように微笑むハヤトは、
「ねえねえ、あそこに1人、壁際に立ってる男性がいるでしょ?」
と、クイッと顎でその男性がいる方を指した。
そこには、短く刈り上げた髪の、ガタイのいい男が立っていた。
「彼、すごいんだって、アソコが」
「え?」
眉をひそめ、千春はハヤトを見返した。
「なんで?知ってるの?」
「ネコの友達に聞いたぁ~」
ハヤトは軽く返事すると、
「ねえ、今晩、3人でどう?」
と、ハヤトは、その男性に軽く手を振った。
「ちょ、ちょっと!勝手に呼ぶなよ!」
その男性は、ハヤトの手招きに気付くと、千春とハヤトに近づいてきた。
「やあ」
その男性は、さわやかに微笑むと、千春の隣に腰掛けた。
「こんばんわ…1人で退屈してたんだ…君たちは?」
目を潤ませて、ハヤトは答えた。
「僕たちも、今話してて…なんか楽しいことないかなぁ~て、暇を持て余してたとこ」
その言葉に、その男は、ニヤッと笑うと、
「そう、じゃあ、今から、ここ抜け出さない?」
「ええ~!ほんとに~?」
声を弾ませるハヤトとは、対照的に、黙り込む千春。
(…知らない男と…抜け出すのもいいかも…しれない…そうすれば、健人を忘れられる?…早く…)
「いいかもね…」
ハヤトは、千春の肩に手を回し、その男にウインクしてみせ、
「3人で甘い夜を過ごそうよ!」
「それじゃあ、決まりだね」
その男は、千春の手を引いて、立ち上がろうとした、
その瞬間、
「離しなさい」
3人の目の前に、颯爽と上代が現れた。
「その手を離しなさい」
キッとその男を睨み付け、千春とその男の手を叩いた。
「か…上代さん…」
上代を見るや否や、ハヤトは顔色を変えた。
「彰宏くん」
「千春、行きますよ」
強引に千春の手を引き、立ち去ろうとする上代。
「い、痛い!」
「おい、待てよ!その子は、今夜俺と…」
と言い放つその男の声を遮り、間に入ったのはハヤトだった。
「ちょっと待って」
上代は、冷ややかな目で一瞥すると、
「まだ何か?」
「いえ、何でもありません…ごめんなさい…行ってください、上代さん」
ハヤトの言葉に、ジロリと見やると、
「失礼」
短く言い放ち、千春を引き連れて、足早に店を出ていった。
残された男は、憮然として、
「何者なんだよ、あいつ」
そう尋ねる男に、ハヤトは真面目な顔で、
「この界隈で知らない人はいないよ…人脈っていうか、顔が広いっていうか、怒らせると、この辺歩きにくくなるよ」
っと、ボソッと呟いた。
駄々をこねた子供のように、ダラダラと歩く千春の手を、無理にきつくひっぱり、急かせるように歩く上代。
コインパーキングに停めた車のドアを開けると、無理矢理千春を押し込んだ。
「痛いっ!もう少しやさしくできないの?!」
「千春」
運転席に座り込む上代は、無表情で冷たい視線を千春に向けると、千春は、反抗的に言った。
「来ると思ってた」
「先に私に言うことがあるでしょう」
上代は、キッと千春を睨むと、千春はそっぽを向いた。
「ちゃんと私の話を聞きなさい」
上代は、千春の肩に触れると、
「触らないで!」
上代に負けず劣らず、千春も睨み返す。
さすがの上代も、千春のその反抗的な態度に、我慢できず、
「5日も無断で休んでおいて、その言い草ですか?何があったかはさておき、一社会人として、最低限のルールは守ってください」
「…っく…」
口をきゅっときつく結んで、ムスッとする千春。
「それに何ですか?さっきのは?好きでもない男と…また、フラフラと無益に自分の体を投げ出すのはやめなさい」
「……」
眉間に皺をよせ、体をこわばらせると、千春は、感情を抑え込むように顔を下に向けた。
それに、敏感に感じ取った上代は、次は穏やかな声で千春に問いかけた。
「健人君と、何か、あったんでしょう…」
その言葉に、堪えていたものが溢れ出たように、大粒の涙をこぼすと、千春は肩を震わせた。
「…っく…も…もうダメかも…僕の…初恋…」
溢れた涙が、頬を伝い、こぼれて、千春のシャツを濡らす。
「千春…」
思わず、千春に手を差し伸べ、抱きしめる上代。
「健人と…もう…」
声にならない声をもらし、上代の胸に顔を埋める千春。
「喧嘩でもしましたか?君は少し我儘なところがあるから…それなら、すぐに謝りなさい」
なだめるように諭すと、上代は千春の涙を指で拭った。
「謝る…?僕から拒絶したのに?出ていけって言ったのに?」
「今ならまだ間に合うでしょう?ちゃんと謝罪して、素直に話せば、彼なら、きっとわかってくれますよ」
「今なら…?」
「そう…手遅れにならないうちに…」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのように、余韻を響かせるように、上代は呟いた。
そして、
「さあ、戻りましょう」
車にエンジンをかけ、ハンドルを握る。
少し落ち着きを取り戻し、安心した居心地の面持ちで、千春は運転する上代に尋ねた。
「よく、ここがわかったね」
前を向いたまま、上代は、ハンドルを片手で回しながら、ハッと笑い、
「千春が呼んでる気がして…千春が必要なら、どこへでも飛んで行きますよ、私の可愛い従兄弟殿」
思いやりにあふれた笑顔を見せると、また前を向いて運転する上代。
千春は、ふふと小さくはにかむと囁いた。
「ありがと…」
えんじ色のネクタイに、黒のスリーピースをカチッと決め、カフェバーに入ってきたのは、上代だった。
「おはようございます、オーナー」
上代を迎えたのは、この店のマネージャーを務める、梶だった。
梶は、上代の学生時代の同級生。
大学を卒業してからも仲がよかったせいもあって、上代の店で働いており、飛びぬけて何か才能が秀でているわけでもないが、とかく真面目で、上代は信頼を寄せていた。
「昨日の売り上げのチェックはどうですか?」
かけているメガネのブリッジを指で上げ、上代は事務所にスタスタと向かいながら、梶に尋ねた。
「はい、完了しております」
梶は、上代の後を追うように、続けて事務所に入ってゆく。
「スタッフの方はどうですか?皆さん、ちゃんとやっていますか?辞めそうになっていた中村はその後どうですか?」
上代は、パソコンのシフト表のフォルダを開くと、中を確認しながら、話す。
梶は、淡々とした口調で、
「中村さんとは、話し合いを重ね、何とかシフトのやりくりで、続けてもらえるよう、説得致しました」
「そう…」
梶に視線を送ると、上代は、ほっとした様子で、
「彼は、なかなか有能なバリスタですからね、そう易々と手離したくないんです」
そう言い終えると、今度は、梶が声のトーンを落として口を開いた。
「実は…」
「何ですか?」
困惑気味に、話しづらそうにしている梶に、上代は、
「どうしました?話してください、遠慮なく」
チラッと上代を見ると、梶は重い口を開いた。
「実は、数日前から、千春君が無断欠勤しています」
「え???」
驚いた上代は、梶を見つめると、すぐにパソコンのタイムカードのフォルダを開け、『八坂千春』の出勤管理を確認した。
そこには、5日前から、打刻されておらず、空白になっている千春のタイムシートが、上代の目に飛び込んできた。
「…5日前から…?」
「……報告が遅くなり、申し訳ございません」
頭を下げる梶。
「連絡は?」
鋭い眼差しで、上代が尋ねる。焦る梶は、
「スマホに何度か…ですが、全く繋がらず…」
上代は、顎に手を当てて、しばらく考え込んだ。
(…5日前というと…健人君が千春のマンションに行った日…)
ふう、と深いため息をつくと、
「梶君、私は少し店を空けます」
「何かお心当たりでも」
上代は、梶にニコッと微笑むと
「後はよろしくお願いします」
「了解しました」
梶は、快く返事すると、上代は梶の肩を力強く握り、事務所を出ていった。
千春のマンションにやってきた上代は、インターホンを鳴らすも、返事が返ってこない様子に、次はスマホを取りだし、千春の電話番号にかけてみる。
トゥルトゥル…と、鳴り続けるコール音。
「ふむ…」
しばらく考え込んで、上代は、さっとその場を離れた。
(家にいないとすると…千春が行きそうな場所…)
マンションの側に停めていた車に乗り込むと、上代は急いで車を出した。
煌めくネオンに彩られている一軒のバー。
黒く重いその扉の向こうには、何人もの人々が、お酒を、料理を、会話を楽しんでいた。
見渡す限り、そのバーにいるのは、男性ばかり。
そこは、ゲイバーで、肩を寄せ合う者や、ゲラゲラと大声で笑いながら談笑する者、一晩のお相手を探しに来ている者たちが、集まっていた。
「あれ?千春?久しぶり~!」
愛くるしい瞳を輝かせて、派手なブルゾンを着込んだ綺麗なひとりの男性が、カウンターに座っている千春に声をかけた。
「ハヤト…」
ボソッと小声で、呟くと、カランとグラスの中で氷を転がした。
千春の隣に座ると、ハヤトは、カウンターの中のマスターに、千春と同じウイスキーのロックをオーダーした。
「ここ最近、見ないから、どうしたのかって思ってたよ」
「別に…」
(1人になりたくなくて…ここにきたけど…)
そっけなく返事する千春。
「何!何ー!元気ないじゃん~!さては?お目当ての彼にお相手してもらえなかったとか?」
馴れ馴れしく、千春に抱きつきながら、話しかける。
「そんなんじゃないよ!」
(誰かの胸に頼りたくて…)
顔を赤くして突っぱねる千春。
「怒んないでよー!」
「……」
(誰かに助けてほしくて…)
不機嫌そうにお酒を飲む千春。
「機嫌悪いの?ごめんね」
「……僕に構わないでよ」
(誰かの腕にすがりつきたくて…)
拗ねた子供のように、憮然とした顔つきのままの千春。
そんな千春に、ハヤトは、耳元で囁く。
「気分が最悪なら、楽しいことしようよ」
「え?」
意味深に小悪魔のように微笑むハヤトは、
「ねえねえ、あそこに1人、壁際に立ってる男性がいるでしょ?」
と、クイッと顎でその男性がいる方を指した。
そこには、短く刈り上げた髪の、ガタイのいい男が立っていた。
「彼、すごいんだって、アソコが」
「え?」
眉をひそめ、千春はハヤトを見返した。
「なんで?知ってるの?」
「ネコの友達に聞いたぁ~」
ハヤトは軽く返事すると、
「ねえ、今晩、3人でどう?」
と、ハヤトは、その男性に軽く手を振った。
「ちょ、ちょっと!勝手に呼ぶなよ!」
その男性は、ハヤトの手招きに気付くと、千春とハヤトに近づいてきた。
「やあ」
その男性は、さわやかに微笑むと、千春の隣に腰掛けた。
「こんばんわ…1人で退屈してたんだ…君たちは?」
目を潤ませて、ハヤトは答えた。
「僕たちも、今話してて…なんか楽しいことないかなぁ~て、暇を持て余してたとこ」
その言葉に、その男は、ニヤッと笑うと、
「そう、じゃあ、今から、ここ抜け出さない?」
「ええ~!ほんとに~?」
声を弾ませるハヤトとは、対照的に、黙り込む千春。
(…知らない男と…抜け出すのもいいかも…しれない…そうすれば、健人を忘れられる?…早く…)
「いいかもね…」
ハヤトは、千春の肩に手を回し、その男にウインクしてみせ、
「3人で甘い夜を過ごそうよ!」
「それじゃあ、決まりだね」
その男は、千春の手を引いて、立ち上がろうとした、
その瞬間、
「離しなさい」
3人の目の前に、颯爽と上代が現れた。
「その手を離しなさい」
キッとその男を睨み付け、千春とその男の手を叩いた。
「か…上代さん…」
上代を見るや否や、ハヤトは顔色を変えた。
「彰宏くん」
「千春、行きますよ」
強引に千春の手を引き、立ち去ろうとする上代。
「い、痛い!」
「おい、待てよ!その子は、今夜俺と…」
と言い放つその男の声を遮り、間に入ったのはハヤトだった。
「ちょっと待って」
上代は、冷ややかな目で一瞥すると、
「まだ何か?」
「いえ、何でもありません…ごめんなさい…行ってください、上代さん」
ハヤトの言葉に、ジロリと見やると、
「失礼」
短く言い放ち、千春を引き連れて、足早に店を出ていった。
残された男は、憮然として、
「何者なんだよ、あいつ」
そう尋ねる男に、ハヤトは真面目な顔で、
「この界隈で知らない人はいないよ…人脈っていうか、顔が広いっていうか、怒らせると、この辺歩きにくくなるよ」
っと、ボソッと呟いた。
駄々をこねた子供のように、ダラダラと歩く千春の手を、無理にきつくひっぱり、急かせるように歩く上代。
コインパーキングに停めた車のドアを開けると、無理矢理千春を押し込んだ。
「痛いっ!もう少しやさしくできないの?!」
「千春」
運転席に座り込む上代は、無表情で冷たい視線を千春に向けると、千春は、反抗的に言った。
「来ると思ってた」
「先に私に言うことがあるでしょう」
上代は、キッと千春を睨むと、千春はそっぽを向いた。
「ちゃんと私の話を聞きなさい」
上代は、千春の肩に触れると、
「触らないで!」
上代に負けず劣らず、千春も睨み返す。
さすがの上代も、千春のその反抗的な態度に、我慢できず、
「5日も無断で休んでおいて、その言い草ですか?何があったかはさておき、一社会人として、最低限のルールは守ってください」
「…っく…」
口をきゅっときつく結んで、ムスッとする千春。
「それに何ですか?さっきのは?好きでもない男と…また、フラフラと無益に自分の体を投げ出すのはやめなさい」
「……」
眉間に皺をよせ、体をこわばらせると、千春は、感情を抑え込むように顔を下に向けた。
それに、敏感に感じ取った上代は、次は穏やかな声で千春に問いかけた。
「健人君と、何か、あったんでしょう…」
その言葉に、堪えていたものが溢れ出たように、大粒の涙をこぼすと、千春は肩を震わせた。
「…っく…も…もうダメかも…僕の…初恋…」
溢れた涙が、頬を伝い、こぼれて、千春のシャツを濡らす。
「千春…」
思わず、千春に手を差し伸べ、抱きしめる上代。
「健人と…もう…」
声にならない声をもらし、上代の胸に顔を埋める千春。
「喧嘩でもしましたか?君は少し我儘なところがあるから…それなら、すぐに謝りなさい」
なだめるように諭すと、上代は千春の涙を指で拭った。
「謝る…?僕から拒絶したのに?出ていけって言ったのに?」
「今ならまだ間に合うでしょう?ちゃんと謝罪して、素直に話せば、彼なら、きっとわかってくれますよ」
「今なら…?」
「そう…手遅れにならないうちに…」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのように、余韻を響かせるように、上代は呟いた。
そして、
「さあ、戻りましょう」
車にエンジンをかけ、ハンドルを握る。
少し落ち着きを取り戻し、安心した居心地の面持ちで、千春は運転する上代に尋ねた。
「よく、ここがわかったね」
前を向いたまま、上代は、ハンドルを片手で回しながら、ハッと笑い、
「千春が呼んでる気がして…千春が必要なら、どこへでも飛んで行きますよ、私の可愛い従兄弟殿」
思いやりにあふれた笑顔を見せると、また前を向いて運転する上代。
千春は、ふふと小さくはにかむと囁いた。
「ありがと…」
0
あなたにおすすめの小説
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる