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龍淵に潜む秋・ミツキの求婚
あの時の気持ち忘れずに
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ロケで滞在中の地方郊外を一人で歩いていた暗い夜に、ミツキは突然何者かにさらわれたのだという。両手両足を拘束されて、街の明かりも月明かりも届かない暗い森の中で目隠しをされたまま服を脱がされて、写真を撮られて、そのまま放置された。なんとか目隠しは外せたものの、手足の拘束を解くことは叶わず、朝が来るまで恐怖に慄《おのの》くほかなかったと打ち明けてくれた。その犯人が誰なのか。
その写真を入手した如月智一は、ミツキを脅してマンションに呼び出したみたいだけど、ミツキは襲われる直前になんとか逃げることができた。
こういった経緯から、それ以来、暗い夜がトラウマになってしまった。
いや、犯人は如月智一《きさらぎともかず》だろう、と僕は怒りを露《あらわ》にしたのだが。ミツキは違うと思うなんて言う。如月智一は長身だが、その犯人はミツキと同じくらいの身長だったのだから、別に犯人がいると考えるのが自然だ、と。
確かにミツキの言うとおり、この話はどことなく引っ掛かる。そう、おかしい点がいくつもある。
それにしても、そんなことがあって、よく平然と夜道を一人で歩けるな、なんて感心してしまうのは少しだけ不謹慎かもしれないけれど。それと同時に、僕は、ミツキの身を案じずにはいられなかった。自宅に帰る途中でなにかあったら、なんて思うと、貴重な授業も全く身が入らない。
「なあ、春夜。手術が大変だったのは分かるんだけど、なんか、ぼーっとしてないか? 確かに体力的なものはあるのかもだけど」
福島の名店、幻の醤油ラーメンという、コンビニでは見たこともないラーメンを啜る新之助は、神妙《しんみょう》な面持ちで僕の顔を覗き込む。確かに、新之助の言うとおり、すごく眠い。授業どころではないくらいに眠い。
「いや、うん。確かに病み上がりで眠いことは眠いんだけど」
だけど、それ以上に僕の胸を抉《えぐ》る昨晩のミツキの話に、脳の皺という皺を占拠されてしまっていて、僕は生きる屍のように、まともに人の話を聞くこともできなくなってしまったようだ。
「ちょっと、シュン。顔貸して」
突然、朱莉《あかり》が教室に入ってきて、僕と新之助の間に仁王立ちしながら、歯軋りをするかのように奥歯を噛みしめて。こちらの方も神妙な面持ちで僕を睨んでいる。なにか悪いことしましたか。僕はやはり無実なのです。
校舎裏のベンチがある銀杏《いちょう》の木の下に着くなり、朱莉は突然、僕の手を取って、大丈夫なの、と。なんのことか分からなかったが、おそらく手術のことだと理解して、身体はなんとか大丈夫だよ、と答えた。だが、朱莉にしてみれば、満足のいく回答ではなかったようだった。
「そうじゃなくて。ミツキちゃんが浮気してたんでしょ。あたし、そういうの許せないの」
「————は?」
「あの、胸糞悪いアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》だっけ。あいつと抱き合っていたじゃない。もう、ミツキちゃんは何なの。シュンを大切にしてね、っていうあたしの言葉の意味が全く分かっていないじゃない」
ああ、そっち、と僕は無意識に呟いてしまう。それが癇《かん》に障《さわ》ったのか、朱莉は、もう、なんなの、と怒鳴りつけてきた。
「ミツキちゃんが浮気しても、シュンは全くなんとも思わないんだ? 取られちゃってもいいの? ああそう、ネトラレ希望なのね。もう、そんな変態だとは思わなかったわッ!」
「いや、違うって。あの記事はでっち上げなんだって」
「もう、知らないッ!! 今度、ミツキちゃんに直接訊くからいいッ!!」
「そうじゃなくて、ミツキは……」
言葉に詰まるのは当然だ。僕の余命宣告があって、それを僕が隠したからミツキが姉さんの口車に乗せられて、あんなことになってしまったのだ。どこから説明していいものやら。すべて話せば、朱莉のことも傷つけかねない。非常に面倒で、拗《こじ》れている。
「シュンのさ、ミツキちゃんのことを守りたいっていう気持ちは分かるよ。でも、浮気をされてまで、かばい続けるなんて、ちょっと甘やかしすぎなんじゃないの?」
「いや、そうじゃなくて。浮気なんてしてないんだよ。ミツキは————」
突然だった。朱莉が——抱きついてくるなんて、思いもよらなかった。
足元を覆いつくす黄色い秋の破片が、駆けた朱莉の足元で跳ねる。銀杏《ぎんなん》の秋色の薫りが、随分と冷たくなった風に溶け出して、微かに息づく朱莉の冷えた身体が可哀そうなくらい震えていた。きっと、寒いわけではない。その感情を知ることはできないけれども。悔しいのか、あるいは、悲しいのか。今のところ怒っては————いなそうだ。
「ちょっと、朱莉、ここ学校だよ!?」
「知ってる。見られてもいい。ミツキちゃんは見られても堂々と抱き合っていたじゃない」
「だから、それは————」
「あたしなら、絶対に浮気なんてしないよ。それに、シュンを置き去りになんてしない」
アイドルとして復帰をしたミツキが、僕をほったらかしにしている、なんて思っているのかもしれない。とんでもない誤解なのだが。しかし、朱莉はそんなことを知る余地もない。だからこそ、勝手に僕に感情を移入しているのだ。
「シュン……お願い。ミツキちゃんは確かに一見《いっけん》、良い子だよ。でも、やっぱり住む世界が違うんだと思う。シュンは、あたし達と同じ世界の人だよね? だから——」
「朱莉、頼むよ。朱莉のことは嫌いじゃないし、むしろ好きだよ」
「じゃあ……」
「違うんだ。友達として好きなんだ。恋愛対象としては考えられない」
朱莉を抱きしめ返すわけにはいかない。僕のブレザーの背中をきゅっと握りしめる朱莉は、顔を上げて、そのつぶらな瞳で訴える。どうして、どうして、あたしはシュンの一番になれないの、と。
「努力して、がんばって、それでもシュンの一番になれないの?」
「そこまで想ってくれるのは嬉しいよ。でも、僕は……ミツキが」
「絶対に許さない……浮気までするような人が、シュンの心を掴んで離さないなんて。こんなこと許されるはずがない」
僕から離れた朱莉は俯き加減で、呻くように呪詛《じゅそ》の言葉をまき散らす。スカートの裾を力強く握りしめて、その視線はつま先をじっと見ている。役目を全うした銀杏《いちょう》の金糸雀色《かなりあいろ》の葉が、太神楽《だいかぐら》の回される傘のように朱莉のショートボブを掠《かす》めていく。やがて、はらりと華麗に着地した銀杏《いちょう》の葉は、積み重なる屍のようなイエローとグリーンの交わる色彩に溶けていった。
「朱莉……ミツキは本当に悪くないんだ」
「感情だけでしょ。ミツキちゃんが好きだから。だからそうやって庇《かば》うんでしょッ!! もうシュンのばか!! あたしは、シュンを想って言っているのにッ!!」
結局、意見は平行線のまま、昼休みの終わりを告げるチャイムにより、僕と朱莉は校舎に戻らざるを得なかった。一言も話さないまま廊下を歩く僕と朱莉は、まるで喧嘩別れをした直後のカップルのように映ったようで、すれ違う生徒の僕を見る目は幾分か厳しいもののように感じる。とても、すごく、激しく、とてつもなく、迷惑な話だ。
花神楽美月《はなかぐらみつき》と別れたのに。それですぐに野々村朱莉なのかよ。女好きすぎ。ふざけているよな。面食いもいいところじゃね。野々村朱莉にも浮気されたのかあれ。もはや、クソミツキは本当だな。野々村朱莉とも別れたなら、少しくらいチャンスあるんじゃね。
「いい加減にしろぉぉ!! 関係ないだろ。言いたいことあるなら正々堂々と言え!! この愚民《ぐみん》ども!! あたしは逃げも隠れもしないッ!! 陰口なんて叩いてるからモテないんだよ。このばかちんどもめ!!」
怒鳴り散らす朱莉を横目に、僕はそそくさと教室に戻った。触らぬ神に祟りなし、とは正《まさ》しくこのことだ。なんで、僕の周りには、こんなメンタルタフネス系の人しかいないのだろう。
☆★☆
その日の夜から、僕はどんなに帰ってくるのが遅かろうが、朝方になろうが、ミツキを迎えにいくことにした。ミツキはこともあろうか、電車で帰ってくるにしても、高速バスで帰ってくるにしても、駅からは自宅まで必ず歩いて帰ってくるのだ。バスは当然ないにしても、タクシーには乗って欲しかった。
だが、僕も今夜初めて知ったのだが、やはり田舎なのだ。タクシーが一台も駅に停まっていない。それもそのはずだ。初めから三台くらいしか待機していないのだから。
終電が二二時五〇分ちょうど。信号が赤で点滅していて、その交差する道の信号は黄色に点滅していた。街灯は点いているものの、歩いている者など一人もいない。商店街はすべてシャッターが閉まっており、こんなところで変質者に襲われたら、なんて思うと、なぜ今まで迎えに来ようと思わなかったのか。僕は本当に気が利かない奴なんだな、などと情けなくなる。
もう冬が来たのではないか、と思うほど凛《りん》とした空気が張りつめていて、思わず手を擦《こす》って温める。吹いた風が撫でる頬は、まるで針で突かれたように痛覚を刺激されていて、堪《たま》らずに着ていたパーカーのチャックを喉元まで締めた。きっとミツキは厚着なんてしていないのだろうと思い、厚手のパーカーを持ってきた。僕のサイズだから、小さいということはないと思うけど。
無人になった駅の自動改札の前で佇んでいると、終電の電車がホームに着くのが見えた。動体視力を駆使して列車の乗客を数えてみると、二〇人いるかいないか、といったところ。
次々と改札を出る人を避けながら、階段を降りてきたミツキを目で追う。その顔は寝ていたのか、それとも多忙故の疲労なのか、酷く暗い表情の気がした。
改札を出ようとするミツキが、え、シュン君、と呟く。僕は笑顔で迎えたかった。こんなに華奢な身体で、こんな時間までがんばっているミツキをせめて、元気づけたかったのだ。
「おかえり、ミツキ」
「どうして? わざわざ来てくれたの?」
「心配だからでしょ。それに早く会いたかったから」
「シュン君……ただいまぁ。疲れたけど、シュン君見たら元気が出てきたよ」
パーカーを手渡すと、ミツキは早速着込んで、シュン君優しいね、なんて言って僕の左腕に両腕を絡んでくる。駅を出ると、やはりタクシーは戻っておらず、仕方なく歩いて帰ることにした。
澄んだ空気が織りなす散りばめられたダイヤモンドのような寒空が、今にも降ってきそうなほど揺らめいていて。ミツキは感嘆していた。東京の空とは別格なのね、なんて。贅沢な空を見上げながらゆっくりと歩く闇の街は、一人では不安だけど、二人ならまるで貸し切りのプラネタリウムのよう。たまに流れる自動車のロードノイズが癪《しゃく》に障《さわ》るのだけれども。
「ねえ、今まで大丈夫だったの?」
「え? なにが?」
「いや。ほら、夜が恐いって。なのに、この距離を歩くのはさ。酷かなって」
「怖くない——なんて。嘘。すごく怖かったけれど。でも、わたしの問題だから」
「もう。ミツキの馬鹿。なんで言わないの。って、僕も気付かなかったから、僕の方こそ馬鹿なんだけどさ。でも、これからは、必ず迎えに来るから。例え終電でも始発でも」
「だけど、シュン君は寝ないとだめだよ。身体のこともあるんだから。ね」
「うん。大丈夫。迎えに来る時間までは寝るようにするし。それに、迎えに来なかったら、それはそれで、眠れないしさ」
「……分かった。じゃあ、甘えちゃうね! シュン君……ありがとう」
優しくしてくれて。と言って僕の肩に頭を預けて星を仰ぐミツキを抱き寄せた。抱いた肩が華奢《きゃしゃ》で、少し痩せたのかな、なんて印象を受ける。今日は、どんな仕事をしてきたのだろう。いじめられていないかな、とか、ちゃんと休み時間はあったのかな、なんて案じたのだけれど、口に出すと過保護のお父さんみたい、なんて言われるからやめておいた。
「帰ってきてくれてさ。ありがとう」
「なんでそんなこと。いまさら?」
「一日、一回はありがとうって言おうって決めたんだ」
「それ、いいね! じゃあ、わたしも。迎えに来てくれてありがとう!!」
「それは、さっき言ったじゃん」
そうだっけ、なんて言って屈託のない笑みを浮かべるミツキが電柱にぶつかりそうになるのを、抱き寄せて守る。もう少しで肩か肘に青痣《あおあざ》を作るところだったね。
「ミツキがいなくなっちゃって、それで帰ってきてくれた日に思ったんだ。いつもいることが当たり前じゃないんだって。だから、日々、僕と一緒にいてくれるミツキに感謝しないとね」
「————でも、もういなくならないよ?」
「分かっているよ。でも、あの時の気持ち、忘れないように、さ」
うん。シュン君こそいなくならないでね。絶対だよ。
繋いだ手をパーカーの前ポケットに入れて温める。まだ秋なのに、こんなに夜が寒いなんて。ますます心細くなるミツキを、放っておくわけにいかない。寒い夜に一人で歩かせるわけに、なんていくはずがない。
「ねえ、シュン君。ところで、朱莉ちゃんから連絡が来て、来週の日曜日にコスモスを見に行かないかって誘われたんだけど」
————何する気だ。朱莉の奴。
その写真を入手した如月智一は、ミツキを脅してマンションに呼び出したみたいだけど、ミツキは襲われる直前になんとか逃げることができた。
こういった経緯から、それ以来、暗い夜がトラウマになってしまった。
いや、犯人は如月智一《きさらぎともかず》だろう、と僕は怒りを露《あらわ》にしたのだが。ミツキは違うと思うなんて言う。如月智一は長身だが、その犯人はミツキと同じくらいの身長だったのだから、別に犯人がいると考えるのが自然だ、と。
確かにミツキの言うとおり、この話はどことなく引っ掛かる。そう、おかしい点がいくつもある。
それにしても、そんなことがあって、よく平然と夜道を一人で歩けるな、なんて感心してしまうのは少しだけ不謹慎かもしれないけれど。それと同時に、僕は、ミツキの身を案じずにはいられなかった。自宅に帰る途中でなにかあったら、なんて思うと、貴重な授業も全く身が入らない。
「なあ、春夜。手術が大変だったのは分かるんだけど、なんか、ぼーっとしてないか? 確かに体力的なものはあるのかもだけど」
福島の名店、幻の醤油ラーメンという、コンビニでは見たこともないラーメンを啜る新之助は、神妙《しんみょう》な面持ちで僕の顔を覗き込む。確かに、新之助の言うとおり、すごく眠い。授業どころではないくらいに眠い。
「いや、うん。確かに病み上がりで眠いことは眠いんだけど」
だけど、それ以上に僕の胸を抉《えぐ》る昨晩のミツキの話に、脳の皺という皺を占拠されてしまっていて、僕は生きる屍のように、まともに人の話を聞くこともできなくなってしまったようだ。
「ちょっと、シュン。顔貸して」
突然、朱莉《あかり》が教室に入ってきて、僕と新之助の間に仁王立ちしながら、歯軋りをするかのように奥歯を噛みしめて。こちらの方も神妙な面持ちで僕を睨んでいる。なにか悪いことしましたか。僕はやはり無実なのです。
校舎裏のベンチがある銀杏《いちょう》の木の下に着くなり、朱莉は突然、僕の手を取って、大丈夫なの、と。なんのことか分からなかったが、おそらく手術のことだと理解して、身体はなんとか大丈夫だよ、と答えた。だが、朱莉にしてみれば、満足のいく回答ではなかったようだった。
「そうじゃなくて。ミツキちゃんが浮気してたんでしょ。あたし、そういうの許せないの」
「————は?」
「あの、胸糞悪いアイドル、白木坂慶介《しらきざかけいすけ》だっけ。あいつと抱き合っていたじゃない。もう、ミツキちゃんは何なの。シュンを大切にしてね、っていうあたしの言葉の意味が全く分かっていないじゃない」
ああ、そっち、と僕は無意識に呟いてしまう。それが癇《かん》に障《さわ》ったのか、朱莉は、もう、なんなの、と怒鳴りつけてきた。
「ミツキちゃんが浮気しても、シュンは全くなんとも思わないんだ? 取られちゃってもいいの? ああそう、ネトラレ希望なのね。もう、そんな変態だとは思わなかったわッ!」
「いや、違うって。あの記事はでっち上げなんだって」
「もう、知らないッ!! 今度、ミツキちゃんに直接訊くからいいッ!!」
「そうじゃなくて、ミツキは……」
言葉に詰まるのは当然だ。僕の余命宣告があって、それを僕が隠したからミツキが姉さんの口車に乗せられて、あんなことになってしまったのだ。どこから説明していいものやら。すべて話せば、朱莉のことも傷つけかねない。非常に面倒で、拗《こじ》れている。
「シュンのさ、ミツキちゃんのことを守りたいっていう気持ちは分かるよ。でも、浮気をされてまで、かばい続けるなんて、ちょっと甘やかしすぎなんじゃないの?」
「いや、そうじゃなくて。浮気なんてしてないんだよ。ミツキは————」
突然だった。朱莉が——抱きついてくるなんて、思いもよらなかった。
足元を覆いつくす黄色い秋の破片が、駆けた朱莉の足元で跳ねる。銀杏《ぎんなん》の秋色の薫りが、随分と冷たくなった風に溶け出して、微かに息づく朱莉の冷えた身体が可哀そうなくらい震えていた。きっと、寒いわけではない。その感情を知ることはできないけれども。悔しいのか、あるいは、悲しいのか。今のところ怒っては————いなそうだ。
「ちょっと、朱莉、ここ学校だよ!?」
「知ってる。見られてもいい。ミツキちゃんは見られても堂々と抱き合っていたじゃない」
「だから、それは————」
「あたしなら、絶対に浮気なんてしないよ。それに、シュンを置き去りになんてしない」
アイドルとして復帰をしたミツキが、僕をほったらかしにしている、なんて思っているのかもしれない。とんでもない誤解なのだが。しかし、朱莉はそんなことを知る余地もない。だからこそ、勝手に僕に感情を移入しているのだ。
「シュン……お願い。ミツキちゃんは確かに一見《いっけん》、良い子だよ。でも、やっぱり住む世界が違うんだと思う。シュンは、あたし達と同じ世界の人だよね? だから——」
「朱莉、頼むよ。朱莉のことは嫌いじゃないし、むしろ好きだよ」
「じゃあ……」
「違うんだ。友達として好きなんだ。恋愛対象としては考えられない」
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「努力して、がんばって、それでもシュンの一番になれないの?」
「そこまで想ってくれるのは嬉しいよ。でも、僕は……ミツキが」
「絶対に許さない……浮気までするような人が、シュンの心を掴んで離さないなんて。こんなこと許されるはずがない」
僕から離れた朱莉は俯き加減で、呻くように呪詛《じゅそ》の言葉をまき散らす。スカートの裾を力強く握りしめて、その視線はつま先をじっと見ている。役目を全うした銀杏《いちょう》の金糸雀色《かなりあいろ》の葉が、太神楽《だいかぐら》の回される傘のように朱莉のショートボブを掠《かす》めていく。やがて、はらりと華麗に着地した銀杏《いちょう》の葉は、積み重なる屍のようなイエローとグリーンの交わる色彩に溶けていった。
「朱莉……ミツキは本当に悪くないんだ」
「感情だけでしょ。ミツキちゃんが好きだから。だからそうやって庇《かば》うんでしょッ!! もうシュンのばか!! あたしは、シュンを想って言っているのにッ!!」
結局、意見は平行線のまま、昼休みの終わりを告げるチャイムにより、僕と朱莉は校舎に戻らざるを得なかった。一言も話さないまま廊下を歩く僕と朱莉は、まるで喧嘩別れをした直後のカップルのように映ったようで、すれ違う生徒の僕を見る目は幾分か厳しいもののように感じる。とても、すごく、激しく、とてつもなく、迷惑な話だ。
花神楽美月《はなかぐらみつき》と別れたのに。それですぐに野々村朱莉なのかよ。女好きすぎ。ふざけているよな。面食いもいいところじゃね。野々村朱莉にも浮気されたのかあれ。もはや、クソミツキは本当だな。野々村朱莉とも別れたなら、少しくらいチャンスあるんじゃね。
「いい加減にしろぉぉ!! 関係ないだろ。言いたいことあるなら正々堂々と言え!! この愚民《ぐみん》ども!! あたしは逃げも隠れもしないッ!! 陰口なんて叩いてるからモテないんだよ。このばかちんどもめ!!」
怒鳴り散らす朱莉を横目に、僕はそそくさと教室に戻った。触らぬ神に祟りなし、とは正《まさ》しくこのことだ。なんで、僕の周りには、こんなメンタルタフネス系の人しかいないのだろう。
☆★☆
その日の夜から、僕はどんなに帰ってくるのが遅かろうが、朝方になろうが、ミツキを迎えにいくことにした。ミツキはこともあろうか、電車で帰ってくるにしても、高速バスで帰ってくるにしても、駅からは自宅まで必ず歩いて帰ってくるのだ。バスは当然ないにしても、タクシーには乗って欲しかった。
だが、僕も今夜初めて知ったのだが、やはり田舎なのだ。タクシーが一台も駅に停まっていない。それもそのはずだ。初めから三台くらいしか待機していないのだから。
終電が二二時五〇分ちょうど。信号が赤で点滅していて、その交差する道の信号は黄色に点滅していた。街灯は点いているものの、歩いている者など一人もいない。商店街はすべてシャッターが閉まっており、こんなところで変質者に襲われたら、なんて思うと、なぜ今まで迎えに来ようと思わなかったのか。僕は本当に気が利かない奴なんだな、などと情けなくなる。
もう冬が来たのではないか、と思うほど凛《りん》とした空気が張りつめていて、思わず手を擦《こす》って温める。吹いた風が撫でる頬は、まるで針で突かれたように痛覚を刺激されていて、堪《たま》らずに着ていたパーカーのチャックを喉元まで締めた。きっとミツキは厚着なんてしていないのだろうと思い、厚手のパーカーを持ってきた。僕のサイズだから、小さいということはないと思うけど。
無人になった駅の自動改札の前で佇んでいると、終電の電車がホームに着くのが見えた。動体視力を駆使して列車の乗客を数えてみると、二〇人いるかいないか、といったところ。
次々と改札を出る人を避けながら、階段を降りてきたミツキを目で追う。その顔は寝ていたのか、それとも多忙故の疲労なのか、酷く暗い表情の気がした。
改札を出ようとするミツキが、え、シュン君、と呟く。僕は笑顔で迎えたかった。こんなに華奢な身体で、こんな時間までがんばっているミツキをせめて、元気づけたかったのだ。
「おかえり、ミツキ」
「どうして? わざわざ来てくれたの?」
「心配だからでしょ。それに早く会いたかったから」
「シュン君……ただいまぁ。疲れたけど、シュン君見たら元気が出てきたよ」
パーカーを手渡すと、ミツキは早速着込んで、シュン君優しいね、なんて言って僕の左腕に両腕を絡んでくる。駅を出ると、やはりタクシーは戻っておらず、仕方なく歩いて帰ることにした。
澄んだ空気が織りなす散りばめられたダイヤモンドのような寒空が、今にも降ってきそうなほど揺らめいていて。ミツキは感嘆していた。東京の空とは別格なのね、なんて。贅沢な空を見上げながらゆっくりと歩く闇の街は、一人では不安だけど、二人ならまるで貸し切りのプラネタリウムのよう。たまに流れる自動車のロードノイズが癪《しゃく》に障《さわ》るのだけれども。
「ねえ、今まで大丈夫だったの?」
「え? なにが?」
「いや。ほら、夜が恐いって。なのに、この距離を歩くのはさ。酷かなって」
「怖くない——なんて。嘘。すごく怖かったけれど。でも、わたしの問題だから」
「もう。ミツキの馬鹿。なんで言わないの。って、僕も気付かなかったから、僕の方こそ馬鹿なんだけどさ。でも、これからは、必ず迎えに来るから。例え終電でも始発でも」
「だけど、シュン君は寝ないとだめだよ。身体のこともあるんだから。ね」
「うん。大丈夫。迎えに来る時間までは寝るようにするし。それに、迎えに来なかったら、それはそれで、眠れないしさ」
「……分かった。じゃあ、甘えちゃうね! シュン君……ありがとう」
優しくしてくれて。と言って僕の肩に頭を預けて星を仰ぐミツキを抱き寄せた。抱いた肩が華奢《きゃしゃ》で、少し痩せたのかな、なんて印象を受ける。今日は、どんな仕事をしてきたのだろう。いじめられていないかな、とか、ちゃんと休み時間はあったのかな、なんて案じたのだけれど、口に出すと過保護のお父さんみたい、なんて言われるからやめておいた。
「帰ってきてくれてさ。ありがとう」
「なんでそんなこと。いまさら?」
「一日、一回はありがとうって言おうって決めたんだ」
「それ、いいね! じゃあ、わたしも。迎えに来てくれてありがとう!!」
「それは、さっき言ったじゃん」
そうだっけ、なんて言って屈託のない笑みを浮かべるミツキが電柱にぶつかりそうになるのを、抱き寄せて守る。もう少しで肩か肘に青痣《あおあざ》を作るところだったね。
「ミツキがいなくなっちゃって、それで帰ってきてくれた日に思ったんだ。いつもいることが当たり前じゃないんだって。だから、日々、僕と一緒にいてくれるミツキに感謝しないとね」
「————でも、もういなくならないよ?」
「分かっているよ。でも、あの時の気持ち、忘れないように、さ」
うん。シュン君こそいなくならないでね。絶対だよ。
繋いだ手をパーカーの前ポケットに入れて温める。まだ秋なのに、こんなに夜が寒いなんて。ますます心細くなるミツキを、放っておくわけにいかない。寒い夜に一人で歩かせるわけに、なんていくはずがない。
「ねえ、シュン君。ところで、朱莉ちゃんから連絡が来て、来週の日曜日にコスモスを見に行かないかって誘われたんだけど」
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