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本編
五月雨とカサブランカ4
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大雨の日々も、いつかは止む。
日本列島に1ヶ月以上停滞していた梅雨前線がようやく消え、関東地方梅雨明け宣言と共に世間は夏休み期間へと突入していた。
そうなると変化するのが朝香の夕方ルーティン。
2ヶ月弱続く私立大学の夏季休暇は、教職員こそ勤務しているものの学生は休みなのでカフェテリアが休業となる。厨房の岩瀬もこの期間は長期休みを利用し家族を置いて1週間ほどバカンスに行くそうだ。日々働いているので「長い休みの1週間くらいはパパを自由にさせてあげよう」とご家族の優しい理解の上で成り立っている羽伸ばし期間なのだそうだ。
「羽根伸ばしって言ってもね、暗に期待されてるんだよ。ブランドバッグとか、そういうのとか」
休業期間前日に岩瀬は片眉を下げながら朝香に愚痴っていたのだが、向日葵さんという彼氏を得た今の朝香にとってそれはもう愚痴ではないという事を理解出来ている。
「私にもお土産よろしくお願いしますね♪ 岩瀬さん」
朝香が明るい表情で岩瀬に言うと
「も~! 朝香ちゃんまでそういうキツい事言うようになったかぁ~! さっすが大人のレディに成長しただけあるよ~!!」
大笑いしながら朝香に冗談を飛ばしていた。
「ふふっ♪ 私ももうちょっとしたら20歳になりますから。次に岩瀬さんとお会いする時はもう誕生日きてしまうので」
朝香の誕生日は9月30日。大学の後期授業がスタートする時期にあたる。
すると岩瀬は目を見開いて「そっかぁ」とまた大声をあげて
「それじゃあなんか買ってあげないとバチ当たっちゃうよねぇ!」
そう返してきたので、朝香も冗談まじりに
「では、可愛らしいキーホルダーをお願いしますね」
と、気を遣わせないお土産をリクエストした。
ブランドバッグとまではいかなくても可愛らしい小物は正直欲しいし興味がある。
「了解っ! じゃあ次に会うのは9月末だね! 朝香ちゃん暑さに気をつけて!!」
岩瀬はニッコリ微笑み、朝香にバイバイの手を振ったのだが……すぐに
「あっ、今日はこのまま『雨上がり珈琲店』に戻るんだよね? 彼氏の上原くんはテスト中だから」
学生は前期試験最終日でこの後もテストが立て込んでいるのを知っている岩瀬が朝香を呼び止める。
「えっ……」
春は「野獣」と呼ばれていた向日葵さんだったが、名付け元の玄川絵梨がいつのまにかキャンパスに来なくなっていたので、誰しもその呼び名を忘れており「金髪ピアスで派手だけど真面目な学生の上原くん」として、彼のイメージは著しく向上していた。「毎夕豆の配達に来てる珈琲屋の女の子と付き合っている」のも皆に知られていて、岩瀬も生温かい目で見守ってくれていた。
「あ……はい。7限まで試験があって一緒には帰らない……です」
さっきまで和気藹々と会話出来ていたというのに、朝香の声は段々と尻すぼみになり顔も少しずつ下がっていく。
岩瀬の口からたまに「彼氏の上原くん」というワードを耳にするから今日が初めてではない。岩瀬とは冗談を言い合う仲であってもそのワードを聞いた瞬間頬が熱くなるしなかなか慣れないのである。
「じゃあおじさんから若者達にささやかなプレゼント。プリンいっぱい作ったから夕紀ちゃんにも上原くんにも分けてあげてね~っていうか、誰かに食べて欲しくてさ。厨房メンバーと分けてもこれだけ余っちゃったってだけなんだけどね」
岩瀬が一旦厨房へ入り直し、照れ顔の朝香に手渡してきたのは沢山のプリン。
長期休みに入るので材料を余らす事なく作り続けたら余ってしまったらしい。
「わぁ~!! ありがとうございます!!」
余り物であっても朝香は岩瀬お手製のプリンが大好きだし、夕紀も健人も「昭和レトロなプリンいいなぁ」と羨ましがっていたので持って帰ったら喜ぶこと間違いない。満面の笑みで受け取り、そのまま自宅アパートではなく『雨上がり珈琲店』まで戻る。
(いっぱいあるから、私と夕紀さんと向日葵さんと……初恵さん源さん田上さんご家族。美優ちゃんは食物アレルギーなかったよね)
指折り数えながら可愛らしい田上美優を頭に思い描いたところで……
(あ、そうだ。美優ちゃん確か、向日葵さんのことを『さんちゃん』って呼んでいたよね?)
最寄り駅から向日葵さんと2人で出てきたところを美優に見られており、それをキッカケにして夕紀と健人に彼氏の存在がバレた件を思い出した。
(プリン、『雨上がり珈琲店』より前に『フラワーショップ田上』へ持って行こう)
「野獣」呼びが無くなった向日葵さんに、知らずに付いていた「さんちゃん」という呼び名が気になってきたので、朝香は電車を降りるなりその足を『フラワーショップ田上』へ向ける。
「こんばんは」
『フラワーショップ田上』に入店すると、美優がトコトコとこちらへ寄ってきて
「あちゃ!」
「朝香ちゃん」と呼び声をあげてハイタッチを求めてくれたので、朝香はしゃがんで
「美優ちゃん♡」
パチンと合わせてくる小さな手を自分の手で受け止める。
「あちゃ! あーちゃ!」
2歳の美優は半年前からハイタッチが大好き。商店街の大人達と接する機会が多いせいか、人見知りする事なく常連客にはこうしてフレンドリーに接してくれる。
(ふふっ♡ 可愛いなぁ♡)
朝香は一人っ子な上、両親が自営業をしている理由から親戚同士で集まる機会が少ない。自分よりも年下の可愛らしい子どもと接する経験もほぼなかった。商店街で様々な年代の人間とフレンドリーな関係を築けている今の状況は、地元から離れて夕紀の支えとなって良かったと思う事の一つでもある。
「あっ、朝香ちゃんいらっしゃい。ごめんなさいね、今日はバケツ早めに売り切れちゃったのよ。ケースに入ってるお花しかなくって」
美優のハイタッチで朝香が来店してきたのを知った奥さんがお腹に手を添えながら出てきたので
「あっ……」
(プリン渡す理由で来ちゃったけどそうだよね……商品も買ってあげないと)
わざわざ妊婦の奥さんを無理してこちらに来させてしまった負い目を感じて商品ケースへと目線を向ける。
大雨の日々も、いつかは止む。
日本列島に1ヶ月以上停滞していた梅雨前線がようやく消え、関東地方梅雨明け宣言と共に世間は夏休み期間へと突入していた。
そうなると変化するのが朝香の夕方ルーティン。
2ヶ月弱続く私立大学の夏季休暇は、教職員こそ勤務しているものの学生は休みなのでカフェテリアが休業となる。厨房の岩瀬もこの期間は長期休みを利用し家族を置いて1週間ほどバカンスに行くそうだ。日々働いているので「長い休みの1週間くらいはパパを自由にさせてあげよう」とご家族の優しい理解の上で成り立っている羽伸ばし期間なのだそうだ。
「羽根伸ばしって言ってもね、暗に期待されてるんだよ。ブランドバッグとか、そういうのとか」
休業期間前日に岩瀬は片眉を下げながら朝香に愚痴っていたのだが、向日葵さんという彼氏を得た今の朝香にとってそれはもう愚痴ではないという事を理解出来ている。
「私にもお土産よろしくお願いしますね♪ 岩瀬さん」
朝香が明るい表情で岩瀬に言うと
「も~! 朝香ちゃんまでそういうキツい事言うようになったかぁ~! さっすが大人のレディに成長しただけあるよ~!!」
大笑いしながら朝香に冗談を飛ばしていた。
「ふふっ♪ 私ももうちょっとしたら20歳になりますから。次に岩瀬さんとお会いする時はもう誕生日きてしまうので」
朝香の誕生日は9月30日。大学の後期授業がスタートする時期にあたる。
すると岩瀬は目を見開いて「そっかぁ」とまた大声をあげて
「それじゃあなんか買ってあげないとバチ当たっちゃうよねぇ!」
そう返してきたので、朝香も冗談まじりに
「では、可愛らしいキーホルダーをお願いしますね」
と、気を遣わせないお土産をリクエストした。
ブランドバッグとまではいかなくても可愛らしい小物は正直欲しいし興味がある。
「了解っ! じゃあ次に会うのは9月末だね! 朝香ちゃん暑さに気をつけて!!」
岩瀬はニッコリ微笑み、朝香にバイバイの手を振ったのだが……すぐに
「あっ、今日はこのまま『雨上がり珈琲店』に戻るんだよね? 彼氏の上原くんはテスト中だから」
学生は前期試験最終日でこの後もテストが立て込んでいるのを知っている岩瀬が朝香を呼び止める。
「えっ……」
春は「野獣」と呼ばれていた向日葵さんだったが、名付け元の玄川絵梨がいつのまにかキャンパスに来なくなっていたので、誰しもその呼び名を忘れており「金髪ピアスで派手だけど真面目な学生の上原くん」として、彼のイメージは著しく向上していた。「毎夕豆の配達に来てる珈琲屋の女の子と付き合っている」のも皆に知られていて、岩瀬も生温かい目で見守ってくれていた。
「あ……はい。7限まで試験があって一緒には帰らない……です」
さっきまで和気藹々と会話出来ていたというのに、朝香の声は段々と尻すぼみになり顔も少しずつ下がっていく。
岩瀬の口からたまに「彼氏の上原くん」というワードを耳にするから今日が初めてではない。岩瀬とは冗談を言い合う仲であってもそのワードを聞いた瞬間頬が熱くなるしなかなか慣れないのである。
「じゃあおじさんから若者達にささやかなプレゼント。プリンいっぱい作ったから夕紀ちゃんにも上原くんにも分けてあげてね~っていうか、誰かに食べて欲しくてさ。厨房メンバーと分けてもこれだけ余っちゃったってだけなんだけどね」
岩瀬が一旦厨房へ入り直し、照れ顔の朝香に手渡してきたのは沢山のプリン。
長期休みに入るので材料を余らす事なく作り続けたら余ってしまったらしい。
「わぁ~!! ありがとうございます!!」
余り物であっても朝香は岩瀬お手製のプリンが大好きだし、夕紀も健人も「昭和レトロなプリンいいなぁ」と羨ましがっていたので持って帰ったら喜ぶこと間違いない。満面の笑みで受け取り、そのまま自宅アパートではなく『雨上がり珈琲店』まで戻る。
(いっぱいあるから、私と夕紀さんと向日葵さんと……初恵さん源さん田上さんご家族。美優ちゃんは食物アレルギーなかったよね)
指折り数えながら可愛らしい田上美優を頭に思い描いたところで……
(あ、そうだ。美優ちゃん確か、向日葵さんのことを『さんちゃん』って呼んでいたよね?)
最寄り駅から向日葵さんと2人で出てきたところを美優に見られており、それをキッカケにして夕紀と健人に彼氏の存在がバレた件を思い出した。
(プリン、『雨上がり珈琲店』より前に『フラワーショップ田上』へ持って行こう)
「野獣」呼びが無くなった向日葵さんに、知らずに付いていた「さんちゃん」という呼び名が気になってきたので、朝香は電車を降りるなりその足を『フラワーショップ田上』へ向ける。
「こんばんは」
『フラワーショップ田上』に入店すると、美優がトコトコとこちらへ寄ってきて
「あちゃ!」
「朝香ちゃん」と呼び声をあげてハイタッチを求めてくれたので、朝香はしゃがんで
「美優ちゃん♡」
パチンと合わせてくる小さな手を自分の手で受け止める。
「あちゃ! あーちゃ!」
2歳の美優は半年前からハイタッチが大好き。商店街の大人達と接する機会が多いせいか、人見知りする事なく常連客にはこうしてフレンドリーに接してくれる。
(ふふっ♡ 可愛いなぁ♡)
朝香は一人っ子な上、両親が自営業をしている理由から親戚同士で集まる機会が少ない。自分よりも年下の可愛らしい子どもと接する経験もほぼなかった。商店街で様々な年代の人間とフレンドリーな関係を築けている今の状況は、地元から離れて夕紀の支えとなって良かったと思う事の一つでもある。
「あっ、朝香ちゃんいらっしゃい。ごめんなさいね、今日はバケツ早めに売り切れちゃったのよ。ケースに入ってるお花しかなくって」
美優のハイタッチで朝香が来店してきたのを知った奥さんがお腹に手を添えながら出てきたので
「あっ……」
(プリン渡す理由で来ちゃったけどそうだよね……商品も買ってあげないと)
わざわざ妊婦の奥さんを無理してこちらに来させてしまった負い目を感じて商品ケースへと目線を向ける。
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