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「リョウ」に、サヨナラの口付けを。
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「これは私の場合であって当て嵌まるとも限らないんだけどね」
花ちゃんはその経験を経てきたからこそ眉を下げて複雑な顔をしている。専業主婦のカスミさんを何とか慮りたかったに違いなかった。
「花さんの予想は大体合ってましたよ。妹さんから話を伺った時まさにそのような事を仰ってましたから」
樹くんは花ちゃんの意見を正解だというような素振りをして話を続ける。
「妹さん曰く、頑張ろうとするんだけど空回りしていったそうです。
料理を始めようとすれば指を切るし食材ダメにして出費が余計にかかるし、掃除や洗濯も元の状態より散らかるし洗濯機も壊してしまう。
夏に聞いた異動の期日はそれでも着々と進んでいく。でもやはり何も出来ないし、ストレスばかりが溜まる。月一の夫婦生活は苦痛なものでしかなくなり夜の営みもつまらなく感じていく。体の筋肉は日々のプレッシャーで強張り、睡眠不足にもなっていく……
悪循環していくうちに人肌寂しい12月がやってきて『歓楽街の外れに、オイルマッサージの上手な白いワンコが居る』という噂を聞いたのだそうです。
妹さんは実家で白いチワワを飼っていた事があり甲斐甲斐しく世話をしていた時期があった。その白いワンコが実家のチワワと似ているのなら会ってみたい、噂のように癒してくれるなら体験してみたい。……妹さんはその場にある売れそうなものは売り払って少しばかりのお金を作ると、急いでチワワの予約を申し込んで」
「それが新規のカスミさんを、オイルでほぐした日だったんだね」
僕は樹くんが言い終わらない内に断定し、彼を頷かせた。
「チワワの格好をした男の子による癒しの時間は、今まで感じた事もないくらい心地良いものだったようです。硬く閉じた小さな花の蕾が緩んでふわりと花弁を伸ばしていくのを感じ、更にチワワくんの言った『萎んで少しくすんでしまっていても僕の熱で綺麗なドライフラワーに変えてあげる』という枯れた花でも救いを与える言葉はオイル以上に癒されたそうです」
「それ、僕が新規のお客様にいつも言っているセリフ……」
ーーー
『声は我慢しなくていいよ。まだかたくなっている蕾も僕が温めて柔らかく大きく花開かせてあげる……たとえ萎んで少しくすんでしまっていても、僕の熱で綺麗なドライフラワーに変えてあげる』
ーーー
これは緊張しているお客様の気持ちをほぐす為に用いる定型句の一つだった。決してカスミさんだけに告げた特別な言葉ではない。
「太地くんがご新規のお客様にいつも口にする定型句でも、妹さんの心に深く刺さったしのめり込んだ。貯蓄しなければならない事なんか忘れて借金をし、癒しのチワワくんに会いに行ったんだ。
可愛らしいチワワが提供するコースは他のセラピストより安くささやかなものだけど、そのチワワにすら嫌われるのが怖いから身綺麗にする……すると更に金が必要になる、また借金をする……最初はごく少額だった借金の額は少しずつ膨らんで、3月になると流石にヤバいと感じた。
だから友人に都合の良い事のみを告げて頼ったのさ。借金は友人に肩代わりしてもらい、客のニーズが合わないキャバクラ店なのを知ってて働き始めた」
「僕は特別体を綺麗にする必要ないって言ってたのに……」
樹くんの話に僕はムカついてきた。
困窮したのは浪費であったにしても、結局借金のきっかけが僕になってしまっている。
僕は何度も金銭的無理をしてはいけないと言っていたのに、それを言い訳にされるのは正直不愉快だった。
「太ちゃんがいくら言っても、やっぱり借金して服を買ったり綺麗になるのはやめられなかったんだよ。
本当なら家の事を自分で出来るようにしたり早い段階からお勤めしたりして太ちゃんの為に使うお金を作るんだろうけどそれも出来ないし」
でも花ちゃんは考えが少し違ったようで、僕を自分の方に向かせると首を左右に振る。
「花ちゃん……」
「それがきっと、女心なんじゃないかなぁ」
僕が嫌悪するような内容でも、花ちゃんはそう言って同情するかのように寂しそうな微笑みを浮かべた。
寂しさを経験する既婚者だったから、何より女性だから……だからこそカスミさんの行動が理解出来る。
花ちゃんの微笑みはまるで僕にそう語っているかのようだ。
「女心とは可憐であり狂おしいものだと私も感じます。太地くんから『恋人じゃない』と言われてもやはり恋心を抱いてしまうし『特別綺麗にしなくていい』と言われてもやはり褒められたいが為に行動してしまうし『ただの白い犬だ』と言われてももう実家のチワワ以上の情をかけてしまっていたんでしょう。それで更に白いチワワくんの一番を手に入れたくなった。
チワワくんとして他の客を触った指で身体をほぐされたくなかったし、誰かを甘やかにさせた唇で囁かれたくもなかった。その日1番最初に触って貰いたかったからこそ1枠目に拘った……例の金銭取引の理由はそういう事だったみたいです」
僕はそこで大きな溜め息を吐いて
「未遂だったけど、僕の常連さん達にお金を渡して7月1日の1枠目を譲ってくれるよう交渉してたらしいよ」
「金銭取引」がよく分かってなかった花ちゃんに、僕が説明をしてあげた。
「そう、なんだ……」
流石にそれには同情の気持ちはなかったようで、顔が俯く。
花ちゃんはその経験を経てきたからこそ眉を下げて複雑な顔をしている。専業主婦のカスミさんを何とか慮りたかったに違いなかった。
「花さんの予想は大体合ってましたよ。妹さんから話を伺った時まさにそのような事を仰ってましたから」
樹くんは花ちゃんの意見を正解だというような素振りをして話を続ける。
「妹さん曰く、頑張ろうとするんだけど空回りしていったそうです。
料理を始めようとすれば指を切るし食材ダメにして出費が余計にかかるし、掃除や洗濯も元の状態より散らかるし洗濯機も壊してしまう。
夏に聞いた異動の期日はそれでも着々と進んでいく。でもやはり何も出来ないし、ストレスばかりが溜まる。月一の夫婦生活は苦痛なものでしかなくなり夜の営みもつまらなく感じていく。体の筋肉は日々のプレッシャーで強張り、睡眠不足にもなっていく……
悪循環していくうちに人肌寂しい12月がやってきて『歓楽街の外れに、オイルマッサージの上手な白いワンコが居る』という噂を聞いたのだそうです。
妹さんは実家で白いチワワを飼っていた事があり甲斐甲斐しく世話をしていた時期があった。その白いワンコが実家のチワワと似ているのなら会ってみたい、噂のように癒してくれるなら体験してみたい。……妹さんはその場にある売れそうなものは売り払って少しばかりのお金を作ると、急いでチワワの予約を申し込んで」
「それが新規のカスミさんを、オイルでほぐした日だったんだね」
僕は樹くんが言い終わらない内に断定し、彼を頷かせた。
「チワワの格好をした男の子による癒しの時間は、今まで感じた事もないくらい心地良いものだったようです。硬く閉じた小さな花の蕾が緩んでふわりと花弁を伸ばしていくのを感じ、更にチワワくんの言った『萎んで少しくすんでしまっていても僕の熱で綺麗なドライフラワーに変えてあげる』という枯れた花でも救いを与える言葉はオイル以上に癒されたそうです」
「それ、僕が新規のお客様にいつも言っているセリフ……」
ーーー
『声は我慢しなくていいよ。まだかたくなっている蕾も僕が温めて柔らかく大きく花開かせてあげる……たとえ萎んで少しくすんでしまっていても、僕の熱で綺麗なドライフラワーに変えてあげる』
ーーー
これは緊張しているお客様の気持ちをほぐす為に用いる定型句の一つだった。決してカスミさんだけに告げた特別な言葉ではない。
「太地くんがご新規のお客様にいつも口にする定型句でも、妹さんの心に深く刺さったしのめり込んだ。貯蓄しなければならない事なんか忘れて借金をし、癒しのチワワくんに会いに行ったんだ。
可愛らしいチワワが提供するコースは他のセラピストより安くささやかなものだけど、そのチワワにすら嫌われるのが怖いから身綺麗にする……すると更に金が必要になる、また借金をする……最初はごく少額だった借金の額は少しずつ膨らんで、3月になると流石にヤバいと感じた。
だから友人に都合の良い事のみを告げて頼ったのさ。借金は友人に肩代わりしてもらい、客のニーズが合わないキャバクラ店なのを知ってて働き始めた」
「僕は特別体を綺麗にする必要ないって言ってたのに……」
樹くんの話に僕はムカついてきた。
困窮したのは浪費であったにしても、結局借金のきっかけが僕になってしまっている。
僕は何度も金銭的無理をしてはいけないと言っていたのに、それを言い訳にされるのは正直不愉快だった。
「太ちゃんがいくら言っても、やっぱり借金して服を買ったり綺麗になるのはやめられなかったんだよ。
本当なら家の事を自分で出来るようにしたり早い段階からお勤めしたりして太ちゃんの為に使うお金を作るんだろうけどそれも出来ないし」
でも花ちゃんは考えが少し違ったようで、僕を自分の方に向かせると首を左右に振る。
「花ちゃん……」
「それがきっと、女心なんじゃないかなぁ」
僕が嫌悪するような内容でも、花ちゃんはそう言って同情するかのように寂しそうな微笑みを浮かべた。
寂しさを経験する既婚者だったから、何より女性だから……だからこそカスミさんの行動が理解出来る。
花ちゃんの微笑みはまるで僕にそう語っているかのようだ。
「女心とは可憐であり狂おしいものだと私も感じます。太地くんから『恋人じゃない』と言われてもやはり恋心を抱いてしまうし『特別綺麗にしなくていい』と言われてもやはり褒められたいが為に行動してしまうし『ただの白い犬だ』と言われてももう実家のチワワ以上の情をかけてしまっていたんでしょう。それで更に白いチワワくんの一番を手に入れたくなった。
チワワくんとして他の客を触った指で身体をほぐされたくなかったし、誰かを甘やかにさせた唇で囁かれたくもなかった。その日1番最初に触って貰いたかったからこそ1枠目に拘った……例の金銭取引の理由はそういう事だったみたいです」
僕はそこで大きな溜め息を吐いて
「未遂だったけど、僕の常連さん達にお金を渡して7月1日の1枠目を譲ってくれるよう交渉してたらしいよ」
「金銭取引」がよく分かってなかった花ちゃんに、僕が説明をしてあげた。
「そう、なんだ……」
流石にそれには同情の気持ちはなかったようで、顔が俯く。
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