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序章
一話
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欲に塗れた街だった。
橙の光は遊女の白粉を淡く照らし、牢のような格子から溢れる着物を男は食い入るように覗く。絶えず三味線と笑い声が響き、酒気とわずかな飯の匂いが砂利に紛れて沈んでいった。踏み付けにされた気配と匂いの奥には、欲と、恨みと、悲しみとが静かに揺蕩っていた。
「一ミ」
かずみ。そう呼ばれた青年が目を開ける。粗末な服に、痩せた小さな体。不釣り合いなほど長く伸ばされた黒髪は脂と血でところどころ固まっていた。前髪は長く、その顔を覆い隠している。一ミは少年とも見紛う体を起こす。現世に繋がるための縁のように抱えていた火縄を背に隠し、一ミは粗末な引き戸を指の幅ほど開けた。
「へい」
「足抜けだ」
「へい」
「首括ってでも引きずってこい」
「へい」
扉の向こうに立っていたのは置屋と呼ばれる男だった。新月の夜。暗がりでよく見えない置屋の顔から、怒りに戦慄く声が搾り出されていた。
一ミは、足抜け、つまり遊郭を逃げ出した遊女の特徴を聞きながら、背に隠した火縄を抱え直した。火打石と縄を襷掛けした袖に入れ、袂には短刀を収めた。ばらついていた髪を簡単にしばり、草鞋が脱げないよう足首にしかと紐を巻いた。
家の中、一ミは竹でできた梯子を使い屋根裏に上がり、窓から屋根へと登った。風が強い。長い髪が風にはためいた。
足抜けした遊女は紫の着物を着ていると言う。紫は夜闇に紛れてわかりにくい。加えて今日は新月だった。空には星しか無く、紫を見つけるには頼りない光だった。
この街は高い壁に囲まれている。正門は重く、すでに閉じられ門番も立っている。この街から抜け出すには門を越えるか、壁を越えるかしか無かった。一ミは先ほどの置屋の屋敷の方をチラと見る。仕込み屋とは別に建てられたあの屋敷に、遊女は近づかないだろう。
立ち上がり、屋敷の反対に壁際に向かう。屋根を伝い、ネズミのように一ミは大して広くないこの街の端まで走った。
この街は汚い。
女は食い物にされて、男はそれを貪り、その食べこぼしを下人が拾って食う。一ミはそんな街を警備する長吏であった。
壁に着く。誰かが立ち小便でも引っ掛けたのか、ひどい臭いだった。一ミは奥歯で舌打ちを噛み殺し、ゆっくりと、気配を殺し、できるだけ静かに屋根を伝う。ほとんど這いつくばるようにして壁伝いに女を探した。
ふと家の傍に積まれた桶のすぐそばに、着物が落ちていることに気づく。一ミは上半身だけを屋根から垂らし、その着物を拾い上げた。それは置屋から聞いた紫の着物と柄が同じだった。見事な藤の刺繍がその布地と糸を誇り、触れれば指が花弁に沈むかと思うほど美しい。
特徴のあるこの着物のまま逃げることを嫌って、脱ぎ捨てたのだろうか。白い襦袢で逃げるほうが目立つが、遊女のほとんどは借金のカタか口減しで売り飛ばされた農民の娘であった。そんな彼女たちに夜に逃げる経験など、あるはずもない。
一ミその着物を捨てるか少し迷って、簡単に畳んで背負った。足抜けした遊女は連れ戻された後、酷い拷問を受けると聞く。その時に、この見事な着物があったほうが、少しは心が安らぐかもしれないと、そう思ってのことだった。
着物が落ちていたすぐそばに小さな足跡がある。それはやはり壁沿いに伸びており、一ミがきた方向とは逆につま先が向いている。一ミは襷を締め直し、その足跡を再び追った。今度は白色を探せば良いので、少し気が楽だった。
注意深く地面を観察しながら屋根の上を進んでいくと、少し向こうの辻が騒がしいことに気がつく。騒ぎがあれば当然遊女は進む道を変えるだろう。面倒だな、と一ミは屋根の棟から少しだけ顔を出して伺った。
この街は正門が閉まってからも、営業を続ける店が多い。表向きは店仕舞いしていても、部屋の中で女が男を接待しているところがほとんどだ。故にこの街が無人になることはなく、大きな騒ぎがあれば夜中でも野次馬が集まる。
その辻にも小さく野次馬が集まり、そこを囲む店から窓を開けた遊女と客が覗き込んでいる。その中央、ちょうど四辻の真ん中に、一ミの方にに背を向けた一人の男が立っていた。
白い竹田頭巾を被り、流れた布が肩にかけられた熊の毛皮の一部を隠している。毛皮には爪も手足もついているが、それが地面につくことはなく、つまりそれはそれを身につけた男が熊並みの体格であることを物語っていた。黒い下駄が地面を擦り、半身を翻してこちらに体が向く。開いた胸元から指の先まで、その体は包帯に覆われている。そしてその手には黒黒とした髪が握られていた。
掴まれた黒い髪が引っ張られ、地面に倒れ込んでいたらしい女が引き摺られる。先ほどまで男の影になっていて見えなかったようだ。その女は白の襦袢と足袋だけで、砂に塗れていた。遠くてよく見えないが、その顔は赤く腫れているように見える。
「焔硝の頭だ」
誰かが噂する。えんしょうのかしら、と一ミは口の中で言葉を転がした。焔硝といえば最近この辺りで幅をきかせ始めてきた長吏の一派だった。
聞けば戦乱の折、蝙蝠のようにヒラヒラと味方を変え、仁義や誉を通さず敵を殺して回ったという、傭兵集団。この国で忌避されがちな火薬と鉄をいち早く取り入れ、ついた渾名が「焔硝」という。革細工や死体処理、幕府の手が届かない花街などの警護が生業の一ミの一派とは、一線を画している。また、焔硝といえば乱暴者でも有名だった。
焔硝の頭は女の髪を引きずって、自分の腰に掛かっている刀の柄を撫でている。その仕草にはっとして、一ミは慌てて屋根を滑り降りた。
「すいやせん。その遊女、アタシの幅でさ」
辻に一ミの声が響く。女に駆け寄り、男を仰ぎ見れば、その大きさが際立った。小柄な一ミはほとんど見上げる形になり、こっそり唾を飲む。ちらと足元を見れば、腫れた顔面の隙間から涙を流しながら、女が助けを求めるように一ミを見つめていた。一ミはそっと目を逸らした。
再び焔硝の頭を仰ぎ見る。竹田頭巾の隙間から覗く目は、怪訝そうに一ミを見下ろしている。
「なんだァ?」
ぐ、とその広い背が曲がり、一ミの顔を覗き込むように顔が降りてくる。よく見ればその目は青く、不思議な光を孕んでいた。
「もごもご喋んじゃねえや、聞こえねえよチビスケ」
チビスケ。む、と眉間に皺を寄せ、一ミはできるだけ自分を大きく見せようと胸を張った。
「その遊女はアタシが連れ戻すよう言われてるんです! どうかお離しくだせえ!」
「うるせえ!」
一ミの何倍もの声量で怒鳴り返される。一ミの拳が一瞬跳ね、胸ぐらに掴みかかりそうになる。しかし、視界の端に映った遊女を見て、一ミは拳を作り手を下ろした。せめて目だけは逸らすまいと思ってか、その青い瞳を精一杯睨みつける。その目は徐に湾曲した。
「おめえ、名前はなんてンだ」
「……名乗る名は御座いません」
お前に名乗る名は、という言葉は飲み込んだ。ほお、と小馬鹿にしたように笑いながら、焔硝の頭は体を起こした。左腕の袖を抜き、袂から手を出して自らの顎を撫でている。刀の柄から手が離れたことに、一ミは少しだけ安堵した。その男はほらよ、と軽い声と共に、遊女を片腕で足元に引き摺った。短い悲鳴をあげた遊女は一ミの足元に倒れ込み、解放されて垂れた黒髪の向こうで声を押し殺し涙を流している。
一ミは、ちらと焔硝の頭を一瞥してから、膝をついて遊女を抱き起こした。その手は一ミの襟元を千切れんばかりに掴み、決して離れようとしなかった。
「その女、俺の服を汚しやがってな」
いつのまにか咥えた煙管に火をつけながら、男が言う。
「どこン遊女だって聞いても答えやがらねえんで、小突いてやったら泣いて話になんねえでよ。その先どうしてやろうかと思ってたトコだ」
紫煙が竹田頭巾の隙間から吹き出す。その目は冷ややかで、緩く上がった顎に引っ張られた頭巾の口布が緩く風にはためいた。一ミは焔硝の頭の言わんとする事を具に感じ取り、眉間に皺を寄せた。一ミは己の胸に縋り付く遊女に目を配った。ひどく怯えている。
一ミは一つ、呼吸を置いた後、胸元の遊女の手に自分のものを重ねた。柔くその手を離した後、立てていた膝を地面につける。正座した状態でもう一度、目の前の男の顔を見上げた。頭巾の隙間、楽しげに目が細まった。
「……どうも、すみませんでした」
地面に手をつき、頭を下げる。周囲からくすくすと堪えるような笑い声が聞こえてくる。
じゃり、と砂が擦れる音がして、焔硝の頭の足が差し出される。一ミは頭を下げたまま目を動かしてその顔を見上げれば、何も言わずにただ見下ろしていた。
一ミは長い前髪の陰でその男を睨みつけながら、おずおずと口を開いた。目の前に差し出された爪先を見る。ぐ、と意を決し、一ミはその親指に舌を忍ばせた。
妙な味だった。それに合わせてわずかな砂の感触。一ミは眉間に皺を寄せ、その親指を丹念に舐った。指先、爪、指の間。不意に足が更に突き出され、舌の上を親指が滑る。一ミは少し躊躇った後、その親指を口に含んだ。
「ふっ、は、はっ、はは、はっはっは!」
耐えきれない、と言わんばかりに笑い声が上がる。口の中の指が固くなり、火薬の匂いが近くなる。しゃがみ込んだ焔硝の頭は、すでに足の親指を含んでいる一ミの口に無理やり手の親指を捩じ込んだ。頬を摘むように顔を持ち上げ、その顔を覗き込んで嬉しそうに目を細めて喉をクックと鳴らしていた。
「そんなに美味いかよ、俺の足は」
一ミの唇の端から唾液が垂れる。口内の親指が奥歯をなぞり、舌の形を確かめるように捏ねくり回す。己ではしない不規則な動きに、おえ、と一ミの喉奥が収縮する。生理的に込み上げた涙に、焔硝の頭は更に喜んだ。
「おめえ、やっぱ名前はなんてンだ」
指が舌の上から退く。楽しげな青い目がきらきらと瞬いている。一ミは地面についた手を握りしめた。
「……言うかよ」
一ミの体が投げ出される。一ミは摘まれた頬を横薙ぎに引っ張られ、地面に引き倒されていた。口の中に砂が入る。頬の痛みとともに誤魔化すように一ミは手の甲で舌の上を拭った。男が立ち上がる。わずかな星明かりが逆光になっていた。
「そうかい」
はん、と鼻で笑って、その男はゆっくりと踵を返した。
橙の光は遊女の白粉を淡く照らし、牢のような格子から溢れる着物を男は食い入るように覗く。絶えず三味線と笑い声が響き、酒気とわずかな飯の匂いが砂利に紛れて沈んでいった。踏み付けにされた気配と匂いの奥には、欲と、恨みと、悲しみとが静かに揺蕩っていた。
「一ミ」
かずみ。そう呼ばれた青年が目を開ける。粗末な服に、痩せた小さな体。不釣り合いなほど長く伸ばされた黒髪は脂と血でところどころ固まっていた。前髪は長く、その顔を覆い隠している。一ミは少年とも見紛う体を起こす。現世に繋がるための縁のように抱えていた火縄を背に隠し、一ミは粗末な引き戸を指の幅ほど開けた。
「へい」
「足抜けだ」
「へい」
「首括ってでも引きずってこい」
「へい」
扉の向こうに立っていたのは置屋と呼ばれる男だった。新月の夜。暗がりでよく見えない置屋の顔から、怒りに戦慄く声が搾り出されていた。
一ミは、足抜け、つまり遊郭を逃げ出した遊女の特徴を聞きながら、背に隠した火縄を抱え直した。火打石と縄を襷掛けした袖に入れ、袂には短刀を収めた。ばらついていた髪を簡単にしばり、草鞋が脱げないよう足首にしかと紐を巻いた。
家の中、一ミは竹でできた梯子を使い屋根裏に上がり、窓から屋根へと登った。風が強い。長い髪が風にはためいた。
足抜けした遊女は紫の着物を着ていると言う。紫は夜闇に紛れてわかりにくい。加えて今日は新月だった。空には星しか無く、紫を見つけるには頼りない光だった。
この街は高い壁に囲まれている。正門は重く、すでに閉じられ門番も立っている。この街から抜け出すには門を越えるか、壁を越えるかしか無かった。一ミは先ほどの置屋の屋敷の方をチラと見る。仕込み屋とは別に建てられたあの屋敷に、遊女は近づかないだろう。
立ち上がり、屋敷の反対に壁際に向かう。屋根を伝い、ネズミのように一ミは大して広くないこの街の端まで走った。
この街は汚い。
女は食い物にされて、男はそれを貪り、その食べこぼしを下人が拾って食う。一ミはそんな街を警備する長吏であった。
壁に着く。誰かが立ち小便でも引っ掛けたのか、ひどい臭いだった。一ミは奥歯で舌打ちを噛み殺し、ゆっくりと、気配を殺し、できるだけ静かに屋根を伝う。ほとんど這いつくばるようにして壁伝いに女を探した。
ふと家の傍に積まれた桶のすぐそばに、着物が落ちていることに気づく。一ミは上半身だけを屋根から垂らし、その着物を拾い上げた。それは置屋から聞いた紫の着物と柄が同じだった。見事な藤の刺繍がその布地と糸を誇り、触れれば指が花弁に沈むかと思うほど美しい。
特徴のあるこの着物のまま逃げることを嫌って、脱ぎ捨てたのだろうか。白い襦袢で逃げるほうが目立つが、遊女のほとんどは借金のカタか口減しで売り飛ばされた農民の娘であった。そんな彼女たちに夜に逃げる経験など、あるはずもない。
一ミその着物を捨てるか少し迷って、簡単に畳んで背負った。足抜けした遊女は連れ戻された後、酷い拷問を受けると聞く。その時に、この見事な着物があったほうが、少しは心が安らぐかもしれないと、そう思ってのことだった。
着物が落ちていたすぐそばに小さな足跡がある。それはやはり壁沿いに伸びており、一ミがきた方向とは逆につま先が向いている。一ミは襷を締め直し、その足跡を再び追った。今度は白色を探せば良いので、少し気が楽だった。
注意深く地面を観察しながら屋根の上を進んでいくと、少し向こうの辻が騒がしいことに気がつく。騒ぎがあれば当然遊女は進む道を変えるだろう。面倒だな、と一ミは屋根の棟から少しだけ顔を出して伺った。
この街は正門が閉まってからも、営業を続ける店が多い。表向きは店仕舞いしていても、部屋の中で女が男を接待しているところがほとんどだ。故にこの街が無人になることはなく、大きな騒ぎがあれば夜中でも野次馬が集まる。
その辻にも小さく野次馬が集まり、そこを囲む店から窓を開けた遊女と客が覗き込んでいる。その中央、ちょうど四辻の真ん中に、一ミの方にに背を向けた一人の男が立っていた。
白い竹田頭巾を被り、流れた布が肩にかけられた熊の毛皮の一部を隠している。毛皮には爪も手足もついているが、それが地面につくことはなく、つまりそれはそれを身につけた男が熊並みの体格であることを物語っていた。黒い下駄が地面を擦り、半身を翻してこちらに体が向く。開いた胸元から指の先まで、その体は包帯に覆われている。そしてその手には黒黒とした髪が握られていた。
掴まれた黒い髪が引っ張られ、地面に倒れ込んでいたらしい女が引き摺られる。先ほどまで男の影になっていて見えなかったようだ。その女は白の襦袢と足袋だけで、砂に塗れていた。遠くてよく見えないが、その顔は赤く腫れているように見える。
「焔硝の頭だ」
誰かが噂する。えんしょうのかしら、と一ミは口の中で言葉を転がした。焔硝といえば最近この辺りで幅をきかせ始めてきた長吏の一派だった。
聞けば戦乱の折、蝙蝠のようにヒラヒラと味方を変え、仁義や誉を通さず敵を殺して回ったという、傭兵集団。この国で忌避されがちな火薬と鉄をいち早く取り入れ、ついた渾名が「焔硝」という。革細工や死体処理、幕府の手が届かない花街などの警護が生業の一ミの一派とは、一線を画している。また、焔硝といえば乱暴者でも有名だった。
焔硝の頭は女の髪を引きずって、自分の腰に掛かっている刀の柄を撫でている。その仕草にはっとして、一ミは慌てて屋根を滑り降りた。
「すいやせん。その遊女、アタシの幅でさ」
辻に一ミの声が響く。女に駆け寄り、男を仰ぎ見れば、その大きさが際立った。小柄な一ミはほとんど見上げる形になり、こっそり唾を飲む。ちらと足元を見れば、腫れた顔面の隙間から涙を流しながら、女が助けを求めるように一ミを見つめていた。一ミはそっと目を逸らした。
再び焔硝の頭を仰ぎ見る。竹田頭巾の隙間から覗く目は、怪訝そうに一ミを見下ろしている。
「なんだァ?」
ぐ、とその広い背が曲がり、一ミの顔を覗き込むように顔が降りてくる。よく見ればその目は青く、不思議な光を孕んでいた。
「もごもご喋んじゃねえや、聞こえねえよチビスケ」
チビスケ。む、と眉間に皺を寄せ、一ミはできるだけ自分を大きく見せようと胸を張った。
「その遊女はアタシが連れ戻すよう言われてるんです! どうかお離しくだせえ!」
「うるせえ!」
一ミの何倍もの声量で怒鳴り返される。一ミの拳が一瞬跳ね、胸ぐらに掴みかかりそうになる。しかし、視界の端に映った遊女を見て、一ミは拳を作り手を下ろした。せめて目だけは逸らすまいと思ってか、その青い瞳を精一杯睨みつける。その目は徐に湾曲した。
「おめえ、名前はなんてンだ」
「……名乗る名は御座いません」
お前に名乗る名は、という言葉は飲み込んだ。ほお、と小馬鹿にしたように笑いながら、焔硝の頭は体を起こした。左腕の袖を抜き、袂から手を出して自らの顎を撫でている。刀の柄から手が離れたことに、一ミは少しだけ安堵した。その男はほらよ、と軽い声と共に、遊女を片腕で足元に引き摺った。短い悲鳴をあげた遊女は一ミの足元に倒れ込み、解放されて垂れた黒髪の向こうで声を押し殺し涙を流している。
一ミは、ちらと焔硝の頭を一瞥してから、膝をついて遊女を抱き起こした。その手は一ミの襟元を千切れんばかりに掴み、決して離れようとしなかった。
「その女、俺の服を汚しやがってな」
いつのまにか咥えた煙管に火をつけながら、男が言う。
「どこン遊女だって聞いても答えやがらねえんで、小突いてやったら泣いて話になんねえでよ。その先どうしてやろうかと思ってたトコだ」
紫煙が竹田頭巾の隙間から吹き出す。その目は冷ややかで、緩く上がった顎に引っ張られた頭巾の口布が緩く風にはためいた。一ミは焔硝の頭の言わんとする事を具に感じ取り、眉間に皺を寄せた。一ミは己の胸に縋り付く遊女に目を配った。ひどく怯えている。
一ミは一つ、呼吸を置いた後、胸元の遊女の手に自分のものを重ねた。柔くその手を離した後、立てていた膝を地面につける。正座した状態でもう一度、目の前の男の顔を見上げた。頭巾の隙間、楽しげに目が細まった。
「……どうも、すみませんでした」
地面に手をつき、頭を下げる。周囲からくすくすと堪えるような笑い声が聞こえてくる。
じゃり、と砂が擦れる音がして、焔硝の頭の足が差し出される。一ミは頭を下げたまま目を動かしてその顔を見上げれば、何も言わずにただ見下ろしていた。
一ミは長い前髪の陰でその男を睨みつけながら、おずおずと口を開いた。目の前に差し出された爪先を見る。ぐ、と意を決し、一ミはその親指に舌を忍ばせた。
妙な味だった。それに合わせてわずかな砂の感触。一ミは眉間に皺を寄せ、その親指を丹念に舐った。指先、爪、指の間。不意に足が更に突き出され、舌の上を親指が滑る。一ミは少し躊躇った後、その親指を口に含んだ。
「ふっ、は、はっ、はは、はっはっは!」
耐えきれない、と言わんばかりに笑い声が上がる。口の中の指が固くなり、火薬の匂いが近くなる。しゃがみ込んだ焔硝の頭は、すでに足の親指を含んでいる一ミの口に無理やり手の親指を捩じ込んだ。頬を摘むように顔を持ち上げ、その顔を覗き込んで嬉しそうに目を細めて喉をクックと鳴らしていた。
「そんなに美味いかよ、俺の足は」
一ミの唇の端から唾液が垂れる。口内の親指が奥歯をなぞり、舌の形を確かめるように捏ねくり回す。己ではしない不規則な動きに、おえ、と一ミの喉奥が収縮する。生理的に込み上げた涙に、焔硝の頭は更に喜んだ。
「おめえ、やっぱ名前はなんてンだ」
指が舌の上から退く。楽しげな青い目がきらきらと瞬いている。一ミは地面についた手を握りしめた。
「……言うかよ」
一ミの体が投げ出される。一ミは摘まれた頬を横薙ぎに引っ張られ、地面に引き倒されていた。口の中に砂が入る。頬の痛みとともに誤魔化すように一ミは手の甲で舌の上を拭った。男が立ち上がる。わずかな星明かりが逆光になっていた。
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