わたくし、残念ながらその書類にはサインしておりませんの。

朝霧心惺

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リリーシアの婚約者だそうです

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 空気がピリリと張り詰め、絶対的君主の鳴らす軍靴の音に誰もが息を呑む。

 武術を僅かにでも齧ったことがある人間ならば、ルフェーブルの鳴らす軍靴の音から、彼の動き全てにおいて一切の無駄がないことがわかる。


 かつん、

 軽やかな音が、リリーシアのすぐ目の前で鳴った。


「………数年にもわたる留学からの帰宅早々、家族ではなく愛おしい婚約者の元に一直線とは、いい度胸だなぁ?ルカーシュよ」


 この会場内で唯一軽くしか頭を下げていなかった男に、ルフェーブルは楽しげな声をかけた。

「ははっ!何をおっしゃいます、“父上”。貴方だって毎度毎度帰宅1番に挨拶をするのは母上ではありませんか」

 緊張を打ち砕くかのような爽やかな声を上げたルカに、どよめきが広がる。

 呆然と伏していた顔を無意識に上げたテオドールが、わなわなと身体を震わせる。


「は、ぇ、はぁ!?」


 そして、国王の御前でありながら、突拍子もない悲鳴を上げた。

 もちろん、親子団欒の和やかな空気に割って入ったテオドールに対し、ルフェーブルは絶対零度の視線を向ける。


「コレはなんだ、ルカーシュよ」

「リリーシアの婚約者だそうですよ」


 にこやかに話すルカの声により、空気の緊張が一気に高まり、重圧感が増す。
 この空気に比較的慣れているリリーシアでさえも、背中に嫌な汗がじっとりと浮かんでしまった。

「リリーシア、どういうことかね?」


 ルフェーブルからの問いかけに顔を上げたリリーシアは、ゆっくりと緊張を落ち着かせるためにカーテシーを行ってから、にっこりと微笑みを浮かべる。

「お久しゅうございます、陛下。リーラー伯爵家が長女、リリーシア・ソフィア・リーラーより今回のことの顛末をお話しさせていただきますわ」

 はんなりとした笑みに、お手本のような美しいカーテシーに、周囲からは感嘆のため息が漏れ落ちる。リリーシアの微笑みが、緊張した空気に僅かな緩みを持たせた。

 だがしかし、こんななりでも愛おしいルカに対するテオドールの失言に対して激昂しているリリーシアは、断罪の手を緩めるつもりが一切ない。
 つまり、この優しく僅かな安堵に包まれた空間は、数秒にも満たぬ間に粉々に打ち砕かれたのである。


 リリーシアは懇切丁寧に、ことの顛末を語った。

 王家主催の格式高い舞踏会の場で、テオドールにいきなり婚約破棄を叩きつけられ、名誉を傷つけられたこと。
 助けに入ったルカに対し、何度も何度も聞くに耐えない暴言を吐き捨て、挙げ句の果てには、「明日にはお前の家は没落しているだろう」や「ぶっ殺す」といった叛逆とも取れるような発言を繰り返し行い、王家に謀反の心有りと宣言したこと。

 演技家リリーシア、涙ながらに、ルカの腕に縋りながら、必死に訴えかけるように、心の中は満面の笑みで、ルフェーブルに語りかけた。


「あい分かった」


 リリーシアの言葉に、ルフェーブルはゆったりと余裕の表情で頷いたかのように思えた。


 が、しかし———、

「………ぶっ殺そう」

 実のところブチギレていた。

 
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