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第二章:新婚生活開始

4.侍女長

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 案内されたのは邸の奥の部屋だ。
(使用人の様子からしても、イジェス家の方で特別お嬢様を冷遇しようという気はないんだな)
 王都での貴族邸の建ち並びは、凡そ決まっており、奥というのは邸全体の北に位置している。一般家屋ならば北というと陽当りが悪いなどの印象になるだろうが、貴族屋敷の北棟は、庭を大きく取り東側に窓を多く作るようになっており、貴族の奥方が住まうのはだいたい此処だ。
「エリエリ!」
 歩いている廊下には窓が少ないため目が薄闇に慣れていた。エリィネは眩しさに目を細めながら、光の中で微笑むミスティに安堵の笑みを返す。
「面白いお話を聞いたのよ。エリエリ。あなたには絶対聞かせないとってお話」
「なんですか?」
 尾の膨らみを戻し、肩の力を抜きながらミスティに近付けば、座っていた侍女長がお茶を淹れてくれた。どうやら、話というのは侍女長から聞いたものらしい。
「侍女長はイジェス領の西部にあるオスァーナ山脈の出身だそうなのだけど。そちらの古い言葉をお名前に持っているの」
「はぁ、なるほど」
 古い言葉を名前に、という意味で言えば、エリィネとてそうだ。正確に名乗れば、リ・ヴォルファエナ・ルース・エリィネ、聖白狼の末裔エリィネ、となる。それはミスティも知っているはずであるし、大陸語と呼ばれる共通言語が広まったのはここ二百年のことで、古語が各地に存在しているという事も知っているはずだ。エリィネと同じように侍女長も古い言葉を名前に持っていた、それだけでこんなにはしゃぐだろうか。
 エリィネが首を傾げていると、お茶を持ってきた侍女長にミスティが微笑みかける。その微笑みに頷いた侍女長は、エリィネに向かって名乗る。
「アンセ・ドナ・エリエリ=クシナーバと申します」
「…エリエリ」
 これか、とミスティを見れば、楽しそうに微笑んでいた。
「エリエリ、というのは、神霊への呼びかけの言葉だそうよ」
 神霊とは、神と精霊の間に産まれたとされる者達で、リブラでは国教神話の中に登場する十四柱が有名だが、民間伝承にも様々な神霊がいる。専門に研究している学者でも正確な数は解らないとされているが、クシナーバは国教神話にも登場する有名な神霊だ。主神アーガの息子リトラ神と火の精霊の間に生まれたとされ、竈の神霊であり、燃えるような赤毛の山猫というのが広く知られた伝承の姿だ。
 侍女長の出身地である、北方の山間部では、この神霊信仰が盛んだ。そのため半数近い人間が神霊と同じ名前をつけられる。その際に、人の身で神霊と並ぶ無礼を避けるという意味で、本来呼びかけの言葉であるエリエリという言葉を付けるのだ。簡単に呼びかけと言っても『ねぇ』とか『おい』というような気楽なものではなく。神への祈りの接頭のような『かしこみかしこみ』という厳かな呼びかけだ。
「なるほど。では、私をエリエリと呼んでは紛らわしいですね。そろそろエリィネと呼んでください」
「そんな、いまさら変えるのは難しいわ」
「私はドナと呼んで頂ければ。若様もその様にお呼びになりますので」
「まぁ、そう? ありがとう侍女長」
 幼少期の呼び方を脱却する良い機会だと考えたのだが、残念ながらエリィネの思惑通りにはいかなかった。
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