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#4.兄と妹
しおりを挟む「お兄ちゃんも、ずいぶん閑なのね。せっかくの冬休みだっていうのに、部屋に閉じこもってばかりいて」
貴水千鶴は、兄のマンションに遊びに来ていた。
そこは地上三十二階建てのタワーマンションの最上階。眼下に東洋の玄関と呼ばれる大きな港町が展開する。窓から望む港には、たわわに帆を張った五本マストの豪奢な帆船が今まさに出航しようとしていた。
学生には贅沢すぎるこの環境も、住人が資産家の御曹司とあれば頷ける。
貴水彰が通う大学は実家からさほど遠くない距離にあったが、進学祝いとして父からこのマンションを与えられて一人暮らしが始まった。とはいえ、生活面での不自由がないようにとの配慮から、別のフロアには専任のスタッフたちが常時控えている。
「そういう自分はどうなんだ? まだ彼氏はできないのか」
「そこ、はっきり訊く? だいたい、彼氏がいたら兄の所になんか暇潰しに来るわけないでしょ」
ソファに身を埋めて節のない長い指でスマートフォンを繰る兄を横目に見ながら、千鶴は持参した珈琲を淹れていた。
「俺は暇潰しの材料か」
「そういうこと」
『そういうこと』にしておこう。むしろ、その方が兄は気が楽だろうと千鶴は慮る。本音を言うなら、兄の世話を焼きたいからに決まっている。大好きだからだ。
「ったく、おまえって」
やれやれといった様子で呟いて、彰は微かに口角を上げた。
「ところで、ラグ替えたのね」
「……気分転換に……なるから」
「気まぐれ屋さんなんだから。――はい、どうぞ。お兄ちゃんの好きなブルマンよ」
「サンクス」
千鶴は時として、母親のような気持ちを彰に抱く。齢は二歳しか違わない。その所為か、少々頼りなさを感じる。だから、自分が守らねばと気負っているところがある。
兄妹に母親はいない。千鶴が物心つくかつかない頃に若くして病で亡くなった。
母に関する記憶はおぼろげだ。ただ、写真に残る母は兄によく似ている。否、兄が母親似であると言うべきか。
少女のように可憐で美しく、儚げな母。父はそんな母をよほど愛していたのだろう。後妻も娶らず、独身を貫いて来た。そして、母親の分まで兄妹ふたりに深い愛情を注いで育ててくれた。
しかし、千鶴は知っている。父の愛情の配分が必ずしも公平ではないことを。
父は、母に生き写しの、この美しい兄を溺愛している。
それでも、何故かうらやむ気持ちは起きない。むしろ兄は愛されて当然だと納得している。
母に似て、どこか儚げな兄・彰。性格は穏やかで優しく、決して怒りの感情を表わさない。妹のどんな我儘も受け入れ、あるいは受け流し、唯々として従う。
そして、何もしなくても常に周囲から尊重され、大事に扱われる。ひたすら美しく繊細であるが故に。兄はまるで最高級の美術品のようだと千鶴は思う。もっとも、父や自分にとっては、それ以上のかけがえのない存在であることは確かだ。
「お兄ちゃん、今日は予定がないのなら買い物に付き合ってくれない?」
千鶴は彰と連れ立って街を歩くのが好きだった。すれ違う同性の羨望の眼差しが優越感をくすぐり、心地良いことこの上ないのだ。
『プリンス・彰』
幼い頃から兄はそう呼ばれていた。
指をくぐらせて梳きたくなるようなさらりとした栗色の髪、茶色がかった澄んだ瞳、その瞳を半分近く隠すほどの長い睫毛、形の良い細い鼻梁、ほのかに酷薄な印象のある魅惑的な唇、そして、嫋やかでさえあるエレガントな痩躯。いったい、今までに何人の女性たちがこの美貌に夢中になっては悉く玉砕していったことか。
「何を買うんだ?」
「お兄ちゃんの服よ。新しいショップ見つけたの。ねっ、行こう行こう」
久しぶりに彰を着せ替え人形にして遊ぶつもりだった。このスレンダーな王子は何を着ても似合う。千鶴はそんな兄が自慢なのだ。
「いつも元気だな、千鶴は」
彰は微笑しながらカップに残る最後の一口を飲み干した。
「私……こうして一所懸命に明るく振る舞ってるけど、本当は落ち込んでるんだから」
「おまえが落ち込む? 珍しいこともあるんだな。どうしたんだ?」
「ふられたの。だから、お兄ちゃんに慰めてもらいたくて来たんだ」
先ほどまでの空元気をやめて、千鶴はぽつりと本音を漏らした。
「失恋したのか」
彰に同情の色が浮かんだ。
「私って、身の程知らずだったかも。相手は、天使みたいな人だから」
「……天使」
つづく
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