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#23.海へ
しおりを挟む送りがてら海岸線をドライブしようと彰が言った。
遠回りになることは承知の上だった。ふたりの間に漂う別れを惜しむ気配が、彰にそう言わせ、タケルに同意させたのかもしれなかった。
朝靄の中を彰の愛車アルファロメオ・スパイダーは、緩やかな海岸線を滑るように疾駆していた。
その道をしばらく行くと、千鶴の別荘が見えて来るはずである。
「君を送り届けたら、親父の顔を見に行くよ。この時間なら、まだ家にいるだろうから」
「それはいいですね」
相槌を打ちながら、タケルは彰を見た。晴れやかとは言い難い、寂しげな横顔がそこにあった。大丈夫なのだろうか、この人は。目を離したら消えてしまうのではないか。どうしても、そんな心配が湧き起こる。
「昨日は一方的に俺ばかり喋って、君のことを聞きそびれた。今さらだが、よかったら恋人のことを教えてくれないか?」
「……恋人は、義兄です」
「義兄……お兄さん?」
「はい」
訊かれれば正直に話すことは厭わなかった。
タケルは自分が養子であることや、その養父母の息子、青樹への愛を明かした。
「あの日、僕は嫉妬から義兄に暴言を吐き、ふたりは言い合いになった。それで、自分の気持ちを抑えきれなくなって、逃げ出したんです。そうしないと、僕は力づくで義兄を……そして、あなたと出逢った」
「それが、あの時だったのか」
「僕は……あのまま、あの男たちが来なければ、あなたを義兄の身代わりにしていたかもしれない」
あの時、抱き寄せて温めてくれる優しい彰に、自分のやるせない感情が、捌け口を求めて向かっていたかもしれないのだ。
「だから、僕はあなたが言うような天使なんかじゃないんです」
「ふふっ、それはそれでウエルカムだったかもな」
彰は小さく笑った。
「彰さん……」
その時果たせなかったことは、後日、現実のものとなった。
しかし、何故かタケルは、青樹への背信とは別の後悔の念を抱いていた。冒してはならない禁忌を破ってしまったかのような。
「もっと聞かせてくれ、君の恋人のことを」
「……彼は楽観的で、少し粗野なところがあって、ちょっと臆病で……でも、本人は自分はデリケートなんだって言ってます。それから、僕がまだまだ育ち盛りだからって、いつも食事の心配をして、食べきれないくらいの料理を作ったりするんです。おかげで僕は、本当に……」
「幸せなんだね」
彰は笑みを浮かべてタケルの言葉に付け足した。
「……ええ」
遠慮がちにタケルは頷いた。
「素敵な人のようだね。うらやましいよ。俺が……君のお義兄さんだったらよかった。何故自分が貴水彰として生まれて来たんだろうかって、つくづく残念に思うよ。貴水彰じゃなくてもよかったんじゃないか、ってね。俺は他の誰かでもよかったはずだ。理想を言うなら、君のお義兄さんとして生まれたかった」
「僕は、彼が義兄だから愛したわけじゃないです。彼は彼だったから」
たとえどのような形で青樹と出逢ったとしても、やはり彼を愛したとタケルは思う。青樹を愛することに、何の理屈も理由もない。ただ彼とめぐり逢い、愛し合うために、自分は生まれて来たと信じている。
「そうなのか。……つまり、俺が誰であろうが、君に愛してもらうことはできないんだな」
「いいえ。彰さん、あなたはあなたのままであるべきです。僕はあなたを……彰さん、僕と義兄の所に来ませんか? 一緒に、生きていくことはできませんか?」
それは深く考えた言葉ではなかった。タケルは、青樹は勿論、自分はこの彰とも共に生きていくべきなのだと感じたのだ。
「唐突だな。どういう関係性で俺が君たちと? 正直言って……今、冗談を受け流せる心境じゃないんだ。勘弁してくれないかな」
「僕にとって、あなたも大事な人になってしまったから」
タケルは、彰とはこのまま別れてはならない気がした。
「同情なら、もういらない」
硬い表情で彰は続けた。
「親父に距離を置かれてからというもの、俺は少しずつ壊れていって……そんな時、天使に出逢って、救われるかもしれないと期待した。だが、慈悲で泡沫の慰めを与えられ……ベッドでの君の情熱と優しさを勘違いしそうになったよ」
彰の頬を、いつしか涙が伝っていた。
「彰さん、同情じゃありません」
「いいんだ、もう。……本当は、俺は自分だけを愛して欲しいんだ。欲張りなんだ。どうしようもないほど飢えている、いつも。そして、そんな自分が苦しい。いっそのこと無になりたい。自分が自分であることをやめたい。無になって、魂ごと消えてなくなりたい。この意識も、何もかも。……ごめんね、降谷くん」
「彰さん!」
眼前に海が広がってゆく。
彰がアクセルを踏み込んだ。
海へ。
「彰さん! 彰さんっ!」
タケルは彰の意図を察して、とっさにサイドブレーキを引き上げた。
しかし、間に合わなかった。
死のダイビングは敢行された。
* * *
青樹が長椅子から跳ね起きるのと、宇都宮が絵筆を落とすのとは、全く同時だった。
この日、青樹は朝早くから宇都宮のアトリエに来てモデルの仕事をしていた。
「急に、胸が……胸騒ぎのようなものがして」
青樹は胸を押さえた。拍動が不安を訴えるように速くなっていた。
「私も」
と宇都宮は言い、絵筆を拾って、割れた筆先を見つめていた。
「宇都宮さんも?」
「何処かで、何か、大切なものが壊れたような、そんな感じがした。虫の知らせ? これが、そうなのかな……降谷くん」
「大切なもの……」
青樹にとって、それはタケル以外にはない。
今朝までに、タケルはとうとう帰って来なかった。
つづく
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