もう一度ララバイを

九頭龍渚

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#28.記憶の残像

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「タケル? どうして俺を『青樹』って呼ばないんだ?」

 およそ半月に亘る昏睡からタケルは目覚めた。

 最初にタケルの異常に気づいたのは青樹だった。きっかけは、『兄さん』という呼び方だった。

「兄さんを呼び捨てになんて、できないよ」

 意外な答が返って来た。

「え? どういうことだ?」

 タケルは記憶障害を起こしていたのだった。



 降谷タケルの意識が戻ったことを受けて、捜査機関による事情聴取が開始されようとした。
 しかし、検察と警察双方の上層部に強力なコネを持つ貴水グループ側からの働きかけもあり、降谷タケルが未だ不安定な記憶喪失状態にあることを理由として事実上捜査は打ち切られた。

 降谷家の両親が、退院したタケルを実家に戻すようにと青樹に勧めた。
 だが青樹はそれを断り、弟のことは全て自分に任せて欲しいと突っ撥ねた。彼には、どうしてもはっきりさせておかなくてはならないことがあった。

 数ヶ所の打撲や骨折といった身体の傷は順調に回復していたが、欠落した記憶の一部は依然として戻る兆しのないまま時が過ぎて行った。

 青樹がヌードモデルのアルバイトをしたこと。そのことが原因で言い合ったこと。貴水彰と出逢ったこと。輩たちから暴行を受けたこと。傷ついた身体で帰り、青樹に愛を告白したこと。そして、結ばれたこと。タケルはそれら一連の記憶を失くしていた。当然、自分がどのような状況で事故に遭ったのかということも。つまり、彼の時間はあの日の平穏な昼間で止まっていたのだ。

 強いて記憶を取り戻させるべきではないと青樹は考えていた。特にレイプ被害や事故の記憶は、ずっと封印させておきたかった。タケルのこれからの瑕疵なき人生のために。

 ある日タケルが、自分の記憶の一部を喪失する原因となった事故について訊いてきた。
 青樹は、アルバイトに行く途中で交通事故に遭ったとだけ話した。

『事故を起こした相手は亡くなった。おまえに責任はない。無理に思い出さなくてもいいことだ』

 それを聞いて安心したのか、タケルはそれきり詳しい内容を知ろうとすることはなかった。

 しかし、青樹には、タケルにどうしても取り戻して欲しい記憶があった。
『兄さん』から『青樹』になったことを。
 互いの気持ちを確かめ合い、義兄弟からようやく恋人同士になったこと。心と身体でひとつに融け合い、結ばれたこと。その陶酔の一夜を。

 タケルの記憶障害によって謂わば振り出しに戻ったふたりは、ただ仲の良い兄と弟として同じベッドで背中を向け合って眠る日々を送った。

 タケルを愛するがゆえのジレンマに青樹は呻吟した。失われた記憶の一端を引き出すことで、タケルにとって重大な瑕疵となった記憶までもが甦るリスクがある。彼のためを思うなら、失くした記憶に今後いっさい触れることなく、このまま静かに兄弟として過ごすべきなのだろう。
 しかし、それはあまりにも苦しく哀し過ぎた。取り戻させたい記憶と封印すべき記憶。相反しながらも表裏一体にある、その明と暗の相克に青樹は身悶えし、幾夜も涙で枕を濡らした。


「兄さん、泣いてるの?」

 夜、就寝しようと灯りを消した後、しばらくしてタケルがそう声をかけてきた。

 青樹は慌てて涙を拭って振り向いた。

「なっ、なんで俺が泣かなきゃいけないんだ」
「洟をすする音が聞こえたから。兄さん、風邪引いたんじゃないかと思って……そしたら、肩が震えていたから」

 背を向けて泣いているところをタケルに見られていた。青樹は言い返せず、黙ったまま上体を起こして灯りを点けた。

「兄さん?」
「兄さんじゃない!」

 つい、声を荒らげた。
 自分自身への苛立ちだった。自分はタケルの何でありたいのか、青樹は自問し続けて来た。兄? 母? 恋人? 問うまでもなく、答は決まっていた。なのに、いつまでも逡巡している怯懦な自分が情けなかった。

「すまん。……それはそうと、おやすみのキスを忘れてるぞ」

 取り繕うように冗談めかして青樹は言った。

「どうしたの? 今まで、そんなことしたこともなかったのに」
「したこともない、か」

 熱く重ねた唇の感触さえも、その皮膚は憶えていないのか。もしかしたら、自分への愛もタケルの中にはないのかもしれない。失った記憶と共に消え去ったというのか。愛し合う情熱は途切れてしまったのか。そんなもどかしく切ない想いに青樹の胸は張り裂けそうだった。

 瑕疵なきタケルの人生と自分の想い。重きを置くべきは前者であることは言うまでもない。
 しかしそれでも、自分からタケルへ愛を告げることはできるはずだ。記憶を失う以前、タケルが愛を告白してくれたように。今度は、自分が。青樹はそう思い至った。今度は自分の番なのだと。

「タケル、よく聞いてくれ。俺はおまえを愛している」
「兄さん……」

 茫然としたようにタケルは青樹を見つめていた。

「兄弟としてではなく、ひとりの人間として愛している」

 かつてのタケルの言葉を、青樹は自分の言葉として告げた。

「ひとりの人間として……愛している……? あ……ああっ……それを、誰かが……言っていた……誰かが……!」

 突然、タケルが頭を抱えて呻き始めた。




つづく
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