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#30.ロマンティッシェ・ライン
しおりを挟む貴水千鶴はドイツを旅していた。
最愛の兄を失った悲しみも喪失感も未だ癒えていない。傷心を抱えたままの旅行である。
高校を卒業し、浪人生になった。何の縛りもない自由だけが救いだった。
父の容態が安定したこともあり、慌ただしかった毎日にもゆとりを見い出せるようになって、ようやく自分を顧みる機会を得た。
一方、降谷タケルが意識を取り戻し、無事に退院した。記憶障害が少し残っていると聞いたが、幸いにも自分のことは憶えていてくれた。それが嬉しかった。
『新たな目標を見つければよろしいでしょう』
教育係・謝名堂司の言葉を受けて思い立った今回の旅だった。
しかし、新しいも何も、元々目標など持たずに今まで暮らしてきたのだ。この旅でそれを見つけられるかどうか、千鶴には自信も確信もなかった。
ただ、何かを期待する気持ち、もしくは予感めいたものはあった。それが、ドイツを選んだ理由に繋がっていた。きっかけとなったのは、宇都宮崇の個展だった。その内の一枚の絵、『ララバイ』にある。
ライン河下りの船上で、千鶴は意外な人物と予期せぬ再会を果たした。
「千鶴さん、あなたがこちらに来ていたとは」
異国の地にありながら、母国語で呼び止められた。
「宇都宮先生!」
千鶴に声をかけてきたのは、画家の宇都宮崇だった。
すらりとした長身をシックな装いで包み、端正な顔に穏やかな笑みを浮かべていた。
瞬間、千鶴の胸がときめきに似たセンセーションに踊った。内に秘められた遺伝的記憶が、否応ない慕情を呼び覚ますかのように。
千鶴は知らない。異国の地で再会したこの画家が、かつて母が愛した男性であり、兄・彰の実の父であり、そして、今もなお愛してやまない降谷タケルの父親であることを。
当然、彰とタケルが異母兄弟であることなど知る由もない。これからもその事実を知ることは、おそらくない。
「奇遇ですね。まさか、お一人で?」
「家庭教師みたいな人と一緒です」
「そうでしたか」
「ただし、このライン河クルーズは一人で参加しました。ここはどうしても自分だけで来たかったんです」
「何故、ここへ?」
「ずっと来たいと思っていて……実際、来てみると、とても懐かしい感じがするんです。初めて訪れる地なのに。それに、先生の描かれた『ララバイ』が、このライン河を連想させるんです。懐かしいと感じるのは、その影響だと思います」
「あの絵を観ただけで、ここを連想するなんて、あなたの慧眼には畏れ入る。確かに、私はこのライン河をイメージして描きました」
「やっぱり、そうだったんですね!」
「私の個展に、あれから毎日来て頂いたと聞いています」
「魅せられました。魂の根底から。とても強烈なインパクトでした。モデルの青樹さんの美しさもさることながら、『ララバイ』の美女の果てしない想いが、時空を超えて私の中の、ある人への想いと同調したんです」
千鶴の中にある降谷タケルへの想いは、今も色褪せていない。『ララバイ』の絵のように鮮やかに胸の奥に輝き続けている。その想いは、もはや恋というよりは、愛。肉親に近い愛情だ。兄・彰への想いにも似た。
「ほう、それはまた……」
「あの二点の作品は、お売りにならないんですね」
「はい。でも、いつでも観に来て下さい。アトリエに置いていますから」
「是非、行かせて頂きます。ところで、先生の方こそ何故ドイツへ?」
「創作のイマジネーションの舞台となったライン河を見るためです。巡礼……そんな感じです」
「巡礼……! その感覚、わかります」
千鶴はあのロケットをずっと身に着けている。今は、兄の写真を入れて。
巡礼、そして、鎮魂。この旅の目的を表わすとしたら、それらの言葉が当てはまるような気がした。
「それに、ここに来れば何か触発されるものがあるかもしれないって期待したんです。たとえば、出逢い、とか」
「見事に出会いましたね、私たち」
「運命の出会いと言っていいんですか? 先生」
「はははっ……」
ひとしきり笑って、宇都宮は言葉を続けた。
「千鶴さん、あなたは亡くなったお兄さんの彰さんに、よく似ておられる」
「兄の顔を知っているんですか?」
「……経済誌に、写真が載っていました。お父上とのツーショットで。美しい青年でした。見出しにも『美貌のプリンス』とあった」
「プリンス……ええ! 確かに兄はそうでした。綺麗で繊細で、自慢の兄でした。でも、似てるなんて言われたの生まれて初めてです。正直言って、とっても嬉しいです」
幼少の頃より、誰もが彰の美しさを愛でた。その影で妹は不遇だった。逆だったら、とさえ囁かれた。そんな千鶴にとって、兄・彰に似ているという言葉はこの上ない賛辞だった。しかも、確かな審美眼を持つであろう芸術家の言葉だ。嬉しくないわけがない。
「彰さんは、どんな人でしたか?」
宇都宮に訊かれ、千鶴は首からロケットを外して中の写真を見せた。
「兄です」
「彰……! さん」
ロケットを渡され、宇都宮は食い入るように写真を注視した。
「兄は、おとなしくて優しい性格でした。周囲のみんなからも愛されて、それはもう大事にされていました。特に、父は兄を溺愛していました。高校生になっても一緒の布団で寝ていたくらいなんですよ。笑っちゃうでしょう? 父にはすごく甘えん坊だったんです。父もそれが嬉しいみたいで。私はちょっぴり羨ましかったですけどね」
「そうでしたか。お父上から愛されていたんですね。それじゃあ、彰さんは幸せだったんですね」
そう言いながら、宇都宮は千鶴にロケットを返した。
彼のその表情が、心なしかほっとして緩んだように千鶴には見えた。
「ええ、それはもちろん」
逢ったこともないはずの兄に宇都宮が何故それほどまでに関心を持つのか、千鶴は不思議に感じながらも話を続けた。
兄について語るのは嫌いではなかった。むしろ、もっと誰かに聞いて欲しいとさえ思った。
儚くも美しいひとりのプリンスのことを。
つづく
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