もう一度ララバイを

九頭龍渚

文字の大きさ
32 / 32

#32.ローレライの子守唄

しおりを挟む



「なんだか……? 何ですか?」
「うふふっ、なんだか、先生が誰かに似ているような気がして」

 宇都宮の和やかな表情に絆される。理由など聞かなくてもいい。喜んでくれるだけで十分だ。千鶴はそう納得した。

「誰か、とは? ……いや、聞かないでおきます。千鶴さん、帰国後、是非私のアトリエにいらして下さい。気に入った作品があれば何点でもお譲りしますよ」

「本当ですか!? ありがとうございます。幸せ過ぎです。私……そうだ!」
 天啓のような閃きが千鶴に降って来た。
「画廊、やってみようかな。先生の作品をメインに。もちろん、その方面の勉強もします」

 単なる思いつきに過ぎないかもしれない。しかし、千鶴の胸が躍り始めたのは事実だった。

「それは素晴らしい。でも、私の絵は……あなたの秘蔵コレクションということにしては?」
「秘蔵! なんて素敵な響き」
「素敵なのは、あなたですよ。その聡明さに加え、お兄さんの分まで、あなたはこれからもっと美しくなられるでしょう」

「はい」
 千鶴は宇都宮の言葉を素直に受け取った。
「私の中に、兄はずっと生き続けていますから」

 自分はきっと兄・彰のように美しくなる。千鶴は未来の展望を見い出した。そして、新たな目標を掴んだ。

「ありがとう」
「……えっ?」

 折しも、船の右舷側から大きな歓声が起こり、千鶴は宇都宮のその短い一言が聞き取れなかった。

 やがて、柔らかなテノールに乗って『ローレライの唄』がスピーカーから流れて来た。
 魔女ローレライを偲ぶ歌である。

 ライン河クルーズの見どころの一つであるローレライの岩が、その姿を現わした。
 河沿いの葡萄畑の中に隠見する数々の古城をも凌駕する人気の巨岩は、恋人に裏切られて河に身を投げた麗しき乙女が魔女となって船人を眩惑し、船を沈没させたという伝説を現代いまに伝える。

「あの岩に」

 と、宇都宮が呟いた。

「ローレライは、いたんですね」
 と、千鶴が続けた。
「風になびく長いプラチナブロンド。濃いブルーの瞳。純白のドレスを纏い、ローレライは……ああ、そうだったんだ。だから、ララバイ。ローレライが歌っていたのは……心を惹きつけるその歌は、子守唄だったんですね」

「千鶴さん、あなたには見えますか?」
「見えます。美しい母、ローレライがあの岩に立っているのが。彼女は魔女じゃない。聖母です」

 千鶴はそう言い切った。怖れられた象徴としての魔女の冠称は彼女にふさわしくない。
 聖母。それこそがローレライの真の姿。

「「 聖母ローレライ 」」

 岩の上に、ふたりは同じ幻影を見たのかもしれない。

 その幻のローレライは、優しい微笑みを湛えていた。



 * * *



「タケル……」

 タケルの汗ばんだ額に貼りつく髪を、青樹は指先でそっと払った。

「ねぇ青樹、もう一度あの唄を歌って」
「そうしたら、おまえは眠ってくれるのか?」

 声に出して歌うことは最初で最後だったはずの、夢の中の子守唄。その歌でタケルは昏睡から目覚め、今は満ち足りて眠りに就こうとしていた。

「青樹の歌が聴きたい」
「じゃあ、歌ってやる。おまえのための子守唄だ」

 青樹はタケルの頭の下に腕を入れ、熱い身体を抱き寄せた。
 そして、肌をまさぐろうとする悪戯な手を掴み取り、おとなしくさせた。

「いい子にしろ」
「……うん」

 青樹の歌に耳を傾けながら、タケルが目を閉じた。
 深い澄んだ声、切ない息継ぎ、哀調のメロディー、それらは全て彼のためのものだった。


 穏やかな眠りの中で、タケルの唇が僅かに動いて、愛しい人の名前を呼んだ。

「青樹」



                   了
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

灰かぶりの少年

うどん
BL
大きなお屋敷に仕える一人の少年。 とても美しい美貌の持ち主だが忌み嫌われ毎日被虐的な扱いをされるのであった・・・。

若頭と小鳥

真木
BL
極悪人といわれる若頭、けれど義弟にだけは優しい。小さくて弱い義弟を構いたくて仕方ない義兄と、自信がなくて病弱な義弟の甘々な日々。

仮面の王子と優雅な従者

emanon
BL
国土は小さいながらも豊かな国、ライデン王国。 平和なこの国の第一王子は、人前に出る時は必ず仮面を付けている。 おまけに病弱で無能、醜男と専らの噂だ。 しかしそれは世を忍ぶ仮の姿だった──。 これは仮面の王子とその従者が暗躍する物語。

敵国の将軍×見捨てられた王子

モカ
BL
敵国の将軍×見捨てられた王子

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

処理中です...