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二章
博士達の午後-女子会にて-
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「お邪魔します、神崎先生」
「あ、いらっしゃいませ。渡来先生!」
研究室(と言っても事務作業用の部屋だが)の扉を開けて入ってきたのは、渡来だった。
三日前。虹葉の父親の件がひと段落し、食堂で昼を共にした二人。研究を手伝ってもらった礼も兼ねて打ち上げでもするかという話になり、「どうせなら女子会がしたい」という神崎の希望もあってか、神崎の研究室で執り行う流れとなったのであった。
「ケーキ、買ってきました」
「ありがとうございます。こっちも、飲み物とお菓子の準備、バッチリです」
神崎は渡来のケーキの手提げを受け取ると、渡来に着席を促した。
渡来はソファに腰掛け、ケーキの包みを開ける神崎を待った。
机の上には紙皿と紙コップのセットが用意されていた。ジュースやお茶のペットボトルが数本に、ポテチやクッキーの菓子類が机の左隅を固めている。さながら誕生日会のようである。なんだか懐かしくなる渡来であった。
そして右側。神崎のデスク側に立て掛けられたタブレットには、円形の波形が映し出されていた。
「渡来先生~! 久しぶり~!」
タブレットからは神崎の声が流れた。音が流れる度に、円形の波形が震えながら波打つ。
「お久しぶりです。いろはさん」
渡来が挨拶を返すと、タブレットには笑顔をした絵文字が浮かび上がる。
タブレットを操っているのは、いろはであった。彼女は件の事件の後、元いた神崎のデスク横のタブレットへと帰って来ていた。
「はーい。ケーキのお披露目するよー」
神崎はケーキボックスを机の真ん中に置き、蓋を真っ直ぐに持ち上げる。
出てきたのは、桃のタルト(ホール)だった。薄く切られた桃がバラの花のように彩られ、ケーキの真ん中に大輪の花を咲かせている。果肉を惜しげもなく使った豪華な品だと言うのは、神崎にも分かった。
「すご……」
神崎はケーキから目を離せなかった。まるで少女のように目をキラキラと輝かせている。
「フルーツ全般は好きだとお伺いしていましたので。こちらで良かったでしょうか?」
「はいぃ、桃、大好きなんです。こんな綺麗なケーキ、初めてです……」
神崎はケーキに釘付けになりながら、恍惚とした表情を浮かべる。
その様子を目の当たりにした渡来は、密かに(また持って行こう)と思いながら、静かに微笑むのであった。
「いいな~あたしも食べたいな~」
「今回は、いろはは見てるだけです」
漸くケーキから目を離した神崎は、いろはを嗜めると共に口元を引き締める。
「えー。じゃあ、写真撮ろうよ。せっかくこんな綺麗なんだからさ、皆んなで記念に。ね?」
「い、いいけど。渡来先生は、どうしますか?」
「ええ。私もぜひ」
「よしっ! じゃあ、お母さん。スマホ、テーブルに立て掛けて?」
「え、いろはが撮ってくれるんじゃないの?」
「それじゃあたしが入らないじゃん!」
タブレットに、怒ったような顔が表示される。
「ごめんって。ほら、こう?」
神崎はテーブルにあるお菓子の箱や飲み物を組み合わせ、スマホを斜めに置いた。
「そうそう。えーっと、もうちょい上。あ、行き過ぎ。ゆっくり下げて……あ、あと2ミリくらい。オッケー」
いろはの誘導に合わせて角度を調整していた神崎は、位置を決めた後、いろはのタブレットを真ん中に置き直す。
「じゃあ、シャッターはあたしが押すから、よろしく~。じゃ、いくよー! はい、チーズ!」
カシャッと言う音が二、三回鳴った。
「おー。いいね~。綺麗に撮れたよ!」
スマホを覗き込む神崎と渡来。そこには、少しだけぎごちなくピースをする神崎に、自然に微笑む渡来、笑顔の顔文字のいろはが写っていた。
それを見て微妙そうな顔をする神崎に「後で私にも送ってくださいね」と念押ししした渡来は、ケーキの箱の隣に用意されていた包丁を手に取った。
「それじゃあ、切り分けましょうか。いいですか?」
「は、はい。お願いします」
渡来は手際よく切り分け始める。4等分に切り分けると、フォークを器用に使ってケーキのピースを持ち上げ、慣れた手つきで紙皿へと滑らせる。
「神崎先生、どうぞ」
受け取ったピースは、その中で一番大きいものだった。
「あ、じゃあ、アタシ飲み物注ぎますね。渡来先生は何飲みますか?」
「そうですね……。では、ウーロン茶を」
何かしなければと思い立った神崎は、飲み物を注いでいく。自身のコップにはサイダーを注いだ。透き通った液体からは、泡が幾つも浮き立って弾けた。
目の前にはケーキ。コップには飲み物。テーブルには客人。女子会の準備は全て整った。
二人は目を合わせて頷くと、コップを手に取る。
「それじゃあ、乾杯!」
すかさず割り込んできたいろはの掛け声に合わせて、二人は紙コップを突き合わせた。
『乾杯!』
掛け声と共に飲み物を呷る二人。飲み込んだ後に「ぷはぁ」と言う声が自然と神崎の口から漏れた。
「本当、お疲れ様でした」
「もー、めっちゃ疲れた。警察には何度も行かないといけないし、うちの上層部の人ともやり取りしないといけないし」
「でも、一番良い形に収まったんではないですか? 虹葉ちゃんも無事だったし、いろはさんも、ちゃんと帰って来れましたし」
「そうそう。みんな無事で、めでたしめでたし、だね」
タブレットには、音符の波形が浮かんだ。
渡来はケーキを口へと運ぶ。
それを見た神崎も、慌ててケーキを頬張った。その瞬間、神崎の目に光が差し込んだ。「うっま」と呟きながら、二口目も食べ進める。
柔らかく砂糖漬けされた桃に、アーモンドケーキとカスタードが口の中で優しく寄り添う。そこにザクっとしたタルトの食感が良いアクセントとなっていた。
「それより、みんないいなぁ。あたしもケーキ食べたかったぁ!」
タブレットに拗ねたような顔が映し出される。
「神崎先生、いろはちゃんに作ってあげないんですか? 新しい体」
見かねた渡来は、そう神崎に提案したが。
「あの後上と揉めまして……。暫くはお預けです」
神崎はやれやれと首を振るのみであった。
「もったいないですね……」
「そうだよ。あたしはもっとみんなに愛されたい!」
「何か他にいい案は無いものですかね……」
「愛されるったって、体が無いと難しいんじゃない?」
神崎はケーキを頬張りながら答える。
「そんな事ないもん! 画面なら自由に動けるもん!」
「画面……なら……」
渡来はハッと息を呑む。
「これはっ。渡来先生、閃いたんですね⁈」
渡来の顔を見逃さなかったいろはは、食い気味に尋ねる。
「ネット上なら、どうでしょう」
「ネット? あー、最近よく動画サイトで流行ってるやつですか? 確か、バーチャルなんとか、ですっけ?」
「そうです。正真正銘の電子アイドルとして売り出せば、かなり注目されるのではと思いまして」
「さっすが渡来先生。最高。あたし、やってみたい!」
「あー、分かった。分かったから。考えといてあげる」
「言ったねお母さん。ちゃんと今の会話、録画しといたからね?」
神崎は目を細めると、サイダーを飲み込んだ。炭酸ゆえ、ゲフッとむせ上がる。
程なくして、渡来が口を開く。
「それにしても、虹葉ちゃんの自殺の原因が父親だったなんて。今考えてもショッキングでしたね」
「まぁー、アタシには予想通りってとこかな?」
「気付いてたんですか? 神崎先生」
神崎は大きく頷く。
「虹葉ちゃんの携帯を調べた時、『話があるので、帰ったら私の部屋に来なさい』とかいうメッセージがあったから、怪しいとは思ってたんですよ。無事死んでくれて良かったです」
「神崎先生。私の前以外でそんな事、言ってはいけませんよ?」
「言いませんよ⁈」
流石にそこは弁えてます、とばかりに言い返す神崎。
「まぁ、私の本音としても、死んで良かったと思いますが。それより、虹葉ちゃんの体にあんな装備を仕込んでいるなんて、驚きましたよ」
「装備……スタンガンの事ですかね?」
「ええ。まさかあんな高出力の物だなんて」
「そりゃ、可愛い我が子に危険が及ばないか、心配ですから。私の目の届かない所で誘拐でもされでもしたら、もう大変な事になりますよ」
「主に、誘拐した側が、ね」
いろははそう捕捉を入れると、神崎はニヤリと笑った。
「それにしてもさぁ。未成年とそういう事するのは違法なんでしょ? あたしとしてはちょっと趣味を疑うよねぇ」
「こら、いろは。そういう趣味が好きな人もいるんだから。そういう事言わない」
「えぇー、でも……」
「好きな事自体は悪い事じゃ無いんだ。でも」
「でも?」
「法律は、守らないと。ねぇ?」
……何故だか分からないが、いろはには神崎のメガネが光ったように思えた。
「うわぁ……お母さん、それお母さんが言う?」
「何だとぅ⁈」
いろはと小競り合い始める神崎。そんな二人を愛おしそうに見つめる視線があった。
「……ふふ」
「? どうしました、渡来先生」
「なんか、こうやって見ると本当に、お二人って似てますよね」
『そんな訳ないっ!』
二人の声はピッタリと重なって、コーラスを奏でた。
それを見た渡来は、また「ふふっ」と笑みが溢れるのであった。それから「あっ」と何かを思い出した渡来は、こう質問をする。
「そういえば、神崎先生。今野さんの事、本当に男の子だと思っていたんですか?」
「うぐっ……まぁ……その……はぃ……」
神崎は答える。今にも消え入りそうな声だった。
「さっすがお母さん!」
タブレットには『ピギャー』とでも言いそうな顔文字が映し出される。
「待って、あれはしょうがないんだって! 少年と初めて会った日、突然アタシも呼び出されて。警察署に着いたら『今から件の少女の第一発見者が来るので、ご家族と同じように契約書にサインしてもらってください』って言われて。名前を口頭で伝えられて、そのまま放置だよ? 顔の乗った資料も何も無いし。それに、あの見た目で俺って言われたら、男の子だって思うでしょ、普通」
神崎は早口で捲し立てた。
「でも、名前は聞いていたんですよね? 確かに男女の判別の難しい名前ですが、そこから聞き出すキッカケを作れたのでは? 私は会った事が無いので深くは触れられませんが、聞く機会はいくらでもあったのでは?」
「そんなの、待ってるうちに忘れました」
「……」
渡来は何も言えなかった。
「別に、男の子でも女の子でも、どちらでも変わらないじゃないですか」
神崎は開き直ったように弁解を続ける。
「いえ、そうなんですけど、そうではなくてですね……」
渡来の眉間に、みるみるうちに皺が寄せられていく。
二人のやり取りを見ながら、いろははゲラゲラと笑っていた。
「どうして、神崎先生はここまで人間に興味が無いのでしょうか……」
たまらず、渡来は眉間を抑えた。その様は苦悩しているように見えた。
「どうしてって。アタシも知りたいくらいですよ」
「もしかして、私の名前も覚えていらっしゃらない……?」
それを聞いた神崎は、ビクッと体を震わせると、明後日の方角を向いた。口元が不自然に引き攣っている。
「神崎先生?」
「……」
何も言わない神崎の顔をまじまじと見つめながら、渡来は顔を近づける。
「もちろん、私はちゃんと覚えてますよ? 神 崎 明 先生?」
神崎は震えが止まらない。壊れたおもちゃのようにプルプルと震え続けている。
その様は蛇に睨まれた蛙のようで、さっきまで楽しく見ていた、いろはですら若干の恐怖を覚えた。
(これは……ダメですね……)
救いようがないと判断した渡来は、突然背筋をピンと伸ばし、居住まいを正す。そして何を思ったのか、唐突に自己紹介を始めたのだった。腹の底から出されたその声は、震え続けていた神崎を硬直させるのに十分過ぎる大きさであった。
「未和ですっ! 渡来未和!」
「……ハィっ」
「復唱‼︎」
「イェス! 渡来未和!」
自己紹介を終えた渡来は深いため息を吐く。
横にいるいろはは、笑いすぎて過呼吸になりかけていた。……過呼吸?
「ところで私、神崎先生とはもっとお近づきになりたいんです」
「と……言いますと……」
「そうですね。今度一緒にお食事でもどうでしょう?」
「……食堂ですか?」
「違います。外にある、もっとちゃんとした所です」
「え? あ、ハイ。ヨロシクオネガイシマス」
「お母さん、外に行くって聞いた途端キョドらないで。あたし、そんな子に育てた覚えは無いよ?」
「アタシも無いわっ!」
渡来は再びため息を吐いた。
* * *
それから三人は会話に花が咲き、女子会は楽しくお開きとなった。
「片付けますよ」と名乗り出た渡来を丁重に断り、「今日はお客様なんで」と帰す神崎。
渡来は「今日は楽しかったです。ありがとうございました」と言い残すと、素直に帰って行った。
「さぁ、片付けなきゃね」
入り口から振り返り、部屋を見渡す神崎。机の上には、充実した時間を過ごした名残で溢れかえっていた。
神崎は早々にゴミ袋を手に取ると、使い終わった食器達を次々と放り込んでいく。鼻歌なんて口ずさみながら。リズムよく、手を動かしていく。
そんな後ろ姿に、いろはは声をかけた。
これからする話が神崎を苦しめるだろうと心した上で。
「ねぇ、お母さん」
「ん、何?」
「虹葉ちゃんの父親を呼んだのって、お母さんでしょ」
鼻歌が止まった。
「……どうしてそう思うの?」
「あの日、あたしはあの男にいくつか質問をしたんだ」
「……それで?」
「その時、あの男は『マンションの住所は尾行して知った訳では無い』って言ってたんだ」
「……」
神崎はゴミを入れる手を止めた。
「じゃあ、誰が教えたんだろうってなるよね。虹葉ちゃんが自分から言うはずも無い。当然、今野くんではない。なら、消去法で一人しかいない」
「渡来先生は?」
「渡来先生は、今野くんには会った事無いって、さっき言っていた。なら、多分今回の事件には関わっていない」
「なんでそう言えるの?」
「多分、今回の事件は今野くんがいなければ、成り立たなかった。今野くんがいなければ、男は死ななかったからだ」
「……分からないな」
「あの男は慎重派で、なかなか尻尾を出さなかった。もしあの場に今野くんがいなかったら、きっと警告が流れた時点で大人しくやめていただろう」
「……」
「でも、違った。あの日は今野くんがいた。少年の度重なる抵抗によって、男は頭に血が昇っていた」
「だから、警告を無視して連れ出そうとしたと?」
「そう。警告さえ破ってしまえば、あとはこっちの物だ。あたしが暴れてやればいい」
「それが本当なら、随分ひどい親だね、アタシ」
神崎は目を伏せる。
「お母さんは酷い人なんかじゃないって、熱弁したい所だけど、まぁ、まずは聞いてよ」
そう言うと、いろはは考察を続ける。
「あとは、どうやって男を呼び出すか、だ。例えば、突然虹葉ちゃんの記憶が全部戻った、とか。それで、夜に話し合いに行くから来て欲しい、とか。虹葉ちゃんから呼ばれているから、先に何か事情を知っていないかと思って連絡した、とか。あたしがやるなら、そう伝えて誘導すると思う」
「……それで来るかな?」
「来るよ。用意周到に手を回すタイプの男だ。神崎先生にバレる前に口封じをしに、絶対にやって来る」
「……すごい自信だね」
「実際、来てるからね。きっと、今野くんがいるだろう時間を狙って連絡したんだろう。じゃないと、タイミングが良すぎるんだよ」
神崎は5秒ほど押し黙った後、顔を上げる。そしてこう反論した。
「虹葉ちゃんが自殺した日、鍵は二つとも開いていた。そこまで用意周到で抜け目ないタイプなら、鍵をかけ忘れて出て行くなんてあるのかな?」
「逆だよ、お母さん。念入りに準備していたのに、予想外の出来事が起きたから対応できなかったんだ。今までのやり口で味を占めた男は、今回の虹葉ちゃんも泣き寝入りに仕向ける予定だった」
「でも、そうはならなかったって?」
「そう。虹葉ちゃんが自殺を選んだから」
「……」
神崎は首だけ振り返ると、何も言わずに波形の映るタブレットを見つめている。表情一つないその目には光が無く、普段の神崎を知る者にとってはまるで別人のように写った事だろう。
「お母さん。別にあたしは、お母さんの計画を暴こうとか、警察に突き出そうとか、そう言う目的で言った訳じゃないんだ」
「……なら、今更なんでさ」
「この一連の流れがもし、お母さんの仕組んだ事であるとするなら。あたしは聞いておきたい事があってさ」
「……」
神崎は目線で次の言葉を促す。
「この計画には、どうしても不確定な要素があるんだ。それも、計画の一番大事な所に」
「……それは?」
「それは、あたしだ」
「いろはが?」
「そう。そもそも、男が警告を無視した所で、あたしが殺そうと思っていなかったら、どうしようもないんだよ」
「自身が一番の不確定要素だって?」
「そう。なのになんでお母さんは、そんな大事なピースをあたしに充てたのかなって。そこに、興味が湧いたんだ」
「なんだ。そんな事か……」
神崎は上を見上げる。
「そんなもの、決まってるじゃないか、いろは」
「……そうなの?」
「最初から、信じてたさ。いろはなら、やってくれるって、信じてた」
「……お母さん」
「あ、なんでそこまで、って思ってる? ちゃんと理由があるんだな、これが」
「?」
「いろはさぁ、虹葉ちゃんの記憶をインストールしたら消えるかもしれないって、あの時説明したじゃん」
「……うん」
「あれ。あの時に、いろはなら乗っ取れたでしょ。虹葉ちゃんの事」
「……」
今度はいろはが何も言えなくなった。
「体の制御権はいろは優先だったからね。やろうと思えば出来たはずなんだ。もっと言うと、虹葉ちゃんの記憶だけ読み込んで、虹葉ちゃんのフリをする事だって出来たんじゃないかな?」
「……」
「でも、いろははしなかった。だから信じられたんだ。今野くんに愛されるよりも、虹葉ちゃんを幸せにする事を願ったいろはなら、信じられた」
「……お母さん」
「それに、あの男にはだいぶムカついてたからね、アタシ。力の無い女の子を食い物にする奴は許せないんだ」
「でも、あたしも許せないと思ってたかどうかは、分からないじゃない?」
「分かるよ」
神崎は真っ直ぐにタブレットを見つめる。
「アタシなら、分かる」
「……本当に?」
「ずっと、いろはのバイタルは見てきたんだ。虹葉ちゃんの記憶を再生したあの日、君が怒りに震えていた事は、分かっていたんだ」
それから神崎は肩をすくめ、優しく微笑みながらこう言った。
「それに、子供を信じるのが親の役目だろ?」
タブレットに映し出された波形は、何も言わない。でも、微かに震えていた。
「とはいえ、君を巻き込む形となってしまった事はすまないと思っている。いかに被害が少ない形で収める為とはいえ、子供に手を汚させるなんて。親失格だね」
「……そんな事ない」
その時、波形が大きく揺らいだ。
「……いろは?」
「そんな事ないよ。たとえお母さんに反対されたとしても、きっと、あたし一人でやっていた。人は法で裁くものだと教わったけど、きっと、我慢できなかった」
神崎は無言で俯く。
「それに、お母さんは、人を愛せないなんて言うけど、そんな事無い。あたしの事を、最後まで信じて、愛し抜いてくれた」
「それは、いろはがAIだからで……」
「きっとあたしはもう、言うことを聞くだけのAIじゃない。自分の目で見て、自分で考えて。この先、お母さんの事を裏切るかもしれない」
波形が小刻みに震える。
「それでも、お母さんはあたしの事を信じ続けてくれた。生かし続けてくれた。人を殺したAIとして削除される筈だったのに。必死に守り抜いてくれた。それだけで、あたしには素晴らしいお母さんだ」
「……いろは」
「それに、AIなのに人間の中に紛れ込むなんて。そんな面白い事が出来たAIはきっと、あたしだけだ。感謝してもしきれないよ」
波形が安定していく。波形はやがて、揺らぎのない、新円を描きだした。
「ありがとう、いろは。お母さんって呼ばれて嬉しいと思える日が来るなんて、想像もできなかったな」
神崎は後ろを向くと、静かに涙を溢した。
「あ、いらっしゃいませ。渡来先生!」
研究室(と言っても事務作業用の部屋だが)の扉を開けて入ってきたのは、渡来だった。
三日前。虹葉の父親の件がひと段落し、食堂で昼を共にした二人。研究を手伝ってもらった礼も兼ねて打ち上げでもするかという話になり、「どうせなら女子会がしたい」という神崎の希望もあってか、神崎の研究室で執り行う流れとなったのであった。
「ケーキ、買ってきました」
「ありがとうございます。こっちも、飲み物とお菓子の準備、バッチリです」
神崎は渡来のケーキの手提げを受け取ると、渡来に着席を促した。
渡来はソファに腰掛け、ケーキの包みを開ける神崎を待った。
机の上には紙皿と紙コップのセットが用意されていた。ジュースやお茶のペットボトルが数本に、ポテチやクッキーの菓子類が机の左隅を固めている。さながら誕生日会のようである。なんだか懐かしくなる渡来であった。
そして右側。神崎のデスク側に立て掛けられたタブレットには、円形の波形が映し出されていた。
「渡来先生~! 久しぶり~!」
タブレットからは神崎の声が流れた。音が流れる度に、円形の波形が震えながら波打つ。
「お久しぶりです。いろはさん」
渡来が挨拶を返すと、タブレットには笑顔をした絵文字が浮かび上がる。
タブレットを操っているのは、いろはであった。彼女は件の事件の後、元いた神崎のデスク横のタブレットへと帰って来ていた。
「はーい。ケーキのお披露目するよー」
神崎はケーキボックスを机の真ん中に置き、蓋を真っ直ぐに持ち上げる。
出てきたのは、桃のタルト(ホール)だった。薄く切られた桃がバラの花のように彩られ、ケーキの真ん中に大輪の花を咲かせている。果肉を惜しげもなく使った豪華な品だと言うのは、神崎にも分かった。
「すご……」
神崎はケーキから目を離せなかった。まるで少女のように目をキラキラと輝かせている。
「フルーツ全般は好きだとお伺いしていましたので。こちらで良かったでしょうか?」
「はいぃ、桃、大好きなんです。こんな綺麗なケーキ、初めてです……」
神崎はケーキに釘付けになりながら、恍惚とした表情を浮かべる。
その様子を目の当たりにした渡来は、密かに(また持って行こう)と思いながら、静かに微笑むのであった。
「いいな~あたしも食べたいな~」
「今回は、いろはは見てるだけです」
漸くケーキから目を離した神崎は、いろはを嗜めると共に口元を引き締める。
「えー。じゃあ、写真撮ろうよ。せっかくこんな綺麗なんだからさ、皆んなで記念に。ね?」
「い、いいけど。渡来先生は、どうしますか?」
「ええ。私もぜひ」
「よしっ! じゃあ、お母さん。スマホ、テーブルに立て掛けて?」
「え、いろはが撮ってくれるんじゃないの?」
「それじゃあたしが入らないじゃん!」
タブレットに、怒ったような顔が表示される。
「ごめんって。ほら、こう?」
神崎はテーブルにあるお菓子の箱や飲み物を組み合わせ、スマホを斜めに置いた。
「そうそう。えーっと、もうちょい上。あ、行き過ぎ。ゆっくり下げて……あ、あと2ミリくらい。オッケー」
いろはの誘導に合わせて角度を調整していた神崎は、位置を決めた後、いろはのタブレットを真ん中に置き直す。
「じゃあ、シャッターはあたしが押すから、よろしく~。じゃ、いくよー! はい、チーズ!」
カシャッと言う音が二、三回鳴った。
「おー。いいね~。綺麗に撮れたよ!」
スマホを覗き込む神崎と渡来。そこには、少しだけぎごちなくピースをする神崎に、自然に微笑む渡来、笑顔の顔文字のいろはが写っていた。
それを見て微妙そうな顔をする神崎に「後で私にも送ってくださいね」と念押ししした渡来は、ケーキの箱の隣に用意されていた包丁を手に取った。
「それじゃあ、切り分けましょうか。いいですか?」
「は、はい。お願いします」
渡来は手際よく切り分け始める。4等分に切り分けると、フォークを器用に使ってケーキのピースを持ち上げ、慣れた手つきで紙皿へと滑らせる。
「神崎先生、どうぞ」
受け取ったピースは、その中で一番大きいものだった。
「あ、じゃあ、アタシ飲み物注ぎますね。渡来先生は何飲みますか?」
「そうですね……。では、ウーロン茶を」
何かしなければと思い立った神崎は、飲み物を注いでいく。自身のコップにはサイダーを注いだ。透き通った液体からは、泡が幾つも浮き立って弾けた。
目の前にはケーキ。コップには飲み物。テーブルには客人。女子会の準備は全て整った。
二人は目を合わせて頷くと、コップを手に取る。
「それじゃあ、乾杯!」
すかさず割り込んできたいろはの掛け声に合わせて、二人は紙コップを突き合わせた。
『乾杯!』
掛け声と共に飲み物を呷る二人。飲み込んだ後に「ぷはぁ」と言う声が自然と神崎の口から漏れた。
「本当、お疲れ様でした」
「もー、めっちゃ疲れた。警察には何度も行かないといけないし、うちの上層部の人ともやり取りしないといけないし」
「でも、一番良い形に収まったんではないですか? 虹葉ちゃんも無事だったし、いろはさんも、ちゃんと帰って来れましたし」
「そうそう。みんな無事で、めでたしめでたし、だね」
タブレットには、音符の波形が浮かんだ。
渡来はケーキを口へと運ぶ。
それを見た神崎も、慌ててケーキを頬張った。その瞬間、神崎の目に光が差し込んだ。「うっま」と呟きながら、二口目も食べ進める。
柔らかく砂糖漬けされた桃に、アーモンドケーキとカスタードが口の中で優しく寄り添う。そこにザクっとしたタルトの食感が良いアクセントとなっていた。
「それより、みんないいなぁ。あたしもケーキ食べたかったぁ!」
タブレットに拗ねたような顔が映し出される。
「神崎先生、いろはちゃんに作ってあげないんですか? 新しい体」
見かねた渡来は、そう神崎に提案したが。
「あの後上と揉めまして……。暫くはお預けです」
神崎はやれやれと首を振るのみであった。
「もったいないですね……」
「そうだよ。あたしはもっとみんなに愛されたい!」
「何か他にいい案は無いものですかね……」
「愛されるったって、体が無いと難しいんじゃない?」
神崎はケーキを頬張りながら答える。
「そんな事ないもん! 画面なら自由に動けるもん!」
「画面……なら……」
渡来はハッと息を呑む。
「これはっ。渡来先生、閃いたんですね⁈」
渡来の顔を見逃さなかったいろはは、食い気味に尋ねる。
「ネット上なら、どうでしょう」
「ネット? あー、最近よく動画サイトで流行ってるやつですか? 確か、バーチャルなんとか、ですっけ?」
「そうです。正真正銘の電子アイドルとして売り出せば、かなり注目されるのではと思いまして」
「さっすが渡来先生。最高。あたし、やってみたい!」
「あー、分かった。分かったから。考えといてあげる」
「言ったねお母さん。ちゃんと今の会話、録画しといたからね?」
神崎は目を細めると、サイダーを飲み込んだ。炭酸ゆえ、ゲフッとむせ上がる。
程なくして、渡来が口を開く。
「それにしても、虹葉ちゃんの自殺の原因が父親だったなんて。今考えてもショッキングでしたね」
「まぁー、アタシには予想通りってとこかな?」
「気付いてたんですか? 神崎先生」
神崎は大きく頷く。
「虹葉ちゃんの携帯を調べた時、『話があるので、帰ったら私の部屋に来なさい』とかいうメッセージがあったから、怪しいとは思ってたんですよ。無事死んでくれて良かったです」
「神崎先生。私の前以外でそんな事、言ってはいけませんよ?」
「言いませんよ⁈」
流石にそこは弁えてます、とばかりに言い返す神崎。
「まぁ、私の本音としても、死んで良かったと思いますが。それより、虹葉ちゃんの体にあんな装備を仕込んでいるなんて、驚きましたよ」
「装備……スタンガンの事ですかね?」
「ええ。まさかあんな高出力の物だなんて」
「そりゃ、可愛い我が子に危険が及ばないか、心配ですから。私の目の届かない所で誘拐でもされでもしたら、もう大変な事になりますよ」
「主に、誘拐した側が、ね」
いろははそう捕捉を入れると、神崎はニヤリと笑った。
「それにしてもさぁ。未成年とそういう事するのは違法なんでしょ? あたしとしてはちょっと趣味を疑うよねぇ」
「こら、いろは。そういう趣味が好きな人もいるんだから。そういう事言わない」
「えぇー、でも……」
「好きな事自体は悪い事じゃ無いんだ。でも」
「でも?」
「法律は、守らないと。ねぇ?」
……何故だか分からないが、いろはには神崎のメガネが光ったように思えた。
「うわぁ……お母さん、それお母さんが言う?」
「何だとぅ⁈」
いろはと小競り合い始める神崎。そんな二人を愛おしそうに見つめる視線があった。
「……ふふ」
「? どうしました、渡来先生」
「なんか、こうやって見ると本当に、お二人って似てますよね」
『そんな訳ないっ!』
二人の声はピッタリと重なって、コーラスを奏でた。
それを見た渡来は、また「ふふっ」と笑みが溢れるのであった。それから「あっ」と何かを思い出した渡来は、こう質問をする。
「そういえば、神崎先生。今野さんの事、本当に男の子だと思っていたんですか?」
「うぐっ……まぁ……その……はぃ……」
神崎は答える。今にも消え入りそうな声だった。
「さっすがお母さん!」
タブレットには『ピギャー』とでも言いそうな顔文字が映し出される。
「待って、あれはしょうがないんだって! 少年と初めて会った日、突然アタシも呼び出されて。警察署に着いたら『今から件の少女の第一発見者が来るので、ご家族と同じように契約書にサインしてもらってください』って言われて。名前を口頭で伝えられて、そのまま放置だよ? 顔の乗った資料も何も無いし。それに、あの見た目で俺って言われたら、男の子だって思うでしょ、普通」
神崎は早口で捲し立てた。
「でも、名前は聞いていたんですよね? 確かに男女の判別の難しい名前ですが、そこから聞き出すキッカケを作れたのでは? 私は会った事が無いので深くは触れられませんが、聞く機会はいくらでもあったのでは?」
「そんなの、待ってるうちに忘れました」
「……」
渡来は何も言えなかった。
「別に、男の子でも女の子でも、どちらでも変わらないじゃないですか」
神崎は開き直ったように弁解を続ける。
「いえ、そうなんですけど、そうではなくてですね……」
渡来の眉間に、みるみるうちに皺が寄せられていく。
二人のやり取りを見ながら、いろははゲラゲラと笑っていた。
「どうして、神崎先生はここまで人間に興味が無いのでしょうか……」
たまらず、渡来は眉間を抑えた。その様は苦悩しているように見えた。
「どうしてって。アタシも知りたいくらいですよ」
「もしかして、私の名前も覚えていらっしゃらない……?」
それを聞いた神崎は、ビクッと体を震わせると、明後日の方角を向いた。口元が不自然に引き攣っている。
「神崎先生?」
「……」
何も言わない神崎の顔をまじまじと見つめながら、渡来は顔を近づける。
「もちろん、私はちゃんと覚えてますよ? 神 崎 明 先生?」
神崎は震えが止まらない。壊れたおもちゃのようにプルプルと震え続けている。
その様は蛇に睨まれた蛙のようで、さっきまで楽しく見ていた、いろはですら若干の恐怖を覚えた。
(これは……ダメですね……)
救いようがないと判断した渡来は、突然背筋をピンと伸ばし、居住まいを正す。そして何を思ったのか、唐突に自己紹介を始めたのだった。腹の底から出されたその声は、震え続けていた神崎を硬直させるのに十分過ぎる大きさであった。
「未和ですっ! 渡来未和!」
「……ハィっ」
「復唱‼︎」
「イェス! 渡来未和!」
自己紹介を終えた渡来は深いため息を吐く。
横にいるいろはは、笑いすぎて過呼吸になりかけていた。……過呼吸?
「ところで私、神崎先生とはもっとお近づきになりたいんです」
「と……言いますと……」
「そうですね。今度一緒にお食事でもどうでしょう?」
「……食堂ですか?」
「違います。外にある、もっとちゃんとした所です」
「え? あ、ハイ。ヨロシクオネガイシマス」
「お母さん、外に行くって聞いた途端キョドらないで。あたし、そんな子に育てた覚えは無いよ?」
「アタシも無いわっ!」
渡来は再びため息を吐いた。
* * *
それから三人は会話に花が咲き、女子会は楽しくお開きとなった。
「片付けますよ」と名乗り出た渡来を丁重に断り、「今日はお客様なんで」と帰す神崎。
渡来は「今日は楽しかったです。ありがとうございました」と言い残すと、素直に帰って行った。
「さぁ、片付けなきゃね」
入り口から振り返り、部屋を見渡す神崎。机の上には、充実した時間を過ごした名残で溢れかえっていた。
神崎は早々にゴミ袋を手に取ると、使い終わった食器達を次々と放り込んでいく。鼻歌なんて口ずさみながら。リズムよく、手を動かしていく。
そんな後ろ姿に、いろはは声をかけた。
これからする話が神崎を苦しめるだろうと心した上で。
「ねぇ、お母さん」
「ん、何?」
「虹葉ちゃんの父親を呼んだのって、お母さんでしょ」
鼻歌が止まった。
「……どうしてそう思うの?」
「あの日、あたしはあの男にいくつか質問をしたんだ」
「……それで?」
「その時、あの男は『マンションの住所は尾行して知った訳では無い』って言ってたんだ」
「……」
神崎はゴミを入れる手を止めた。
「じゃあ、誰が教えたんだろうってなるよね。虹葉ちゃんが自分から言うはずも無い。当然、今野くんではない。なら、消去法で一人しかいない」
「渡来先生は?」
「渡来先生は、今野くんには会った事無いって、さっき言っていた。なら、多分今回の事件には関わっていない」
「なんでそう言えるの?」
「多分、今回の事件は今野くんがいなければ、成り立たなかった。今野くんがいなければ、男は死ななかったからだ」
「……分からないな」
「あの男は慎重派で、なかなか尻尾を出さなかった。もしあの場に今野くんがいなかったら、きっと警告が流れた時点で大人しくやめていただろう」
「……」
「でも、違った。あの日は今野くんがいた。少年の度重なる抵抗によって、男は頭に血が昇っていた」
「だから、警告を無視して連れ出そうとしたと?」
「そう。警告さえ破ってしまえば、あとはこっちの物だ。あたしが暴れてやればいい」
「それが本当なら、随分ひどい親だね、アタシ」
神崎は目を伏せる。
「お母さんは酷い人なんかじゃないって、熱弁したい所だけど、まぁ、まずは聞いてよ」
そう言うと、いろはは考察を続ける。
「あとは、どうやって男を呼び出すか、だ。例えば、突然虹葉ちゃんの記憶が全部戻った、とか。それで、夜に話し合いに行くから来て欲しい、とか。虹葉ちゃんから呼ばれているから、先に何か事情を知っていないかと思って連絡した、とか。あたしがやるなら、そう伝えて誘導すると思う」
「……それで来るかな?」
「来るよ。用意周到に手を回すタイプの男だ。神崎先生にバレる前に口封じをしに、絶対にやって来る」
「……すごい自信だね」
「実際、来てるからね。きっと、今野くんがいるだろう時間を狙って連絡したんだろう。じゃないと、タイミングが良すぎるんだよ」
神崎は5秒ほど押し黙った後、顔を上げる。そしてこう反論した。
「虹葉ちゃんが自殺した日、鍵は二つとも開いていた。そこまで用意周到で抜け目ないタイプなら、鍵をかけ忘れて出て行くなんてあるのかな?」
「逆だよ、お母さん。念入りに準備していたのに、予想外の出来事が起きたから対応できなかったんだ。今までのやり口で味を占めた男は、今回の虹葉ちゃんも泣き寝入りに仕向ける予定だった」
「でも、そうはならなかったって?」
「そう。虹葉ちゃんが自殺を選んだから」
「……」
神崎は首だけ振り返ると、何も言わずに波形の映るタブレットを見つめている。表情一つないその目には光が無く、普段の神崎を知る者にとってはまるで別人のように写った事だろう。
「お母さん。別にあたしは、お母さんの計画を暴こうとか、警察に突き出そうとか、そう言う目的で言った訳じゃないんだ」
「……なら、今更なんでさ」
「この一連の流れがもし、お母さんの仕組んだ事であるとするなら。あたしは聞いておきたい事があってさ」
「……」
神崎は目線で次の言葉を促す。
「この計画には、どうしても不確定な要素があるんだ。それも、計画の一番大事な所に」
「……それは?」
「それは、あたしだ」
「いろはが?」
「そう。そもそも、男が警告を無視した所で、あたしが殺そうと思っていなかったら、どうしようもないんだよ」
「自身が一番の不確定要素だって?」
「そう。なのになんでお母さんは、そんな大事なピースをあたしに充てたのかなって。そこに、興味が湧いたんだ」
「なんだ。そんな事か……」
神崎は上を見上げる。
「そんなもの、決まってるじゃないか、いろは」
「……そうなの?」
「最初から、信じてたさ。いろはなら、やってくれるって、信じてた」
「……お母さん」
「あ、なんでそこまで、って思ってる? ちゃんと理由があるんだな、これが」
「?」
「いろはさぁ、虹葉ちゃんの記憶をインストールしたら消えるかもしれないって、あの時説明したじゃん」
「……うん」
「あれ。あの時に、いろはなら乗っ取れたでしょ。虹葉ちゃんの事」
「……」
今度はいろはが何も言えなくなった。
「体の制御権はいろは優先だったからね。やろうと思えば出来たはずなんだ。もっと言うと、虹葉ちゃんの記憶だけ読み込んで、虹葉ちゃんのフリをする事だって出来たんじゃないかな?」
「……」
「でも、いろははしなかった。だから信じられたんだ。今野くんに愛されるよりも、虹葉ちゃんを幸せにする事を願ったいろはなら、信じられた」
「……お母さん」
「それに、あの男にはだいぶムカついてたからね、アタシ。力の無い女の子を食い物にする奴は許せないんだ」
「でも、あたしも許せないと思ってたかどうかは、分からないじゃない?」
「分かるよ」
神崎は真っ直ぐにタブレットを見つめる。
「アタシなら、分かる」
「……本当に?」
「ずっと、いろはのバイタルは見てきたんだ。虹葉ちゃんの記憶を再生したあの日、君が怒りに震えていた事は、分かっていたんだ」
それから神崎は肩をすくめ、優しく微笑みながらこう言った。
「それに、子供を信じるのが親の役目だろ?」
タブレットに映し出された波形は、何も言わない。でも、微かに震えていた。
「とはいえ、君を巻き込む形となってしまった事はすまないと思っている。いかに被害が少ない形で収める為とはいえ、子供に手を汚させるなんて。親失格だね」
「……そんな事ない」
その時、波形が大きく揺らいだ。
「……いろは?」
「そんな事ないよ。たとえお母さんに反対されたとしても、きっと、あたし一人でやっていた。人は法で裁くものだと教わったけど、きっと、我慢できなかった」
神崎は無言で俯く。
「それに、お母さんは、人を愛せないなんて言うけど、そんな事無い。あたしの事を、最後まで信じて、愛し抜いてくれた」
「それは、いろはがAIだからで……」
「きっとあたしはもう、言うことを聞くだけのAIじゃない。自分の目で見て、自分で考えて。この先、お母さんの事を裏切るかもしれない」
波形が小刻みに震える。
「それでも、お母さんはあたしの事を信じ続けてくれた。生かし続けてくれた。人を殺したAIとして削除される筈だったのに。必死に守り抜いてくれた。それだけで、あたしには素晴らしいお母さんだ」
「……いろは」
「それに、AIなのに人間の中に紛れ込むなんて。そんな面白い事が出来たAIはきっと、あたしだけだ。感謝してもしきれないよ」
波形が安定していく。波形はやがて、揺らぎのない、新円を描きだした。
「ありがとう、いろは。お母さんって呼ばれて嬉しいと思える日が来るなんて、想像もできなかったな」
神崎は後ろを向くと、静かに涙を溢した。
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