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第3章
吸血鬼モーリス
しおりを挟む重く暗い闇の中で、楕円の瞳孔を囲む蛙の白目だけがやけにはっきりと浮き上がって見える。
太い前足が滑るようにこちらへ進み出たのを気配で察し、アミナは子供を背後に庇い、後ずさった。
獲物を追い詰める狩りを楽しんでいるように、蛙はヒダの付いた足でゆっくりと草を踏みしめていた。
声にならない悲鳴を喉で殺しながら、震える足を無理矢理後ろに動かす。
子供がいなければ、自分はとっくに発狂していただろう、とアミナは背中の小さな存在を思う。
「....ちぇ。ハズレ引いちゃったな。さっきの兄ちゃん達の方が強そうで頼れそうだったのに」
「え?」
自分よりも怯えているはずだ、と思っていた子供から淀みなくスラスラ流れてくるテノールの声にアミナは困惑し、肩越しに彼を振り返り、驚いた。
なんとその少年は腕を組み、アミナを睨み付けていたからだ。
「あんたが余計なことするから、よりピンチになっちまったじゃんか!」
「え....えええ?ご、ごめんなさい...」
「チッ!!おどおどすんなよ!俺より歳上だろあんた!あんたが怖がってると、こっちまでもっと怖くなるだろ!!」
「ひえ!?す、すみません!!」
自分よりいくつも歳下の子供の歯切れの良い言葉にアミナは瞬間的に謝った。
足元の小石に躓き、アミナの上半身がふらつくと、蛙の瞳孔が少年を捉えるように、一層細くなった。「ぎゃ!!」と少年は肩を震わせ、アミナの服を引っ張る。
「ちょっと!俺の前にはいてよね!」
「ひ、ひいぃっ」
しっかりと服を掴まれ、蛙と少年の間に固定されてしまったアミナは震え上がった。
どど、どうしたら....っ。
いつも守ってくれるシオンはいない。
自分がなんとかしなければならないのだ。
「こ、ことのはっ」
焦りと恐怖で舌をもつれさせ、なんとか一つ思いつけた。
もしかしたらその場しのぎにはなるかもしれない。
なんとかしてこの子を守るんだ。
闇を照らす光がアミナの胸から生まれる。
アミナは弓を引き、蛙の足へと矢を放った。
『ルミエール・ドゥース・アロー!!(小さな光矢)』
水色と白の淡い光を纏った矢は狙い通り、蛙の足へたどり着き、そして通り抜けた。
「へ!?」
足に痛みがこないことを不思議に思った蛙と、なぜ矢がすり抜けてしまったのか混乱しているアミナは同時に首を傾げた。
「ど、どうして....」
「言望葉使いだったのかって見直してたら、まさかの聖の言望葉使いかよ。今一番役に立たない力じゃんか!」
「え?え!?」
「聖の言望葉の力は、闇の言望葉使いと、悪魔にしか効かないの!」
「え、で、でも、矢だし、チクッとくらいは」
「ない!!!」
「えー!?」
知らなかった....聖の力がそんなにも限定的なものだったとは。
じゃあ、どうすれば、とアミナは弓を片手にこめかみに拳を当てる。
腰にしがみついていた子供がベルトに挟まれた短刀を見つけ、声を上げた。
「武器あるじゃん!これ!」
「え!?そうだ……!これがあったんだっけ……」
もたつく手で取り出した切っ先を蛙に向けた途端、体が震える。
矢よりも面積のある刃は蛙の肌にぷつりと食い込ませたら、簡単に肉を裂くのだろう。
そして、蛙の間合いに入った時、あの素早い張り手から逃れる俊敏さが自分に備わっていないことも分かっていた。
アミナは喉を鳴らし、情けなく震える声で子供に言った。
「....私が、走り出したら、あなたは逆の方に逃げて」
「....戦えるのかよ?」
威嚇するだけだ。それ以上は、きっとできない。
脚力も腕力もない。でも、それを嘆く時間もない。
聖の力しか持たない私には、この身体で、今できることをするしかないんだ。
黒蛙が顔を下げ、二人を見つめる。息づかいが聞こえそうなほどの距離にアミナの肌が粟立ち、涙がこぼれそうになる。
「....やってみる。だから、お願い。あなたもやってみて」
懇願するように囁かれた言葉に子供は「でもそれじゃ...」とアミナを見上げ躊躇したが、振り返らない少女に覚悟を決め、頷いた。
「.....う、うん」
手の中の短刀を確かめるように握り直し、アミナは逃げそうになる太股を叱咤するように叩いた。
「やあああああ!!」」
暗闇の中を蛙に向かって走る。少年も逆方向に走り出した。
振り上げた短刀は、しかし蛙の肌に触れた途端、生き物の脈打つ感触に怯んだ。その隙をついた黒蛙の腕でアミナは地面に弾き飛ばされてしまった。
「あ!」
頬が湿り気を帯びたひやりとした土に付いた時、蛙が少年へ飛びかかるのが見えた。
少年の顔が恐怖にひきつる。
「やめて!!」
アミナが叫び、短刀も拾い上げずに駆け付けようとしたその時、のんびりと調子の良い声が上から降ってきた。
「あ、ちょいと失礼。さっとステッキ振ったなら、これまた素敵な、はいドーンと蛙がひっくり返る」
アミナは目を見張った。
なぜなら巨大な黒蛙の体が宙に浮いたかと思えば、仰向けに落下したからだ。
地面に蛙の体重が響くのと同時に降り立ったずいぶんと細身の男は、なぜか森の中でスーツを身に纏っていた。
「すまないね蛙くん。今日の晩御飯は別で探しておくれ」
男はずれた丸眼鏡を細く尖った鼻の上に戻し、装飾のないシンプルなステッキを地面についた。
二十代半ばくらいだろうか。
項で結ばれた真っ白な髪は腰まで垂れ、頬には血色がなく、髪に負けないほどの白い顔をアミナに向けた。
「どうも可愛いお嬢さん」
「え、あ、」
男はシルクハットを持ち上げ、胸元に掲げるとゆったりと優雅に頭を下げた。
アミナが何か言おうと口を開くと、男は構わず話し始めた。
「ずいぶんと珍しいこともあるものだ。明かりも持たない可憐な少女がこんな森に訪れるとは。そう珍しい....珍しいは、不思議...不思議はおかしい....。そういえば、先日私の姿を見られたね。そうそう。ミスター・ジェラート。ふむふむ。もしかすると貴方はアストライアの方では?」
「え!?」
なぜ分かったのだろう?
というよりも、この人こそ、なぜこの森で、スーツを着て....?
それに先ほどの身のこなしは一体?
アミナが唇をまごつかせていると、男はくるりとステッキを回し、よく磨かれた皮靴で蹴り上げた。 ステッキはくるくると上に飛ぶと、同じようにくるくると回転しながら落ち、男の手中に握り直された。
身構えているアミナに男は意味ありげに笑むと、ステッキを持ち上げた。
「すごいだろう?」
「へ!?」
「ずっと練習していたのだよ。誰かに見せたかったのさ」
「どーでもいい!!」
「話が長いし、くどいし、くだらないし!」と子供が不機嫌に語尾を荒げる。
男は少年に向き直ると、ステッキを少年の顔に突きつけた。
「そうだ。君、君。なぜまたここに?外まで送ってあげたじゃあないか。もしかすると、前と後ろが分からなかったとか?」
「ちがうよ!……ちょっと、気になることがあったんだ。それを追いかけてたら迷って…。あの子達に渡したいものがあったんだ……、今度こそって…」
子供の瞳が左右に揺らぎ、伏せられた。
「君、君。おーい」
男はステッキでこつこつと子供のつむじをつつく。子供が「やめろ!」と鬱陶しそうに払うと、「こんな暗闇にいたら迷うだけだよ。そうだ。話を聞いてあげよう。暇だしね」とステッキで手の平をぽん、と叩いた。
「暇だからかよ!」
「そうなんだ。暇なんだよ。ずーっと、ずっとね」
どうやら知り合いらしい子供と男の会話に置いてきぼりになってしまっているアミナに、男は振り返り、上を指差した。
「お嬢さんもいらっしゃい。ティータイムと洒落込もうじゃあないか」
「え?あの、あ、あなたは?」
動揺するアミナに男はシルクハットを持ち上げ、片目を瞑った。
「君の探し物だよ。そうさ私が吸血鬼。迷いの森のモーリスさ」
シルクハットを被り直し、颯爽と歩き始めた男の背を追ううちに、アミナの顔がみるみる驚愕の色に染まっていく。
「……え、えっ!?ええええー!?」
かくして泣き虫少女は迷いの森に住む吸血鬼モーリスと出会った。
もしかしたら、これが少女と、あの無神経な少年の未来を変えた一つの出会いだったのかもしれない。
そんなことなど知るはずもない少女は、混乱で重くなった頭を抱えながら吸血鬼と子供の後に続き、なだらかな森の傾斜を登っていく。
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