泣き虫少女と無神経少年

柳 晴日

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第3章

水底の祈りはやがて波となり

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 時おり、思い出したように、水の中にいるようなくぐもった音が遠くから景色と共に反響する。
 匂いや目に映るものがこの世のすべて。
 それが、私の普通。

 幼い頃、私は皆も同じように水中の泡が耳を撫でるような音を聴いているのだと思っていた。

 文字で表したら、きっとこんな感じかな?

 ぼこぼこ
 ぶくぶく
 時にはぼぼっと短く、破裂するように聴こえたり。



 ふとした時に、皆がしきりに口をぱくぱくと動かしている事に気が付いた。

 なにしてるのかな。

 不思議に思ってしばらく観察を続けると、口をぱくぱくと動かすことで何かを発し、何かを伝え、共有することができているみたい。

 母親が知らない男の人と家のソファーに寝そべり、楽しそうに口をぱくぱくさせている。
 お母さんから鼻の奥がツンとする匂いのする日は、機嫌が良いことが多い。
 赤く塗られた唇の動きを見たくて近くまで行くと、男の人が私を指差して眉をしかめた。
 母は眦を吊り上げて私を突き飛ばし、大きく口を開け、素早く動かす。
 水泡のボコボコが弾け飛ぶような、そんな音がした。

 背中を押され、家から追い出された。
 太陽はまだ真上。太陽が真っ赤になって、丘に沈みきったらお父さんが帰ってくる。
 家の前で待っているとお母さんに叩かれるから、牛や馬が囲われている場所まで行き、柵の下でぼんやり馬を連れて歩く人を眺めていた。

 太陽が二つ分動いた頃、目の前に影が下りた。
 顔を上げ、息を飲んだ。
 いつも私をいじめる男の子三人がにやにやと見下ろしていた。
 腰を上げ、逃げようとしたけど、腕と肩をつかまれてしまい、ずるずると引き摺られる。

 小屋の中に突き飛ばされた。足元にいる豚に驚き、慌てて出ようとするが、今度は胸を押され地面に倒れた。
 男の子達は人指し指を耳元でくるくると回し、口をぱくぱくさせながら笑うと、小屋の扉を閉めてしまった。
 扉は押しても引いても開かず、手が痛くなるまで叩いたが、びくともしない。
 お腹の横を豚の鼻がぐいぐい押した。
 邪魔だよ、と言われているようだった。

 壁の隙間から射していた日の光が消えた頃、扉を開けた男の人は私を見つけると眉間に皺を寄せ、大きく口を動かすと私の襟を掴み上げて外に放り投げた。

 暗い家路をとぼとぼと歩いて帰った。
 ぱくぱくと唇を動かしながら。
 叩かないで。いじめないで。
 一緒に遊びたい。
 どうしたら伝えられるのだろう。悩んでいた。


 家の前では父親が大きなボストンバックを提げて立っていた。
 しゃがんで目線を合わせ、唇を動かす父親の喉が動いている。
 人差し指で触れると、指先が震えた。
 彼はそっと私の頭を撫で、口を四回動かした。
 指先がまた震えた。
 その日以来、父を見ることはなくなった。


 指を当て、喉の骨を震わせて口をぱくぱくさせてみる。
 喉の奥を大きく開くと、骨の振動が起こりやすい気がした。
 何回も練習を重ねた。
 皆と同じように思ったことを伝え、そして皆の考えていることも分かるようになるんだと、とてもわくわくした。

 家の窓から道行く人達を眺めては、想像して微笑んだ。

 一体、何について笑いあっているのだろう?
 白く街を照らす朝日がとても美しかったこと?
 それとも、黒い蛙のことかな?
 森の入り口にいたの。見たこともない小さな黒い蛙。珍しいよね?


 私もいつかできるようになるのかな?

 面白いと思ったことを伝えたいな。

 想像の中で私は口をぱくぱくと動かし、誰かを呼ぶ。
 そして、その人は振り向くの。
 なんて素敵なことだろう。

 いよいよ本番の時だ。
 胸をどきどきとわくわくで高鳴らせ、広場の街の皆の前で同じように口を動かしてみた。喉の震えも指先できちんと確認しながら。

「私も仲間にいれて!一緒に遊ぼうよ!」

 みんな笑った。
 笑ってくれた。嬉しいと思った。
 でもすぐに、それは良い笑いではないことに気づいた。
 眉を寄せて耳を塞ぐ人。
 台所に現れたネズミを見るような目で見る人。

 皆が遠巻きに私を見る。
 向こう側とこちら側の間を厚い氷が遮っている。

 そして向こう側の人達は、私がいることを忘れてしまったかのように同じ世界の人達同士で、にこやかに口をぱくぱくとさせ始めた。

 その時になってようやく気がついた。
 私は他の人と違う。
 皆と同じようにできないんだ。
 ひとりだけ、違う生き物みたいに。
 海の底に突き落とされたように、気持ちは沈んだ。



 母も帰る家も、気づいたらなくなっていた。

 街中を歩くと男の子達に叩かれたり、蹴られたりするから、目立たないように森の端で過ごすようになった。


 いくつもの季節が私を残し、過ぎていった。

 その場しのぎで生きていくうちに、男の人がぽつぽつと私のいる場所まで現れるようになった。
 その人達は獣のように瞳を光らせ、私の体を触っていく。
 気持ち悪くて、痛くて、怖くて、嫌で、嫌で、泣いて暴れても誰も助けてくれなかった。

 私の言葉は誰にも伝わらない。
 私を一人の人間として見てくれる人はいない。
 皆にするみたいに、私の顔を見て口をぱくぱくさせてくれる人はいない。
 物みたいに引きずられ、ゴミ置き場に捨てるように投げ飛ばされる。
 男の人が怖かった。けれどその場所から離れなかったのは、たまに食べ物を置いていってくれるからだ。

 お腹が空いていた。
 そして、いつの間にか抵抗する意思も消えていった。


 ひとりだった。
 ずっとずっと、海の底に座り込んで太陽の光を反射する水面に憧れていた。
 覗きこんでくれる人など、誰もいないというのに。
 ここにいたんだねと、微笑んでくれる人がいつか現れるんじゃないか、などと妄想しては孤独に打ちのめされ、でも、空の青さに焦がれていた。



 彼は突然現れた。
 シルクハットに黒いマント。
 ステッキを操り、おどけて笑う。


 その人は、街のどの男の人よりも綺麗な顔をしていた。
 項で結ばれた張りのある純白の髪。
 すっと筋の通った先の尖った鼻。
 真っ赤な瞳の奥に隠せない優しさが潜んでいた。

 乱暴に投げられた水の中、物みたいに扱われることには、もう慣れていると思っていたのに。
 心は軋み、虚しさが込み上げた。
 いっそ感情などなくなってしまえば、こんなに苦しくならないのに。
 それでも、どんなに人間として扱ってもらえなくても、守りたいものがあった。
 心の奥にある、譲れない何か。
 その時はそれを何と表せば良いのか分からなかった。

 川に腰まで浸かり、呆然とした彼は唇を四回動かした。
 見たことのある動きで、唯一人として接してくれた父親と同じ形を成していた。



 彼はよく話す人だった。

 口をぱくぱく。
 私に向かって、ずっと。
 何も返さない私に眉をしかめながらも、なにかをずっと伝えようとしている。

 彼の差し出した服を着る。
 彼は頷いて誇らしそうにぱくぱく。

 彼の差し出した甘いものを食べる。
 彼は顔を赤く染めてぱくぱく。

 面白い人。
 くるくる表情が変わるから、見ていて飽きない。

 ぱくぱく。ぱくぱく。

 ねえ、なんて言っているの?


 この人は初めて会った日以来、私に触れることはなくなった。
 触らないのに、食べ物をくれる。
 私に顔を向けて、唇を動かす。
 赤い眼差しに私を映す。


 水面を覗いてくれる人なんて、いると思わなかったの。


 焚き火に照らされる彼の横顔を見つめていた。
 どうして側にいてくれるの?
 知りたいけれど、訪ねる手段もなくて、瞳で問いかけ続けた。


 水中に大きな岩を高くから落とし、沈む重い音が耳の中で唸り響いた。
 焦げた臭いが鼻を刺し、木の破片がぬかるんだ土に落ちている。

 何が起こったの?
 後ろの木が割れていた。
 得体の知れない出来事への恐怖を感じ、少しでも安心したくて彼の近くに寄った。

 彼はびしょ濡れだった。
 私にマントを貸してくれたせいで。
 申し訳なくて、彼もマントを被れるように背伸びをしたけど、届かない。
 かがんでくれないかな。

 彼の服を下に引っ張ろうとした時、熱い温度が私を包んだ。
 男の人の感触に心臓が嫌な動きをし、肌が粟立つ。
 地面に押し倒され、また嫌なことをされるのだ。
 失望があっけなく抱きかけた信頼を崩す。
 けれど、一瞬で覚悟した事は何も起こらない。
 背中を撫でる手は優しく、彼の方が傷ついたように身体を強張らせていた。

 どうして?
 どうして.....。

 分からない。知りたい。
 また誰かのことを知りたいと思うことがあるなんて。

 どうして側にいてくれるの?
 優しくしてくれるの?
 私が、可哀想だから?
 そうだったら……嫌だな。

 あなたといると心が動く。


 知りたいと思い近づけば、鼻に皺を寄せ振り払われた。
 感謝を伝えようとすれば、押し倒され蝕まれてきた。

 諦めなければ、壊れてしまう。
 ひとつ諦めるたびに、自分で色を消していった。
 それが一番つらかったよ。

 冷たい雨が私たちを刺す。
 暖かい鼓動が伝わるたびに、心に色が生まれる。

 あなたはいつまでもここにいてはくれないでしょう。
 きっといつか森を抜け、私を置いていくことでしょう。

 それでもいい。
 一度でもこちらを見てくれた人がいる。
 それだけでいいの。

 大きな手の平が背中を撫でる。
 優しく触れてくれた人がいた。
 それだけで。


 心。……そう、これが心だ。

 こんなにも揺れるものだったんだよね。










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