菩提樹の猫

無一物

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8章 全てを捨てて救出せよ

15 うそ……なんで……

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◆◆◆◆◆


(——こうやって人は死んでいくんだ……)

 レネは徐々に体力がなくなっていくのを感じていた。
 自ら生きる意志を失っているからだ。
 ここに来て、自分の意思ではなにも口に入れていない。

(オレは馬鹿だ……)

 バルナバーシュと売り言葉に買い言葉で追い出され、レオポルトとグルだったあの男にまんまと騙されて、この有様だ。
 レオポルトの慰み者になるのも癪なので、最期まで足掻こう。

 ガタガタと揺れている……馬車でどこかに移動しているのだろうか?
 薄っすらと膜に覆われたような視界の中で、臙脂色のベルベットの内装がぼんやりと浮かぶ。

 誰かが心配そうに覗き込んでいるが、誰だろう?
 冷んやりとした空気が、頬を掠めた。

「レネ、いま治してやるからね——彼の拘束を取ってもらっていいですか?」

 聞きなれた声だ……。
 山吹色の光に包まれて、背中の熱が引いて幾分身体が楽になる。
 目の前からゆっくりと膜が剥がれ視界がクリアになる。

(どうしてボリスが……?)

「レネ、どうしたんだ? 私だ、私がわかるか?」

 心配そうな顔をしてこちらを見下ろすボリスの顔があった。

(——また違う……)

 もう傷付かないようにと、心の奥にしまい込んでいた感情がザワザワと動き出すのを感じた。
 ありもしない、ベルガモットとクローブ煙草の匂いが鼻の奥で香る。

(女々しい奴め……)

 弱い自分を罵る。

「あれを見ろっ!」

 ボリスに頭を持たれて動かされた先には——
 深紅に白の狼の紋章。
 ヴルク家の家紋だ。

(——うそ……なんで……)

 バルナバーシュが目の前にいることが信じられない。
 それも見慣れたリーパのサーコート姿ではなく、子供のころ夢にまで見て憧れた騎士の姿だ。

(オレは……もう死ぬのか?)

 レネは、あまりにも有り得ない光景に、死のはざまで幻想を見ているのではないかという思いに捉われる。

「今の状況がわかるか? 団長はお前を取り戻すために団長を辞任して、貴族相手に決闘を申し込んだんだぞ。お前がそんなんでどうするっ!」

(……え!?)

 上着を脱いでシャツ一枚になると、布一枚隔てても鍛え抜かれた肉体だとわかる。
 レネが幼いころから憧れ、なりたいと思った理想のかたまり

 しかし対峙したのは、レオポルトではなかった。
 同じ形が二つ……。

(まさかっ!?)

「うーーーうぅーーうううう」

 二人を止めるために、レネはなりふりかまわずバルナバーシュの方へと進んだ。

「レネっ、なにしてるんだっ!?」

 すぐにボリスに自分の席へと連れ戻された。
 それでもレネは、衝動を止めない。ありったけの力を振り絞り暴れる。

「ううっーーうううーー」

 バルナバーシュが、初めてレネの方へと目を向ける。

 雷光が走ったかのように音を立て……視線が交錯した。

 カチャリ、カチャリと腰の剣を鳴らして——圧倒的な存在がレネの方へと歩いて来る。
 聞きわけのない子に手を焼く……そんな困った顔をして、バルナバーシュは笑った。

「お前は俺が必ず連れて帰るから、ボリスと一緒に良い子で待ってろ」

 汗で顔に貼り付いた髪を梳かし、大きな両手で轡の食い込んだ頬を包み込むと、そっと額に口づけを落す。

 それはまるで……神聖な儀式のようだ。

 その場にいる人間たちの、レネに対する想いなどすべて紛い物だと言い切るような……そんな絶対的な行為。
 周囲は水を打ったように静かになる。

 レネから離れると、バルナバーシュは再び実の息子と対峙し、剣を抜いて相手に刃先を向けると大声で叫んだ。

「——俺はお前を取り戻すためなら、こいつも殺す覚悟だ!」

 それは間違いなくレネにかけられた言葉だった。

 先ほどまでは、親子で戦うなど身を挺してでも止めなければと思っていたのに……。
 その甘い毒のような言葉に……レネは陶酔していた。

(なんて……オレは傲慢なんだろう……)

「俺もあんたとやってみたかったんだ。母親から『お前の父親は鬼の様に強かった』って聞かされて育ってきたからな」

 あの大型犬のような陽気さはどこにもなく、バルトロメイはきりりと口元を引き締めると、同じ顔がそこに二つ並んだ。

「——殺すつもりで来い」

 バルナバーシュの声が、静まり返った橋の下に響き渡った。

 どちらかが戦意を無くせば勝敗は着く。
 死者が出ることはごく稀にしかないが、どうもこの勝負、雲行きが怪しくなってきた。
 決闘で使われる武器はレイピアの場合がほとんどだ。刺しどころが悪ければ死に至るが、ちょっと掠ったくらいでは大した傷にならない。
 だが二人が持ち出したのは、両手剣。
 殺傷能力は極めて高い。

 皮肉なことに、逢ったこともない親子が、同じ得物を手にし、同じ護衛の仕事に就いていた。
 血は争えない。

 二匹の狼が睨み合い、剣を構える。
 バルナバーシュは背筋をぴんと真っすぐ伸ばし剣を前へ、バルトロメイは担ぐように剣を肩に置いた。

 こんな時なのに、レネはバルナバーシュの構えに見惚れる。
 剣を構え真っすぐ背中を伸ばした時の、僧帽筋の盛り上がりから腰までのS字の姿勢が美しい。

 二人の間に、立会人で剣の心得のあるラファエルが立ち、始めの合図をおくった。

 刃同士がぶつかり合い火花を散らし、刃を絡み合わせることで上手く力をいなした。
 今度はスッと剣を引いたかと思うと首筋を狙い斬りかかる。
 そんな素早い動きをバルトロメイは、一瞬の動作で流れるように行う。
 レネは目を細め、まるで自分が戦っているかのように、次の動きを見極めた。

(——強い……)

 バルトロメイと自分が正面からまともにやり合ったら、たぶん敵わないだろうと、レネは冷静に分析する。
 だが、バルナバーシュと剣を合わせたことのある人間は知っている。

 まだなにも始まっていないことを……。

 バルトロメイが次々と攻撃を繰り出すが、バルナバーシュはすべて動きを読んでそれを阻止する。
 全部の攻撃が的確なのだが、実践を積んできた経験がそれをさせない。
 そして二人の間には、決定的な差がもう一つあった。

 バルトロメイの足が止まる。
 いきなり、バルナバーシュの纏う空気が変貌したのだ。
 すべてを察したボリスがレネの隣から動き出した。
 本当の戦いは強さが問題ではない。

 殺した方が勝ちだ。
 もちろん、バルナバーシュは恐ろしく強い男だ。

 だが——
 バルナバーシュが大戦で戦果を上げたのも……猛者の集うリーパで最強と謳われるのも……この殺意に皆かなわなかったからだ。

 この男が一度攻撃に転じたら、誰も止めることができない。
 実の息子だろうと関係ない。
 レネだって真剣を持ったバルナバーシュに、危うく殺されかけたことがある。

 今回もこの男は、斬り付けるなどいう生易しい方法は選ばなかった。
 上下、左右ではなく、ど真ん中に剣を突き刺した。

「……ぐっ……っ」

 一瞬でバルトロメイは背中から剣を生やしていた。

「——…………」

 バルナバーシュはバルトロメイの耳元でなにか囁くと、腹から剣を抜く。
 あまりのショックにレオポルトが気絶して、使用人が慌てて支えた。

「っ…………」

 決闘の敗者が地面に膝をつくと、大量の血が土の上に零れ落ち、横まで来ていたボリスがすぐに治療を開始する。
 山吹色の光がバルトロメイを包み込んだ。

「彼は、大丈夫なのかっ!」

 ラファエルが険しい顔で治療を続けるボリスに尋ねた。
 意識はあるようで、薄っすらと目を開いている。

「安心して下さい。失血でしばらくは動けないでしょうが、命には別状ありません」

 それを聞いてラファエルは安心すると、レオポルトから預かっていた小箱から鍵を取り出し、レネに近付いて来た。

「本当にすまないことをしたと思ってる……君は恩人なのに、弟がこんな真似をしてしまい本当に申しわけない」

 轡が外され……次々と拘束が解かれていく。
 枷の痕が残って手足には血が滲んでいた。
 だがそんなことなどどうでもいい。

 もう身体を縛り付けるものはなにもなくなった。
 立ち上がり進もうとするが、身体が言うことを聞かずに転んでしまう。

 でもレネは諦めない。
 再び立ち上がり、自分が一番行きたい場所へと進んで行く。

 あちらから歩いて来る大きな存在に。
 視界が涙で滲んで、どんな表情をしているのかも認識できない。

 今度こそ……自分を救い出してくれた理想の騎士の腕の中に——
 レネはまっしぐらに飛び込んだ。

「——バルーーッッ!」


 地面に転がったままのバルトロメイが、その声を聴いて力なく嗤った。

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