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1巻
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いつもは冷静な彼なのに、珍しく言葉に詰まっていた。
「あ、ああ、うん。いいよ、気にしないで」
「寛容なお言葉、感謝いたします。こちらに滞在されている間は何不自由なくお過ごしいただけるよう手配いたしますので、不便に感じることがあればいつでもお申し付けください」
丁寧な口調と、幼いクレイグ殿下に対してしっかり敬意を払っている様子を見ると、いつか裏切るようには見えない。ものすごく怪しい恰好はしているけど。
もしかしたら、何かしら事情があって、悪事を働いてしまうのかもしれない。恰好と振る舞いのちぐはぐさに、思わずそんな考えを抱いてしまう。
「こちらに滞在されるのは三日と聞いておりますので、明日から視察をしていただけるように手配しております。本日は旅の疲れを癒やすためにも、どうぞごゆっくりお過ごしください」
一通りの挨拶を終えた後、アーロンと名乗った彼はそう言って、私たちを客間に案内するように執事に指示を出した。
だけどクレイグ殿下は領地についてアーロンと話すことがあるそうで、私だけが客間に向かうことになった。
案内された客間は、とても広い部屋だった。大きな机や長椅子だけでなく、文机や本棚も置いてある。廊下に通じる扉とは別のところにも扉があるので、そちらが寝室なのかもしれない。
そして本棚にはぎっしりと本が収められている。ざっと背表紙を見ただけでも、私の知らない本がいくつもあった。
その中の一つを長椅子に座って読んでいると、ノックの後にクレイグ殿下が部屋に入ってきた。
「これからどうしようか?」
クレイグ殿下の腕は、分厚い書類を抱えている。おそらく、領地について記されているものだろう。間違っても、他領の人間である私が目を通してはいけないものだ。
「私はこちらにある本を読んでおりますので、どうぞお気遣いなく」
だから気兼ねなく書類に目を通してください、と言外にこめる。
「屋敷内を散策することもできるから、飽きたらいつでも言ってね」
クレイグ殿下は穏やかな笑みを浮かべながら、私の向かいに腰を下ろした。間違っても目を通してはいけないはずの書類が無造作に机の上に置かれる。
さすがに同室ということはないだろうから、クレイグ殿下にはクレイグ殿下の部屋が用意されているはずだ。そちらで読んだほうが安全なのに、どうしてここに留まっているのだろうか。
そんなことを考えている間にも、クレイグ殿下は書類をどんどん読みこんでいる。真剣な顔をしているので、声をかけてはいけないような気がして、私も本に視線を落とした。
書類をめくる音と、本をめくる音。たまに二言三言交わす程度の、穏やかな時間が流れていく。
「それにしても……本当に、私も一緒に来られるとは思ってもいませんでした」
ふとそんなことを考え、口にも出してしまった。
クレイグ殿下が私の声に顔を上げ、首を傾げた。
「君から提案したのに?」
確かに提案したのは私だけど、駄目で元々、藁にも縋る一心だった。
だからこんな、心が安らぐような穏やかな時間を過ごせるなんて、思ってもいなかった。
「許可をいただけるかわかりませんでしたから……」
クレイグ殿下は八歳で私は六歳だけど、それでも一応、男女ではある。そういう関係に思われるのではと危ぶむのは少々考えすぎかもしれないが、六歳の私にハロルドをたらしこんでくるようにと指示を出す、お父様のような人も、世の中にはいる。
正直に言えば、許可が下りない可能性のほうが高いと思っていた。
それなのに、ディナント陛下は私に同伴する許可を出してくれた。しかも、馬車や道中の世話役まで手配してくれた。
「……陛下は、何を考えているんだろ」
私の知るディナント陛下と今のディナント陛下を比較して、小さく呟く。
やることなすこと裏目に出て、自暴自棄となってしまったディナント陛下なら、理に適わない行動をしても不思議ではない。
だけど、今のディナント陛下は、まだそんな風になっていない。
まさか破れかぶれな精神で手配してくれた、ということはないだろう。バルフィット領に来られたことにちゃんとした理由があるのだとしたら、それはどういうものなのか。
「……陛下がどうかしたの?」
漏れ出た呟きが聞こえてしまったらしい。クレイグ殿下が静かな声で問いかけてきた。
「どうしてご同行の許可をいただけたのかと思いまして……」
私の知るディナント陛下と比較して疑問を抱きましたとは言えないので、ぼかしながら返すと、クレイグ殿下は不思議そうに首を傾げた。
「それって、気にするようなこと?」
「……共に勉強している仲とはいえ、一応は男女なわけですので……色々と、心配になるのではないかと……そう、思いまして……」
「俺たちの年齢なら気にしなくていいと思うけど」
その通りだけど、でも世の中にはお父様のような人もいるわけで――とは説明できないのが、もどかしい。
クレイグ殿下は私の家庭環境なんて知らないだろうし、知ったら、ハロルドと同じように私に同情するかもしれない。そう思うと、話す気にはなれなかった。
「勉学に勤しむ俺たちを応援してくれてるんだと、そう思えばいいよ」
そう言うクレイグ殿下の顔には柔らかな笑みが広がっている。
つまり親心、ということか。クレイグ殿下はディナント陛下の子ではないけど、ハロルドと年が近いから、子供のように思われていても不思議ではない。
クレイグ殿下に向けた愛情のついでに、私にも恩情を施してくださったのかもしれない。
「ディナント陛下には感謝しなければいけませんね」
領地に到着するまでの宿泊費なども用意してくれた。クレイグ殿下の分はもちろん、私の分も。
そして領地に滞在している間の費用も、ディナント陛下が持ってくれている。
私がしみじみ呟くとクレイグ殿下は口元をゆるめて少しふざけたように言った。
「俺には?」
「もちろんクレイグ殿下にも感謝しております」
ディナント陛下に頼んでくれたのはクレイグ殿下だ。ハロルドの婚約者選びから逃げられたことを含めても、感謝してもしきれない。
「俺も君には感謝しているよ」
優しく微笑むクレイグ殿下に、私は同じように微笑んで返した。
私のしたことは領地について学んではどうかと提案しただけだ。それでも、私を助けてくれた彼に報いることができたのなら、嬉しい。
翌日も、本当に穏やかな時間が流れた。子供の体力を考慮してか屋敷の近くしか見て回れなかったけど、それでも自然豊かな土地というものは、見ているだけで心が安らいだ。
屋敷に戻ってからは食事をとり、また私の部屋を訪れたクレイグ殿下と一緒に本を読んだ。クレイグ殿下が読んでいたのは書類だけど。
三日目も穏やかに過ごし、明日にはバルフィット領を出るのだと思うと少し寂しくなった。
本を読んでもなかなか頭に入らず、前に座るクレイグ殿下をぼんやりと見ていると、不意に彼が顔を上げた。
「君は、ハロルドの婚約者になりたくないんだよね」
「え、あ、はい。なんでしょうか」
唐突な話題に、一瞬反応が遅れる。
「君はハロルドの婚約者になりたくないんだよね?」
「え、まあ……私などでは、ハロルド殿下の横に並べるとは思っておりませんので……そうですね、なりたくは、ありません」
「なら、俺の婚約者になるのはどうかな?」
思いもよらない提案に息を呑む。
「それは、どういう、ことでしょうか? 私が、クレイグ殿下の?」
「言葉通りの意味だよ。すでに婚約者がいれば、ハロルドの婚約者になることはないからね」
それは、そうだろう。いくらなんでも婚約者がいる相手を王太子の婚約者に据えたりしない。
「それは、わかりますが……ですが……」
クレイグ殿下はハロルドの従兄だ。彼の婚約者になれば、否応なくハロルドと関わることになる。そしていつか、ハロルドの横に、セシリアが並ぶ姿を見ることになるだろう。
彼女をなんの障害もなく愛し慈しむハロルドを――私の得られなかった姿を見ると思うと、胸にくるものがある。
だけど勢いのまま断ることはできなかった。
「私が婚約者になるにあたって……クレイグ殿下に、どのような利があるのでしょうか」
クレイグ殿下がこんな提案を、意味もなくするとは思えない。まだ知り合ってそこまで経ってはいないけど、彼が聡明であることはわかっている。
だけど、いくら考えても、どんな意図があるのかわからない。
何も持たない私を婚約者に据えたとしても、得られるものはない。
私によくしてくれてはいるけど、愛情と呼べるものを私に抱いているとは思えない。そもそも、愛情を育むような要素はどこにもなかった。
「大きくなれば政略とかが絡んで、自分では婚約者を選べなくなるかもしれないからね。だから、今から決めておこうと思っただけだよ」
「それが、私である必要はあるのでしょうか」
「俺一人で統治するには、バルフィット領は広すぎる。だから、聡明な子をそばに置きたい……というのは理由にならないかな?」
思わず首を振る。
聡明、という言葉は私には当てはまらない。もしもそう見えているのだとしたら、それはこれまでの人生六回分で得た知識のおかげだ。それだって、失敗を繰り返して得たものばかり。
一回目では何度も躓いて、教師に呆れられることも多かった。二回目では一回目で学んだことでは躓かなかったけど、一回目では学ばなかったことを学ぶようになり、そこでもまた躓いた。
そして三回目では、一回目と二回目を合わせたものに加え、新たな知識を得た。
そうやって何度も繰り返したから聡明に見えるだけで、私はただの凡人だ。
「私は、他の人よりも得られる知識が多かったにすぎません」
「その年齢で得た知識を自分のものにできているのなら、十分だと思うよ」
それを言うなら、クレイグ殿下のほうが相当だ。私が何度も繰り返して学んだことを、すでに完全に理解している。
「私では、いつか物足りなくなるかと思います」
私が持っている知識は、十六歳の小娘が学べる範囲のものだけだ。
「俺はそうは思わないよ。……領地運営にまで気を回せる女性がこの国にどれだけいると思う? 家のことや貴族間でのことには気を回せても、夫の仕事にまで手を伸ばそうとする女性はそう多くはない。だけど、君は嫌な顔一つせず俺と一緒に学んでくれている……それだけで十分だよ」
貴族の妻は屋敷の管理や社交を主な職務としている。私が色々学んだのは、貴族の妻ではなく王の妻になるためだ。
夫の仕事に口を挟むのは、はしたないことと言われているけど、悩んでいる時にちょっとした助言をする程度のことは許されている。そして、王の悩みは貴族の比ではない。
だからどんな事態にも対応できるようにと、様々なことを学んだ。
「それに君にとっても悪い話ではないと思うけど……ハロルドの婚約者にならなくて済むし、バルフィット領は栄えているから、それなりに贅沢させてあげることもできるよ」
わかっている。私にとっては得しかない話だ。ハロルドのことを気にしなければ、の話だけど。
「それとも、俺が嫌なのかな?」
「いえ! そういうわけでは……ただ、畏れ多いお話ですので、本当にそれがクレイグ殿下のためになるのかと……私はただの、顔だけ公爵と呼ばれるような家の娘です。持参金も、多くは持たせてもらえないでしょう」
お父様の懐は寂しい。王太子妃にならない私にお金をかけてはくれないだろう。
そうなると、花嫁道具などをクレイグ殿下に頼らなくてはいけなくなる。みすぼらしい恰好で嫁げば、クレイグ殿下の品位が下がってしまう。
私がうろたえていると、クレイグ殿下が苦笑をこぼした。
「結婚する時のことまで考えてくれているのは嬉しいけど、まだまだ先のことだから、今はいいんじゃないかな? 君はハロルドの婚約者にならずに済んで、俺は領地について学ぶことに手を貸してくれる子と過ごせる。ひとまずは利害の一致、ということでどうかな?」
婚約は先のことまで考えるものだと思っていたけど、クレイグ殿下にとっては違うのだろうか。
そういえば、クレイグ殿下は私が知る限り婚約者がいたことはなかった。部屋にこもっていたから、というのもあると思うけど、彼の望むような相手がいなかったからかもしれない。
「それなら……わかりました。お父様に伝えてみます」
ハロルドとセシリアが並ぶのを見るのは心が痛むけど、クレイグ殿下と婚約すればハロルドの婚約者にならなくて済む。
それに、クレイグ殿下の役に立てるのなら、応えたいとも思う。
問題は、私程度の知識ではいずれ役に立てなくなることだ。物足りなくなったクレイグ殿下がどうするのかはわからない。
だけど、どう転ぶかわからないのは、市井に降りる道を選んでも同じことだ。
もしもクレイグ殿下の前に最良と思われる相手が現れたら、それはそれとして、改めて身の振り方を考えればいい。
「なら、俺も陛下に伝えておくね」
優しく微笑むクレイグ殿下に、私は頷いて返した。
だけど、どうやら遅かったようだ。
移動も含め、私は王都を一週間も離れていた。久しぶりに会ったお父様は、最近よく浮かべていたしかめ面を引っこめて、機嫌よく笑っていた。
「ただ今戻りました」
その笑顔に嫌な予感を抱きながらも、帰宅の挨拶をする。ドレスの裾をつまんで軽く腰を落とした私の頭上に、お父様の上機嫌な声が降ってきた。
「よくやった」
脈絡のない台詞に顔が引きつる。そんな私の様子などお構いなしに、お父様は勝ち誇った笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「お前がいない間に陛下からお茶会の招待状が届いた時はどうしたものかと思っていたが、さすがは私の娘だ。すでに殿下の心を射止めていたとはな」
今すぐにでも耳をふさいでこの場から逃げ出したい。だけど、逃げたところでどうにもならないことはわかっている。だからせめて、この嫌な予感が私の気のせいであればと願いながら、話の先を促す。
「……なんの、お話、でしょうか」
「殿下の婚約者候補にお前の名が挙がった」
予想していたとはいえ全身の血が引いていくような感覚に襲われたけど、お父様の口から紡がれた婚約者候補という言葉に、必死に頭を動かす。
候補ということは、まだ婚約者ではないということだ。ならばまだ、回避する術はあるはずだ。
「本決まりではないが、きっと選ばれることだろう」
「お、お父様……あの、私は……クレイグ殿下に婚約者にならないかと、そうおっしゃっていただきました」
私の言葉にお父様の眉間に皺が寄った。
クレイグ殿下は王家の血を引いていて、バルフィット領は豊かな土地だ。彼の婚約者になるのは悪い話ではない。
ハロルドの婚約者になれるかもしれないという話がなければ、だけど。
「王太子妃と公爵夫人、どちらがよいか……私の娘ならばわかっているだろう?」
笑顔が引っこみ、射貫くように睨みつけられる。どちらがよいかというのは、私にとってではなく、この家――ひいてはお父様にとって、という意味だろう。
だけど、たとえハロルドの婚約者になれたとしても、私が王太子妃になることはない。
「……私は、クレイグ殿下の婚約者になりたいです」
私の言葉に父がぴくりと眉を跳ねさせる。私はスカートの裾を握りしめた。
◇ ◇ ◇
ディナント陛下、ハロルド殿下がお見えです、という侍従の声で入り口に佇む息子を招く。
「誰か気に入ったかい?」
柔らかな口調を意識しながら、自分の息子ハロルドに語りかけた。
未来の王妃を六歳で決めるのは早すぎると言う者もいるが、心を預けられない相手を隣に置くよりは、早々に気に入った相手を見つけ、結ばせるのがこの子のためになるだろうと思ってのことだ。
王太子妃として必要な知識は、早いうちに教えこめばいい。そう考えて、王妃である妻と相談した結果、年の近い令嬢を集めた茶会を開いた。二度もだ。
だがハロルドはそのどちらも浮かない顔をしていた。
空振りに終わったかと肩を落とし、次の茶会はいつにしようかと思考を切り替えかけた頃、ハロルドが「父上」と私を呼んだ。
「……あの、相手は誰でもいいのでしょうか?」
遠慮がちに目を伏せているハロルドに、頷いて返す。
「支えとなってくれそうなら相手なら、誰でも構わないよ」
大切なのは、責務から離れたところで心穏やかでいられることだ。外でも中でも安らぐことができないと、次第に疲弊し、倒れてしまう。
心預けられる相手と共に歩むのが、一番いい。
「それなら、僕は……クラリス・リンデルフィル……。彼女が、いいです」
そう思っていたがハロルドが挙げた名に、頬が引きつった。
その名は、最近になって何度も耳にしたものだ。だがその名を口にしていたのは、ハロルドではなく、私の甥であるクレイグだった。
「あそこの家は……あまり、権力を持つには、ふさわしくないんじゃないかな」
クレイグと親しいから彼女を婚約者にするのは難しい、と率直に告げると、ハロルドの心に傷を負わせてしまうかもしれない。
できる限り、ハロルドとクレイグには穏便な関係でいてほしい。そうするためには、それらしい理由を作り上げるべきだろう。
そもそもリンデルフィル家は公爵という高い地位を得ておきながら、くすぶり続けている。その理由は、あの家には美貌以外には何もないから――ではない。
人目を惹く美貌というものは、それだけで一種の才能だ。国の要職に就き頭角を現すようなことがあれば、王女の血を引いていることもあり、たちまち人心を集めてしまうだろう。そうなれば、国を揺るがしかねない。
ゆえに、あの家はどのような才能を持っていようと元の子爵領のみを治めることとされていた。建国当初から仕え続けている家に配慮した結果でもある。
私としては、もったいない話だと思っていた。もしも美貌以外に秀でた才能を持っている者がいた場合、活用しないのは、損にしかならない。
もしもクレイグと親しい娘でなければ、問題ないと判断してハロルドの婚約者に推していただろう。公爵となって何代も経っているし、ハロルドが望むのならと考えたはずだ。
「どうしてでしょうか?」
首を傾げるハロルドに、どう答えたものかと頭を悩ませる。
「あそこの家は、顔はいいが……他国や貴族に対して影響力があるわけではない。王太子妃に据えたところで、お前のためにならないのではないだろうかと、そう思うわけで……」
「でも、誰でもいいって」
数分前の自分を恨みたくなる。一度目では名前が挙がらなかったので、二度目の茶会に招待した誰かを見初めたのだろうと軽く考えていたのが、仇となった。
「あら、よいではありませんか。ハロルドが見初めた相手ですもの、きっとよい妻になってくれるのではないでしょうか?」
妻の言葉に、私は頭を抱えそうになる。
件の令嬢がクレイグと領地に行っていることは、妻には教えていない。
クレイグと妻はどうにも折り合いが悪く、なるべく話題に上らせないようにと努めたのが、これまた仇となった。
「ううん……だけど、婚約者としてすぐ決めるのは早計すぎると思うから……」
私がハロルドよりもクレイグを優先していると思われると、妻まで躍起になってハロルドと婚約を結ばせようとするかもしれない。
王太子はハロルドだというのに、いまだに私がクレイグのことを半ば息子のように扱っていることを嫌がっているのだから、困ったものだ。
「……ひとまずは、候補、ということでどうだろうか」
クレイグと件の令嬢の間にあるのが友情だけならば、ハロルドの婚約者とするのも問題ないだろう。
つまり、先送りだ。
「わかりました。では、それでお願いします」
納得したように頷くハロルドの頭をなでる。
こういう時、兄が生きていてくれればと思わずにはいられない。どうせ兄が王になるのだからと高を括って遊び歩いていた自分が恨めしくなる。
私は、王の器ではない。それなのに、他に候補がいないからと玉座に押し上げられた、その程度の男にすぎない。
どうしてもこういった――情などの繊細な問題には、頭を抱えてばかりだ。
◇ ◇ ◇
私がハロルドの婚約者候補になったと教えられてから、二週間が過ぎた。
結局、私の訴えはなかったものにされ、お父様には何を言っても無駄だと実感させられただけで終わった。
幸い、六回目までのように生活が一変するということはなかった。
これまでは婚約が成立するとすぐに、城での勉強が始まっていたけど、そういうこともなかった。
クレイグ殿下と領地について学ぶために城を訪れはするものの、それ以外では候補になる前と同じように、ほとんどの時間を家で過ごしている。
これなら、いつでも逃げる隙があるはずだ。そう、何度も自分に言い聞かせた。
候補とはいえ、ハロルドの婚約者になってしまったことに――覆せない運命を感じて怯えながら。
「大丈夫?」
はっと我に返る。こちらを覗きこむように首を傾げているクレイグ殿下に気づき、今は王城の彼の部屋で一緒に勉強している最中だと思い出して、慌てて笑みを作る。
「はい、大丈夫です」
婚約者候補になったわけだけど、クレイグ殿下との勉強をやめるようには言われなかった。これまでは――ハロルドの正式な婚約者だった時には、他の異性と親しくならないように言われていたのに。
これが、正式な婚約者と婚約者候補の違いなのかもしれない。
「顔色が悪いけど……体調がよくないなら、今日はこのあたりでやめておこうか?」
「いえ、問題ありません。お気遣い感謝いたします」
婚約者候補になる前と比べて、変わったことといえば、クレイグ殿下と完全に二人きりになることがなくなったということだ。
前まではクレイグ殿下と勉強する時、室内には私とクレイグ殿下しかいなかった。だけど今は侍女が控えている。
クレイグ殿下に婚約の話が駄目になったことを謝りたいが、口にすることはできない。
この場に我が家に仕えている侍女しかいないなら話していたかもしれないけど、城勤めの侍女の前では憚られる。
そしてクレイグ殿下も、領地から戻ってきてからは、私との婚約について何も言わなかった。
ハロルドの婚約者候補になった私に婚約を申し込んだと知られれば、クレイグ殿下の立場が悪くなるかもしれない。わざわざそんな危険を冒す必要はない。だから私も、彼に謝れずにいる。
少しだけ気分が沈んでいると、ノックの音が聞こえた。
客が来る用事でもあったのだろうかとクレイグ殿下を見る。彼は眉をひそめながら、脇に立つ侍女に扉を開けるように指示を出していた。
すると別の侍女が室内に入り一礼し、用件を口にした。
「ハロルド殿下がクラリス様との茶会を望んでおられます」
その内容に、どうしたものかと逡巡する。
婚約者候補になってからずっと、ハロルドと会うのを避けてきた。家に届いた招待状は、仮病を使って押し切った。
「あ、ああ、うん。いいよ、気にしないで」
「寛容なお言葉、感謝いたします。こちらに滞在されている間は何不自由なくお過ごしいただけるよう手配いたしますので、不便に感じることがあればいつでもお申し付けください」
丁寧な口調と、幼いクレイグ殿下に対してしっかり敬意を払っている様子を見ると、いつか裏切るようには見えない。ものすごく怪しい恰好はしているけど。
もしかしたら、何かしら事情があって、悪事を働いてしまうのかもしれない。恰好と振る舞いのちぐはぐさに、思わずそんな考えを抱いてしまう。
「こちらに滞在されるのは三日と聞いておりますので、明日から視察をしていただけるように手配しております。本日は旅の疲れを癒やすためにも、どうぞごゆっくりお過ごしください」
一通りの挨拶を終えた後、アーロンと名乗った彼はそう言って、私たちを客間に案内するように執事に指示を出した。
だけどクレイグ殿下は領地についてアーロンと話すことがあるそうで、私だけが客間に向かうことになった。
案内された客間は、とても広い部屋だった。大きな机や長椅子だけでなく、文机や本棚も置いてある。廊下に通じる扉とは別のところにも扉があるので、そちらが寝室なのかもしれない。
そして本棚にはぎっしりと本が収められている。ざっと背表紙を見ただけでも、私の知らない本がいくつもあった。
その中の一つを長椅子に座って読んでいると、ノックの後にクレイグ殿下が部屋に入ってきた。
「これからどうしようか?」
クレイグ殿下の腕は、分厚い書類を抱えている。おそらく、領地について記されているものだろう。間違っても、他領の人間である私が目を通してはいけないものだ。
「私はこちらにある本を読んでおりますので、どうぞお気遣いなく」
だから気兼ねなく書類に目を通してください、と言外にこめる。
「屋敷内を散策することもできるから、飽きたらいつでも言ってね」
クレイグ殿下は穏やかな笑みを浮かべながら、私の向かいに腰を下ろした。間違っても目を通してはいけないはずの書類が無造作に机の上に置かれる。
さすがに同室ということはないだろうから、クレイグ殿下にはクレイグ殿下の部屋が用意されているはずだ。そちらで読んだほうが安全なのに、どうしてここに留まっているのだろうか。
そんなことを考えている間にも、クレイグ殿下は書類をどんどん読みこんでいる。真剣な顔をしているので、声をかけてはいけないような気がして、私も本に視線を落とした。
書類をめくる音と、本をめくる音。たまに二言三言交わす程度の、穏やかな時間が流れていく。
「それにしても……本当に、私も一緒に来られるとは思ってもいませんでした」
ふとそんなことを考え、口にも出してしまった。
クレイグ殿下が私の声に顔を上げ、首を傾げた。
「君から提案したのに?」
確かに提案したのは私だけど、駄目で元々、藁にも縋る一心だった。
だからこんな、心が安らぐような穏やかな時間を過ごせるなんて、思ってもいなかった。
「許可をいただけるかわかりませんでしたから……」
クレイグ殿下は八歳で私は六歳だけど、それでも一応、男女ではある。そういう関係に思われるのではと危ぶむのは少々考えすぎかもしれないが、六歳の私にハロルドをたらしこんでくるようにと指示を出す、お父様のような人も、世の中にはいる。
正直に言えば、許可が下りない可能性のほうが高いと思っていた。
それなのに、ディナント陛下は私に同伴する許可を出してくれた。しかも、馬車や道中の世話役まで手配してくれた。
「……陛下は、何を考えているんだろ」
私の知るディナント陛下と今のディナント陛下を比較して、小さく呟く。
やることなすこと裏目に出て、自暴自棄となってしまったディナント陛下なら、理に適わない行動をしても不思議ではない。
だけど、今のディナント陛下は、まだそんな風になっていない。
まさか破れかぶれな精神で手配してくれた、ということはないだろう。バルフィット領に来られたことにちゃんとした理由があるのだとしたら、それはどういうものなのか。
「……陛下がどうかしたの?」
漏れ出た呟きが聞こえてしまったらしい。クレイグ殿下が静かな声で問いかけてきた。
「どうしてご同行の許可をいただけたのかと思いまして……」
私の知るディナント陛下と比較して疑問を抱きましたとは言えないので、ぼかしながら返すと、クレイグ殿下は不思議そうに首を傾げた。
「それって、気にするようなこと?」
「……共に勉強している仲とはいえ、一応は男女なわけですので……色々と、心配になるのではないかと……そう、思いまして……」
「俺たちの年齢なら気にしなくていいと思うけど」
その通りだけど、でも世の中にはお父様のような人もいるわけで――とは説明できないのが、もどかしい。
クレイグ殿下は私の家庭環境なんて知らないだろうし、知ったら、ハロルドと同じように私に同情するかもしれない。そう思うと、話す気にはなれなかった。
「勉学に勤しむ俺たちを応援してくれてるんだと、そう思えばいいよ」
そう言うクレイグ殿下の顔には柔らかな笑みが広がっている。
つまり親心、ということか。クレイグ殿下はディナント陛下の子ではないけど、ハロルドと年が近いから、子供のように思われていても不思議ではない。
クレイグ殿下に向けた愛情のついでに、私にも恩情を施してくださったのかもしれない。
「ディナント陛下には感謝しなければいけませんね」
領地に到着するまでの宿泊費なども用意してくれた。クレイグ殿下の分はもちろん、私の分も。
そして領地に滞在している間の費用も、ディナント陛下が持ってくれている。
私がしみじみ呟くとクレイグ殿下は口元をゆるめて少しふざけたように言った。
「俺には?」
「もちろんクレイグ殿下にも感謝しております」
ディナント陛下に頼んでくれたのはクレイグ殿下だ。ハロルドの婚約者選びから逃げられたことを含めても、感謝してもしきれない。
「俺も君には感謝しているよ」
優しく微笑むクレイグ殿下に、私は同じように微笑んで返した。
私のしたことは領地について学んではどうかと提案しただけだ。それでも、私を助けてくれた彼に報いることができたのなら、嬉しい。
翌日も、本当に穏やかな時間が流れた。子供の体力を考慮してか屋敷の近くしか見て回れなかったけど、それでも自然豊かな土地というものは、見ているだけで心が安らいだ。
屋敷に戻ってからは食事をとり、また私の部屋を訪れたクレイグ殿下と一緒に本を読んだ。クレイグ殿下が読んでいたのは書類だけど。
三日目も穏やかに過ごし、明日にはバルフィット領を出るのだと思うと少し寂しくなった。
本を読んでもなかなか頭に入らず、前に座るクレイグ殿下をぼんやりと見ていると、不意に彼が顔を上げた。
「君は、ハロルドの婚約者になりたくないんだよね」
「え、あ、はい。なんでしょうか」
唐突な話題に、一瞬反応が遅れる。
「君はハロルドの婚約者になりたくないんだよね?」
「え、まあ……私などでは、ハロルド殿下の横に並べるとは思っておりませんので……そうですね、なりたくは、ありません」
「なら、俺の婚約者になるのはどうかな?」
思いもよらない提案に息を呑む。
「それは、どういう、ことでしょうか? 私が、クレイグ殿下の?」
「言葉通りの意味だよ。すでに婚約者がいれば、ハロルドの婚約者になることはないからね」
それは、そうだろう。いくらなんでも婚約者がいる相手を王太子の婚約者に据えたりしない。
「それは、わかりますが……ですが……」
クレイグ殿下はハロルドの従兄だ。彼の婚約者になれば、否応なくハロルドと関わることになる。そしていつか、ハロルドの横に、セシリアが並ぶ姿を見ることになるだろう。
彼女をなんの障害もなく愛し慈しむハロルドを――私の得られなかった姿を見ると思うと、胸にくるものがある。
だけど勢いのまま断ることはできなかった。
「私が婚約者になるにあたって……クレイグ殿下に、どのような利があるのでしょうか」
クレイグ殿下がこんな提案を、意味もなくするとは思えない。まだ知り合ってそこまで経ってはいないけど、彼が聡明であることはわかっている。
だけど、いくら考えても、どんな意図があるのかわからない。
何も持たない私を婚約者に据えたとしても、得られるものはない。
私によくしてくれてはいるけど、愛情と呼べるものを私に抱いているとは思えない。そもそも、愛情を育むような要素はどこにもなかった。
「大きくなれば政略とかが絡んで、自分では婚約者を選べなくなるかもしれないからね。だから、今から決めておこうと思っただけだよ」
「それが、私である必要はあるのでしょうか」
「俺一人で統治するには、バルフィット領は広すぎる。だから、聡明な子をそばに置きたい……というのは理由にならないかな?」
思わず首を振る。
聡明、という言葉は私には当てはまらない。もしもそう見えているのだとしたら、それはこれまでの人生六回分で得た知識のおかげだ。それだって、失敗を繰り返して得たものばかり。
一回目では何度も躓いて、教師に呆れられることも多かった。二回目では一回目で学んだことでは躓かなかったけど、一回目では学ばなかったことを学ぶようになり、そこでもまた躓いた。
そして三回目では、一回目と二回目を合わせたものに加え、新たな知識を得た。
そうやって何度も繰り返したから聡明に見えるだけで、私はただの凡人だ。
「私は、他の人よりも得られる知識が多かったにすぎません」
「その年齢で得た知識を自分のものにできているのなら、十分だと思うよ」
それを言うなら、クレイグ殿下のほうが相当だ。私が何度も繰り返して学んだことを、すでに完全に理解している。
「私では、いつか物足りなくなるかと思います」
私が持っている知識は、十六歳の小娘が学べる範囲のものだけだ。
「俺はそうは思わないよ。……領地運営にまで気を回せる女性がこの国にどれだけいると思う? 家のことや貴族間でのことには気を回せても、夫の仕事にまで手を伸ばそうとする女性はそう多くはない。だけど、君は嫌な顔一つせず俺と一緒に学んでくれている……それだけで十分だよ」
貴族の妻は屋敷の管理や社交を主な職務としている。私が色々学んだのは、貴族の妻ではなく王の妻になるためだ。
夫の仕事に口を挟むのは、はしたないことと言われているけど、悩んでいる時にちょっとした助言をする程度のことは許されている。そして、王の悩みは貴族の比ではない。
だからどんな事態にも対応できるようにと、様々なことを学んだ。
「それに君にとっても悪い話ではないと思うけど……ハロルドの婚約者にならなくて済むし、バルフィット領は栄えているから、それなりに贅沢させてあげることもできるよ」
わかっている。私にとっては得しかない話だ。ハロルドのことを気にしなければ、の話だけど。
「それとも、俺が嫌なのかな?」
「いえ! そういうわけでは……ただ、畏れ多いお話ですので、本当にそれがクレイグ殿下のためになるのかと……私はただの、顔だけ公爵と呼ばれるような家の娘です。持参金も、多くは持たせてもらえないでしょう」
お父様の懐は寂しい。王太子妃にならない私にお金をかけてはくれないだろう。
そうなると、花嫁道具などをクレイグ殿下に頼らなくてはいけなくなる。みすぼらしい恰好で嫁げば、クレイグ殿下の品位が下がってしまう。
私がうろたえていると、クレイグ殿下が苦笑をこぼした。
「結婚する時のことまで考えてくれているのは嬉しいけど、まだまだ先のことだから、今はいいんじゃないかな? 君はハロルドの婚約者にならずに済んで、俺は領地について学ぶことに手を貸してくれる子と過ごせる。ひとまずは利害の一致、ということでどうかな?」
婚約は先のことまで考えるものだと思っていたけど、クレイグ殿下にとっては違うのだろうか。
そういえば、クレイグ殿下は私が知る限り婚約者がいたことはなかった。部屋にこもっていたから、というのもあると思うけど、彼の望むような相手がいなかったからかもしれない。
「それなら……わかりました。お父様に伝えてみます」
ハロルドとセシリアが並ぶのを見るのは心が痛むけど、クレイグ殿下と婚約すればハロルドの婚約者にならなくて済む。
それに、クレイグ殿下の役に立てるのなら、応えたいとも思う。
問題は、私程度の知識ではいずれ役に立てなくなることだ。物足りなくなったクレイグ殿下がどうするのかはわからない。
だけど、どう転ぶかわからないのは、市井に降りる道を選んでも同じことだ。
もしもクレイグ殿下の前に最良と思われる相手が現れたら、それはそれとして、改めて身の振り方を考えればいい。
「なら、俺も陛下に伝えておくね」
優しく微笑むクレイグ殿下に、私は頷いて返した。
だけど、どうやら遅かったようだ。
移動も含め、私は王都を一週間も離れていた。久しぶりに会ったお父様は、最近よく浮かべていたしかめ面を引っこめて、機嫌よく笑っていた。
「ただ今戻りました」
その笑顔に嫌な予感を抱きながらも、帰宅の挨拶をする。ドレスの裾をつまんで軽く腰を落とした私の頭上に、お父様の上機嫌な声が降ってきた。
「よくやった」
脈絡のない台詞に顔が引きつる。そんな私の様子などお構いなしに、お父様は勝ち誇った笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「お前がいない間に陛下からお茶会の招待状が届いた時はどうしたものかと思っていたが、さすがは私の娘だ。すでに殿下の心を射止めていたとはな」
今すぐにでも耳をふさいでこの場から逃げ出したい。だけど、逃げたところでどうにもならないことはわかっている。だからせめて、この嫌な予感が私の気のせいであればと願いながら、話の先を促す。
「……なんの、お話、でしょうか」
「殿下の婚約者候補にお前の名が挙がった」
予想していたとはいえ全身の血が引いていくような感覚に襲われたけど、お父様の口から紡がれた婚約者候補という言葉に、必死に頭を動かす。
候補ということは、まだ婚約者ではないということだ。ならばまだ、回避する術はあるはずだ。
「本決まりではないが、きっと選ばれることだろう」
「お、お父様……あの、私は……クレイグ殿下に婚約者にならないかと、そうおっしゃっていただきました」
私の言葉にお父様の眉間に皺が寄った。
クレイグ殿下は王家の血を引いていて、バルフィット領は豊かな土地だ。彼の婚約者になるのは悪い話ではない。
ハロルドの婚約者になれるかもしれないという話がなければ、だけど。
「王太子妃と公爵夫人、どちらがよいか……私の娘ならばわかっているだろう?」
笑顔が引っこみ、射貫くように睨みつけられる。どちらがよいかというのは、私にとってではなく、この家――ひいてはお父様にとって、という意味だろう。
だけど、たとえハロルドの婚約者になれたとしても、私が王太子妃になることはない。
「……私は、クレイグ殿下の婚約者になりたいです」
私の言葉に父がぴくりと眉を跳ねさせる。私はスカートの裾を握りしめた。
◇ ◇ ◇
ディナント陛下、ハロルド殿下がお見えです、という侍従の声で入り口に佇む息子を招く。
「誰か気に入ったかい?」
柔らかな口調を意識しながら、自分の息子ハロルドに語りかけた。
未来の王妃を六歳で決めるのは早すぎると言う者もいるが、心を預けられない相手を隣に置くよりは、早々に気に入った相手を見つけ、結ばせるのがこの子のためになるだろうと思ってのことだ。
王太子妃として必要な知識は、早いうちに教えこめばいい。そう考えて、王妃である妻と相談した結果、年の近い令嬢を集めた茶会を開いた。二度もだ。
だがハロルドはそのどちらも浮かない顔をしていた。
空振りに終わったかと肩を落とし、次の茶会はいつにしようかと思考を切り替えかけた頃、ハロルドが「父上」と私を呼んだ。
「……あの、相手は誰でもいいのでしょうか?」
遠慮がちに目を伏せているハロルドに、頷いて返す。
「支えとなってくれそうなら相手なら、誰でも構わないよ」
大切なのは、責務から離れたところで心穏やかでいられることだ。外でも中でも安らぐことができないと、次第に疲弊し、倒れてしまう。
心預けられる相手と共に歩むのが、一番いい。
「それなら、僕は……クラリス・リンデルフィル……。彼女が、いいです」
そう思っていたがハロルドが挙げた名に、頬が引きつった。
その名は、最近になって何度も耳にしたものだ。だがその名を口にしていたのは、ハロルドではなく、私の甥であるクレイグだった。
「あそこの家は……あまり、権力を持つには、ふさわしくないんじゃないかな」
クレイグと親しいから彼女を婚約者にするのは難しい、と率直に告げると、ハロルドの心に傷を負わせてしまうかもしれない。
できる限り、ハロルドとクレイグには穏便な関係でいてほしい。そうするためには、それらしい理由を作り上げるべきだろう。
そもそもリンデルフィル家は公爵という高い地位を得ておきながら、くすぶり続けている。その理由は、あの家には美貌以外には何もないから――ではない。
人目を惹く美貌というものは、それだけで一種の才能だ。国の要職に就き頭角を現すようなことがあれば、王女の血を引いていることもあり、たちまち人心を集めてしまうだろう。そうなれば、国を揺るがしかねない。
ゆえに、あの家はどのような才能を持っていようと元の子爵領のみを治めることとされていた。建国当初から仕え続けている家に配慮した結果でもある。
私としては、もったいない話だと思っていた。もしも美貌以外に秀でた才能を持っている者がいた場合、活用しないのは、損にしかならない。
もしもクレイグと親しい娘でなければ、問題ないと判断してハロルドの婚約者に推していただろう。公爵となって何代も経っているし、ハロルドが望むのならと考えたはずだ。
「どうしてでしょうか?」
首を傾げるハロルドに、どう答えたものかと頭を悩ませる。
「あそこの家は、顔はいいが……他国や貴族に対して影響力があるわけではない。王太子妃に据えたところで、お前のためにならないのではないだろうかと、そう思うわけで……」
「でも、誰でもいいって」
数分前の自分を恨みたくなる。一度目では名前が挙がらなかったので、二度目の茶会に招待した誰かを見初めたのだろうと軽く考えていたのが、仇となった。
「あら、よいではありませんか。ハロルドが見初めた相手ですもの、きっとよい妻になってくれるのではないでしょうか?」
妻の言葉に、私は頭を抱えそうになる。
件の令嬢がクレイグと領地に行っていることは、妻には教えていない。
クレイグと妻はどうにも折り合いが悪く、なるべく話題に上らせないようにと努めたのが、これまた仇となった。
「ううん……だけど、婚約者としてすぐ決めるのは早計すぎると思うから……」
私がハロルドよりもクレイグを優先していると思われると、妻まで躍起になってハロルドと婚約を結ばせようとするかもしれない。
王太子はハロルドだというのに、いまだに私がクレイグのことを半ば息子のように扱っていることを嫌がっているのだから、困ったものだ。
「……ひとまずは、候補、ということでどうだろうか」
クレイグと件の令嬢の間にあるのが友情だけならば、ハロルドの婚約者とするのも問題ないだろう。
つまり、先送りだ。
「わかりました。では、それでお願いします」
納得したように頷くハロルドの頭をなでる。
こういう時、兄が生きていてくれればと思わずにはいられない。どうせ兄が王になるのだからと高を括って遊び歩いていた自分が恨めしくなる。
私は、王の器ではない。それなのに、他に候補がいないからと玉座に押し上げられた、その程度の男にすぎない。
どうしてもこういった――情などの繊細な問題には、頭を抱えてばかりだ。
◇ ◇ ◇
私がハロルドの婚約者候補になったと教えられてから、二週間が過ぎた。
結局、私の訴えはなかったものにされ、お父様には何を言っても無駄だと実感させられただけで終わった。
幸い、六回目までのように生活が一変するということはなかった。
これまでは婚約が成立するとすぐに、城での勉強が始まっていたけど、そういうこともなかった。
クレイグ殿下と領地について学ぶために城を訪れはするものの、それ以外では候補になる前と同じように、ほとんどの時間を家で過ごしている。
これなら、いつでも逃げる隙があるはずだ。そう、何度も自分に言い聞かせた。
候補とはいえ、ハロルドの婚約者になってしまったことに――覆せない運命を感じて怯えながら。
「大丈夫?」
はっと我に返る。こちらを覗きこむように首を傾げているクレイグ殿下に気づき、今は王城の彼の部屋で一緒に勉強している最中だと思い出して、慌てて笑みを作る。
「はい、大丈夫です」
婚約者候補になったわけだけど、クレイグ殿下との勉強をやめるようには言われなかった。これまでは――ハロルドの正式な婚約者だった時には、他の異性と親しくならないように言われていたのに。
これが、正式な婚約者と婚約者候補の違いなのかもしれない。
「顔色が悪いけど……体調がよくないなら、今日はこのあたりでやめておこうか?」
「いえ、問題ありません。お気遣い感謝いたします」
婚約者候補になる前と比べて、変わったことといえば、クレイグ殿下と完全に二人きりになることがなくなったということだ。
前まではクレイグ殿下と勉強する時、室内には私とクレイグ殿下しかいなかった。だけど今は侍女が控えている。
クレイグ殿下に婚約の話が駄目になったことを謝りたいが、口にすることはできない。
この場に我が家に仕えている侍女しかいないなら話していたかもしれないけど、城勤めの侍女の前では憚られる。
そしてクレイグ殿下も、領地から戻ってきてからは、私との婚約について何も言わなかった。
ハロルドの婚約者候補になった私に婚約を申し込んだと知られれば、クレイグ殿下の立場が悪くなるかもしれない。わざわざそんな危険を冒す必要はない。だから私も、彼に謝れずにいる。
少しだけ気分が沈んでいると、ノックの音が聞こえた。
客が来る用事でもあったのだろうかとクレイグ殿下を見る。彼は眉をひそめながら、脇に立つ侍女に扉を開けるように指示を出していた。
すると別の侍女が室内に入り一礼し、用件を口にした。
「ハロルド殿下がクラリス様との茶会を望んでおられます」
その内容に、どうしたものかと逡巡する。
婚約者候補になってからずっと、ハロルドと会うのを避けてきた。家に届いた招待状は、仮病を使って押し切った。
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