砂色のステラ

水城ひさぎ

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楽園編

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***


 レオナはひどい頭痛を覚えて目を覚ました。湿った風がほおをなで、かすかに水の匂いがする。鳥のさえずり、さざ波の音……。それがどこか遠くに感じられるのは、まだ意識がはっきりしていないからだろうか。

 幾度かまばたきをしたあと、青みがかった空にようやく意識が向いた。雲はほとんどなく、穏やかに澄んでいる。視線を動かすと、朝日が反射してきらめく水面が視界に入る。ここは湖のほとりだろうか。

 背中にはゴツゴツとした固いものがあたっている。どうやら、大きな木の根元に横たえているようだ。レオナは身体を起こそうとして、自身の腰に巻きつく縄に気づいた。

「これは……」
「やっと覚めたか、レオナ妃殿下」

 男の声が頭上から降ってくる。その聞き覚えのある不気味な声に危険を感じて身をよじると、バルターが目の前にかがみ込んでくる。豪奢な黒衣に身を包む彼の黒い瞳は、冷たい光を宿してこちらを見ている。

「よく眠れたか?」

 バルターがあざけるように笑いながら、じりじりと距離を詰めてくる。レオナは反射的に後ずさった。しかし、腰に巻かれた縄がピンと張り、身体が引き止められる。はっとして縄の先をたどると、それはバルターの左手に握られていた。冷たい絶望が胸を締めつける。

「逃げられると思うな」
「わ……私をどうするおつもりですか」

 バルターは薄く笑うと、湖にある奥の茂みを指さした。

「はるか先に、楽園ユーラスがある。おまえには、そこで大事な役目を果たしてもらう」
「楽園……」

 レオナの背筋に冷たいものが走る。ずっと行きたいと願っていた楽園だ。そこへ行けるというのは喜ぶべきことなのに、まったくそうは思えない。

「何をしに……行くのですか?」

 バルターはにやりと笑う。答える気はないのだ。そう思った瞬間、バルターが縄をきつく引いた。身体に力が入り、きゅっと唇を引き結ぶが、何の抵抗にもならない。彼は軽々とレオナを黒毛の馬に放るように乗せると、自身も飛び乗る。

「楽園へ行くには、ステラの門を通らなければならない」
「ステラの門……ですか?」

 その名がバルターの口から出てくるとは思わず、レオナは驚いた。ステラ史に記されていた門は、本当にあるのだ。

「そなたは知らぬか? リーヴァより南の湖にあるその門は、楽園近くの泉に通ずると言われている」

 レオナは目の前に広がる湖へと目を移す。

「ここにはないのですね」
「ああ。ステラサンクタがリーヴァを訪れなくなって15年。あれらが通ってきた道は荒れている。手探りで進み、次なる湖が見つかるまでひたすら南下するしかない」

 ステラ史に湖のことは書かれていただろうか。よく思い出せない。本はレイヴンに渡してしまった。あの本があれば、詳しいことがわかるかもしれないのにともどかしい気持ちになる。

 レオナが黙り込むと、バルターは手綱を引いた。

「門さえ見つかれば、兄上も追ってはこれまい。急ぐぞ」
「セリオス様……」

 レオナは振り返る。バルターの腕越しに見えるのは、どこまでも続く森だけだった。リーヴァの街並みさえ見えない。

 セリオスは今ごろ、どうしているだろう。怒りを抑える彼は、恐ろしい形相をしていた。一人になるなと言われていたのに、レイヴンに嘘をついて部屋を抜け出した。こんなことになるとは思わなかったと謝罪したくても、すでに愛想を尽かされ、二度と会えないかもしれない。

 ならばいっそ、このまま楽園へ行き、もう戻らなくてもいいだろうか。気弱になっていると、バルターが舌打ちする。

「何か……ありましたか?」

 バルターは後方を見ていた。レオナも身を乗り出してみるが、やはり、森の景色が続いているだけだった。

「……いや。冬が明けたばかりだというのに、やけに雑草が茂っているな」

 バルターが何かごまかした気がした。しかし、彼の言う通り、踏み固められた道にはかぶさるように雑草が生えている。バルターの馬は大きく、よく鍛えられている。倒木すらものともせずに進んでいくが、いつまで続くかわからない道を進むのは危険でもあった。舌打ちしたくなるのもわからないでもなかった。

「グレイシル領は温暖な土地と聞きます。だからでしょうか」
「かもしれないな」

 バルターは素っ気なく言うと、さらにスピードをあげた。

 半日ほど馬を走らせる間、小さな泉をいくつも見かけた。しかし、湖と呼べる大きなものは見つからなかった。途中の泉でパンを食べたが、疲労でうまく食べられなかった。バルターはあきれたが、つないでいた縄をほどいてくれた。少し横になっていると身体が楽になり、ふたたび、馬に乗って次の泉についたときには、夕陽が沈もうとしていた。

「明日には見つかるはずだ。ひ弱なステラサンクタが何日もこの森を旅するはずがないからな」

 バルターはいらだっていたが、レオナに馬のそばで眠るように言い、「死なれては困る」とマントを放り投げてきた。レオナはナイトドレスとローブしか着ていなかったことに気づき、土で汚れた足を恥ずかしげにローブの中へ引っ込めた。

「洗いたければ、行ってこい」
「いいのですか?」
「いちいち聞くな」

 バルターはうっとうしげに言うと、地面の上へ横になり、背を向けた。レオナはすぐに泉に駆け寄った。月明かりできらめく澄んだ水に手を入れ、顔を洗うと、次は足を入れた。水は冷たかったが、汚れが取れると心が落ち着いた。マントの裏地が柔らかく、こっそり足をぬぐっていると、視界の片隅に何かが動くのが見えた。

 レオナはびくりと身体を震わせつつ、目をこらした。少し離れた場所にある大木から、白い手が伸びている。それはまるで、レオナを招くようにゆらゆらと揺らぐ。あまりの恐ろしさにバルターのもとへ駆け戻ろうとしたとき、大木の影から金色の髪が現れた。

 レオナは叫びそうになるのをこらえて、あわてて両手で口をふさぐ。ひょっこりと顔を出したのは、レイヴンだった。
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