何万回囁いても

水城ひさぎ

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彼の瞳に映るもの

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「結衣っ」

 名前を呼ばれた私は、驚いて足をとめた。目の前から一人の青年が駆けてくる。

 どうして佑樹がここにいるのだろう。一瞬で頭が真っ白になる。

「結衣」

 佑樹はもう一度私の名を呼び、両腕を伸ばして、私の存在を確かめるように抱きしめてきた。

 ふわっと、懐かしい香りがする。佑樹の香り。たった二週間会わなかっただけなのに、どうしてこんなに懐かしいなんて思うのだろう。

「結衣……」

 私の名前を何度も呼ぶ佑樹は、私を包み込む腕に力を込める。

 私も佑樹を抱きしめたい。そう思う気持ちを押し殺して、佑樹の胸を押す。佑樹に愛されてるなんて思っちゃいけない。

「こんな所じゃ、いやだよね」

 佑樹から離れる私に、彼は辺りを見回して恥じるように言う。

 会社を出たばかりだったから、同じ会社に勤務する従業員にじろじろ見られてる。

 佑樹は何度も迎えに来てくれたことがあるから、彼氏だって知ってる人は知ってるんだろうけど、別れると決めた今はあまりいい気はしなかった。

「俺のアパートで話をしようよ」

 今さら話すことはないけど、私は黙ってうなずいた。断っても、問題が先のばしになるだけだと思った。



 二週間ぶりに来る佑樹の部屋は、少し乱雑に散らかっていた。外食ばかりしてるのだろう。洗ってないグラスだけが、キッチンのシンクにたまっている。

 すぐにキッチンへ入ろうとすると、佑樹は私の腕をつかんでソファーの方へ連れていった。

「俺が言いたいこと、わかる?」

 彼はさみしそうに眉を寄せる。

「結衣、なんで何も言わない」

 首を横に振ると、佑樹はますます不安そうにする。

「声、聞かせてくれよ」

 佑樹の手が私の肩から腕へと滑る。人形のように動かない無気力な私を、佑樹は震えながら抱きしめてきた。

「戻ってこいよ、結衣」

 せつない気持ちが伝わってくる。

 佑樹は私を手放したくないだろう。その気持ちはわかる。じゃあ、その気持ちに応えるために、私はどれほどの苦痛に耐えなければならないのだろう。

 だから、私は尋ねた。

「私のこと、好き?」

 私から少し離れた佑樹と目を合わせる。私の声を聞いて、佑樹は幸せそうに微笑んだ。

「好きだよ」
「声が好き?」
「ああ、好きだよ。結衣の声、すごく綺麗だから」
「……」

 佑樹は何度も私の髪をなでて、優しい目で見つめてくる。

「キス、していい?」

 その言葉は仲直りのしるしのつもりなのだろうか。

「目、閉じて」

 ゆっくりと近づく佑樹の顔を見ていられなくて、私は目を閉じる。

 唇は慎重に重なってきた。いやがらないと知ると、さらに深く重なってくる。

 長いキスを終えて見つめ合う。そこに愛などないのに、佑樹は幸せそうに微笑む。幸せなのは、佑樹だけだ。

「結衣、今日は泊まっていって」

 拒んだらどうなるかなんて、もう考えたくなかった。いつかのように、無理やりするんだろうか。

 目を伏せてうなずけば、佑樹の胸に顔を押し付けられる。

「愛してるよ」

 背中に回る佑樹の腕は、さらに強く締まる。

「愛してるよ」

 こくんとうなずく。

「愛してる」

 そんなに言わなくたってわかってる。佑樹が私を愛してることはわかってる。

 でも、愛してるのは私の声。だから私は言ってあげない。愛してるなんて、絶対言ってあげない。

「愛してるから、もう俺から去らないで」

 佑樹は私を見つめて、そう言う。

 この声の持ち主があなたから去ったのは何度目なの?
 私は何人目の身代わりなの?

 問いたいけど、声を聞かせたくなくて私は何も言えなくなる。

「結衣、声を聞かせてよ」

 佑樹は何度もそうねだる。声を聞きたくて仕方ないんだろう。そのために佑樹は私を恋人にしたんだから。

「シャワー、浴びていい?」

 一人になりたくてそう言うと、佑樹は照れ笑いした。

「せっかちだね、結衣は」

 何を期待してるんだろう。
 元通りになったって信じてるの?

 佑樹の恥ずかしそうな瞳は見ていられない。

 その瞳は誰を見ているの?
 私の声を聞きながら、誰を想像して私を抱いてきたの?

 愛してる、なんて私に向けられた言葉じゃなかったのに、その言葉を信じて喜びの声を聞かせてきた私はとても愚かだった。

 だから今夜も聞かせてなんかあげない。
 私の声は私のもの。佑樹になんかあげない。
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