何万回囁いても

つづき綴

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転勤

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 結衣がアパートを出ていってから、しばらく無気力に過ごしていた。

 雑然としていく部屋を眺めて、俺はずいぶん結衣に甘えていたのだと気づいた。

 結衣だって仕事から疲れて帰ってくるのに、いつ帰るかわからない俺のために食事を作って待ってくれていた。休みの日には洗濯も掃除もしてくれていた。

 結衣を彼女として扱うのは、たまに出掛けるショッピングだけ。それでは嫌気がさしても仕方なかったのだろう。

 少し前のことだ。静香が突然アパートにやってきた。神妙な顔つきで、話を聞いてほしいというから、部屋にあげてしまった。それがそもそも間違いだった。

 リビングに入るなり、静香はベッドルームをのぞいた。見るなよ、と声をかけたが、彼女はズカズカと部屋に入り込み、結衣の荷物を見つけると手に取って眺め出した。

 彼女はいないと話したから、荷物の持ち主のことを知りたかったのだろう。しかし、その行動にはあきれ驚いた。

 大学時代の静香は、芯は強いが、もっと繊細な女性だった。少なくとも人の思い出を踏みにじるような女ではなかった。

 こんな姿をファンが見たら泣くぞ、と腕をつかみあげたら、静香は怒って帰ってしまった。あんなに激昂しやすい女とは思わなくて、あっけにとられてしまった。

 結衣の荷物が入っていた棚を、彼女がいつ戻ってきてもいいように掃除をした。ついでに、本棚も片付けることにした。

 本棚はほとんど上段しか活用してなくて、下段の引き出しは最近、触ってもいない。

 大学時代からこのアパートに暮らしているから、懐かしいものが出てくるかもしれない。引き出しを開いた俺は、思いがけないものを見つけた。

 それは、静香と付き合っていた時に撮った写真だった。静香の病気がわかる少し前。写真の中の俺は、幸せそうに笑っている。

 結衣がこの写真に気づかなかったのは奇跡的で、すぐに処分した。

 結衣を不安にするものはすべてなくしておきたかった。結衣を傷つけるすべてのものから、結衣を守ってやりたかった。

 部屋の片付けを終え、結衣が帰ってくるのを待つばかりになった。

 それが、数日前のことだ。

 今日、結衣は松田芳人と食事をしている。
 本当は結衣に行くなと言いたかった。松田にも直接会った。金輪際関わらないでくれと説得するつもりだった。しかし、松田に言われてしまった。結衣を悲しませておいて何様だと。

 俺はいつも結衣が誰かに奪われてしまうんじゃないかという不安を抱えている。それなのに、結衣の心を見失っていた。

 もう一度、本当にやり直したい。

 だからこそ、結衣に自由を与えたかった。松田と会う結衣を信じている。必ず俺の元へ帰ってきてくれると信じたい。

 俺はひたすら待った。今の俺には待つことしかできない。そして、結衣は戻ってきた。

「愛してる」

 と、俺を抱きしめてくれた。

 今まで以上に、結衣を幸せにしてやりたいと、心から思った。

 結衣は俺のTシャツを着て、ベッドにうずもれていた。付き合い出した頃に戻ったみたいだった。

 ふわふわの髪に触れてみる。眠る結衣の顔にそっと頬を寄せると、小さな息づかいが聞こえる。結衣を実感できる。

 結衣は小さい身体で、いつも優しく包み込んでくれる。だから俺も、彼女を優しく抱きしめた。

 結衣、俺は決意したよ。
 もう二度と、君を失うようなことにならないように、決心したんだ。
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