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かからない魔法とめざめる奇跡
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***
失うために出会うなら、出会いはなんのためにあるのだろう。
傷つくだけの出会いが生まれる前に、時間なんて戻ってしまえばいい。
真咲さんに出会う前に、敬太に出会う前に、遼に出会う前に……。そして、私が生まれる前に。
ゆっくりとまぶたを上げる。光の筋が射す天井が見えた。そして、ミカドが私の顔を覗き込む。
「ミカド……」
私の口元に鼻をつけ、頬をすり寄せる彼の頭をなでて、体を横に向ける。机の上の時計を確認しようとすると、部屋の前を通り過ぎる足音が聞こえた。
真咲さんだ。足音だけで彼かママかわかるなんて。依存していると思う。
ベッドを降りて、部屋のドアを開けて階下を覗く。一階へ続く階段を降りていく真咲さんの背中が見える。
今日から出勤だ。私はすぐに着替えを済ますとリビングへ行き、食パンをトースターへ入れてお湯を沸かす。
食パンが焼けるのを待つ間、テーブルを眺めていてふと昨日の出来事を思い出す。
昼食はろくにとらないままで、夕食はママが一緒に作ろうと声をかけてくれたのに部屋から出ることができなかった。
夕食の時も、ママと真咲さんが話をするだけで私は口を利くこともできず、彼と気まずくなったままだ。
チン、と音の鳴るトースターから食パンを取り出し、いちごジャムを塗る。紅茶を注いで、テーブルへ移動すると、誰かが階段を昇ってくる足音が聞こえてくる。
「あ、ミカド……っ」
足元にいたミカドが突然リビングを飛び出す。
「おや、ミカドくん。悠紀さんは中にいますか?」
リビングの入り口でミカドが座り込んでいる。のれんのかかるドアの奥に真咲さんのスーツを履いた足がのぞいている。
ミカドはその場を動かない。真咲さんならミカドをまたぐのは容易だろうに、越えては来ない。
「悠紀さん、聞こえてますか? 10時にクリニックまで来てください。仕事の話をしますのでお願いします」
彼は少しばかり苦笑まじりにそう言う。そして返事をする前に彼の足は階段の方へと消えた。
***
一階へ続く階段を降りる。エントランスデッキの右手のドアはカフェに続くドアで、左手は真咲さんが開業するクリニックのドアだ。
左手の重たいグレーのドアを押し開く。中は仕切りに隔てられた病院らしい無機質な空間が広がっている。
細い通路の横にはバックルームがあり、その先のドアを開けるとクリニックの受付があった。ガラスドアからは商店街から入る光が注ぎ、静謐な空間に優しさを与えている。
「悠紀さん、どうですか? クリニックは。悠紀さんが働きやすいようにいろいろと見てください」
診察室だろう。ライトグリーンのカーテンの奥から現れた真咲さんはにこやかな笑顔で近づいてくる。
私との間にあるわだかまりなんて忘れたみたいだ。それとも、気にしてるのは私だけだろうか。
「本当に働くのか、まだ実感できなくて……」
「実感は後で湧いてきますよ。ではいくつか書類を渡しますので、週末までに提出してください。それと、ユニフォームを注文しますのでサイズも教えてください」
真咲さんは茶封筒に入った書類をカウンターの上に乗せ、ユニフォームのパンフレットを見せてくれる。
「悠紀さんの気に入るデザインのユニフォームでいいですよ。悠紀さんしか雇うつもりもありませんので」
「古谷さんは、あ……、古谷先生はずっとこのクリニックを続けられるんですか?」
そう言うと、真咲さんは眉をわずかにひそめるが、静かにうなずく。
「大学の講師と当分はかけもちですが、出来る限り続けるつもりです。悠紀さんには支えてもらいたいですが、無理はもう言いません。条件のいい就職先が見つかれば、辞めるのはかまいません」
「お役に立てるかもわからないので……」
「基本的に悠紀さんには受付と電話応対をお願いします。完全予約制ですので、二人以上が同時に来られることはないですし、後で俺の患者のリストを見せますから、ある程度は頭の中に入れておくといいと思いますよ」
「患者のリスト……、もしかして、この間商店街で会った女性も?」
真咲さんのことが好きでたまらない様子だった長い黒髪の女性を思い出す。名前はなんだっただろう。名前を聞いたかどうかも思い出せない。
「夢川さんのことですか。……そうですね、来られるかもしれない。その時は予約を取ってもらえればいいです。夢川千秋さんと言いますから」
「夢川……千秋……」
私はその名を繰り返しつぶやく。どこかにひっかかる思いがある。
「どうかされましたか?」
私の落ち着かない様子に気づいて、真咲さんは心配そうに問う。
「あ、……いえ、なんとなく聞いたことがある名前のような気がして」
「聞いたことが? そう言えば彼女もこの辺りで暮らしてるようでしたね。もしかしたら他の患者も知ってる方がいるかもしれない。早めにリストを用意します」
「いろいろとありがとうございます……」
「悠紀さんに頼る面が多くなりますから、出来ることはしますので。じゃあ、診察室に行きましょう。設備の説明します」
私は真咲さんの後についていく。ライトグリーンのカーテンが引かれると、一般的な診察室と同じ光景が広がる。
「ここは主にカウンセリングする場所で、隣のサロンでセラピーを受けてもらいます」
「サロン?」
「なるべくゆったりとした気分になって頂きたいので、カフェをイメージした室内になってます」
そう言って、真咲さんは隣の部屋に繋がる白いドアを開く。
中を覗いて驚く。カフェというには豪華な、アンティークな内装で整えられた空間が目の前に広がっている。
「すごく素敵。古谷先生のセンスですか?」
「おおむね」
「入ってもいいですか?」
「もちろんですよ」
思いがけず心が舞い上がる。おしゃれなレストランへ真咲さんと行ったのは去年のクリスマスイブのことだ。あの時に覚えた感情が生まれる。彼の好みに触れると身が焦がれる。忘れていた感覚が蘇るようだ。
真咲さんの趣味が私は好きだ。私に合うものを選んでくれる彼の好みが、私は好きなのだ。
失うために出会うなら、出会いはなんのためにあるのだろう。
傷つくだけの出会いが生まれる前に、時間なんて戻ってしまえばいい。
真咲さんに出会う前に、敬太に出会う前に、遼に出会う前に……。そして、私が生まれる前に。
ゆっくりとまぶたを上げる。光の筋が射す天井が見えた。そして、ミカドが私の顔を覗き込む。
「ミカド……」
私の口元に鼻をつけ、頬をすり寄せる彼の頭をなでて、体を横に向ける。机の上の時計を確認しようとすると、部屋の前を通り過ぎる足音が聞こえた。
真咲さんだ。足音だけで彼かママかわかるなんて。依存していると思う。
ベッドを降りて、部屋のドアを開けて階下を覗く。一階へ続く階段を降りていく真咲さんの背中が見える。
今日から出勤だ。私はすぐに着替えを済ますとリビングへ行き、食パンをトースターへ入れてお湯を沸かす。
食パンが焼けるのを待つ間、テーブルを眺めていてふと昨日の出来事を思い出す。
昼食はろくにとらないままで、夕食はママが一緒に作ろうと声をかけてくれたのに部屋から出ることができなかった。
夕食の時も、ママと真咲さんが話をするだけで私は口を利くこともできず、彼と気まずくなったままだ。
チン、と音の鳴るトースターから食パンを取り出し、いちごジャムを塗る。紅茶を注いで、テーブルへ移動すると、誰かが階段を昇ってくる足音が聞こえてくる。
「あ、ミカド……っ」
足元にいたミカドが突然リビングを飛び出す。
「おや、ミカドくん。悠紀さんは中にいますか?」
リビングの入り口でミカドが座り込んでいる。のれんのかかるドアの奥に真咲さんのスーツを履いた足がのぞいている。
ミカドはその場を動かない。真咲さんならミカドをまたぐのは容易だろうに、越えては来ない。
「悠紀さん、聞こえてますか? 10時にクリニックまで来てください。仕事の話をしますのでお願いします」
彼は少しばかり苦笑まじりにそう言う。そして返事をする前に彼の足は階段の方へと消えた。
***
一階へ続く階段を降りる。エントランスデッキの右手のドアはカフェに続くドアで、左手は真咲さんが開業するクリニックのドアだ。
左手の重たいグレーのドアを押し開く。中は仕切りに隔てられた病院らしい無機質な空間が広がっている。
細い通路の横にはバックルームがあり、その先のドアを開けるとクリニックの受付があった。ガラスドアからは商店街から入る光が注ぎ、静謐な空間に優しさを与えている。
「悠紀さん、どうですか? クリニックは。悠紀さんが働きやすいようにいろいろと見てください」
診察室だろう。ライトグリーンのカーテンの奥から現れた真咲さんはにこやかな笑顔で近づいてくる。
私との間にあるわだかまりなんて忘れたみたいだ。それとも、気にしてるのは私だけだろうか。
「本当に働くのか、まだ実感できなくて……」
「実感は後で湧いてきますよ。ではいくつか書類を渡しますので、週末までに提出してください。それと、ユニフォームを注文しますのでサイズも教えてください」
真咲さんは茶封筒に入った書類をカウンターの上に乗せ、ユニフォームのパンフレットを見せてくれる。
「悠紀さんの気に入るデザインのユニフォームでいいですよ。悠紀さんしか雇うつもりもありませんので」
「古谷さんは、あ……、古谷先生はずっとこのクリニックを続けられるんですか?」
そう言うと、真咲さんは眉をわずかにひそめるが、静かにうなずく。
「大学の講師と当分はかけもちですが、出来る限り続けるつもりです。悠紀さんには支えてもらいたいですが、無理はもう言いません。条件のいい就職先が見つかれば、辞めるのはかまいません」
「お役に立てるかもわからないので……」
「基本的に悠紀さんには受付と電話応対をお願いします。完全予約制ですので、二人以上が同時に来られることはないですし、後で俺の患者のリストを見せますから、ある程度は頭の中に入れておくといいと思いますよ」
「患者のリスト……、もしかして、この間商店街で会った女性も?」
真咲さんのことが好きでたまらない様子だった長い黒髪の女性を思い出す。名前はなんだっただろう。名前を聞いたかどうかも思い出せない。
「夢川さんのことですか。……そうですね、来られるかもしれない。その時は予約を取ってもらえればいいです。夢川千秋さんと言いますから」
「夢川……千秋……」
私はその名を繰り返しつぶやく。どこかにひっかかる思いがある。
「どうかされましたか?」
私の落ち着かない様子に気づいて、真咲さんは心配そうに問う。
「あ、……いえ、なんとなく聞いたことがある名前のような気がして」
「聞いたことが? そう言えば彼女もこの辺りで暮らしてるようでしたね。もしかしたら他の患者も知ってる方がいるかもしれない。早めにリストを用意します」
「いろいろとありがとうございます……」
「悠紀さんに頼る面が多くなりますから、出来ることはしますので。じゃあ、診察室に行きましょう。設備の説明します」
私は真咲さんの後についていく。ライトグリーンのカーテンが引かれると、一般的な診察室と同じ光景が広がる。
「ここは主にカウンセリングする場所で、隣のサロンでセラピーを受けてもらいます」
「サロン?」
「なるべくゆったりとした気分になって頂きたいので、カフェをイメージした室内になってます」
そう言って、真咲さんは隣の部屋に繋がる白いドアを開く。
中を覗いて驚く。カフェというには豪華な、アンティークな内装で整えられた空間が目の前に広がっている。
「すごく素敵。古谷先生のセンスですか?」
「おおむね」
「入ってもいいですか?」
「もちろんですよ」
思いがけず心が舞い上がる。おしゃれなレストランへ真咲さんと行ったのは去年のクリスマスイブのことだ。あの時に覚えた感情が生まれる。彼の好みに触れると身が焦がれる。忘れていた感覚が蘇るようだ。
真咲さんの趣味が私は好きだ。私に合うものを選んでくれる彼の好みが、私は好きなのだ。
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