非才の催眠術師

水城ひさぎ

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優しい真実と苦しい選択

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「先生、遅いね……」

 ワンピースに着替えて、髪を結う。華やかなメイクをして、ドレッサーから昔使っていたイヤリングを取り出して耳を飾る。

 鏡を覗き込む。一緒になってミカドも覗き込んでいる。

「おかしくない?」

 尋ねると、ミカドは頬に鼻をつける。可愛いよ、って言ってくれたみたいだ。

「ミカドも行こうね。あ、リード……、リード探さなきゃ。どこに置いたかな……」

 辺りを見回して、ふと机の上に視線を止める。置き時計とリードが乗っている。
 すぐにリードを取りに行った私の目が、時計の針に止まる。

「あれ……時計が止まってる。電池切れかな……」

 まだ新しい時計なのに、と思いながら時計を持ち上げる。

 ラインストーンがあしらわれた置き時計は華美だと思ったのに、今は不思議と華やかな彩りを添えるアイテムとして気に入るようになっている。

「ミカド、リビングに行くね。電池探して来る」

 そう言うと、ミカドが率先して部屋を出ていく。ドアを開ける頃には彼は二階へ移動していて、リビングの前で私を待っている。まるで私に行く道を導いているようだ。

 リビングに入り、食器棚の引き出しを開く。いつもそこに電池はあるのに、今日に限って入っていない。

「ちょっとママに聞いてくるね」

 これから真咲さんと出かける。電池の他にも、必要なものがあれば聞いてこよう。そう思ったのだ。
 するとミカドが私を先回りして、一階へと続く階段の中央に座り込む。今度は行ってはいけないと言っているみたいに。

「ミカド、ごめんね」

 軽々と私はミカドを越える。ふんわりしたワンピースのすそが彼の頭上でひらひらと揺れる。それに反応するように彼が前足を伸ばすが、それは届かぬまま私は軽やかに階段をおりた。

 喫茶店につながる右手のドアを少し開けた時、ミカドが先にするりと中へ入っていった。

「ミカド……」と小さな声でつぶやいて、中へと視線を移した私は、ふと違和感を覚えた。

 店内がやや薄暗い。いつも流れているミュージックも聞こえてこない。

 休み?
 そう思った時、どこからか低い男性の声が聞こえてきた。真咲さんの声ではない。

 やっぱり休みではないのだろうかと、ゆっくりと中へ踏み込む。ただならぬ雰囲気を感じて、すぐにその場から動けなくなる。

 店内の中央では三人が向かい合って立っていた。ママと真咲さん、そしてママの恋人である益田創士さんだ。

 三人を包む空気が異様だった。緊迫した様はまるで別世界にいるかのようで近づくことができない。何を話しているのか、耳には届くのに理解はできない。

 息を吸うのも遠慮した。ここにいていいのか戸惑った。しかし戻ることもできない。

 ミカドが真咲さんに近づこうとする。その時だった。ママが叫ぶ。

「悠紀ちゃんが結婚したら、何もかも知られるわ。遼くんが亡くなったことも、私たちが本当の両親だということも」
「え」

 脳の中をママの言葉が鮮明にめぐる。

 お兄ちゃんが亡くなった……?
 私たちが本当の、両親?

 手に持っていた置き時計が力の抜けた手から滑り落ちる。ガシャーン! とひどい音が店内に響く。

 天井を仰ぎ見た益田さんがハッと私を見つめる。

 視線が絡み合った瞬間、戦慄が全身を走り抜ける。足はしびれたように動かない。

 ミカドが私に駆け寄る。必死にワンピースの裾に前足を伸ばす。はやく行けと。はやくこの場からいなくなれというように。しかし私は動けなかった。

 益田さんが私に近づく。

 今度は電流が体を走り抜けたみたいになって、途端に体が動く。慌てて時計を拾い上げようとした。しかし私の前方に転がったそれを拾い上げたのは、彼が先だった。

「大事にしてくれてありがとう」
「……」

 益田さんは時計のホコリをはらうみたいに優しくなでた。そして私に歩み寄り、両手のひらに時計を乗せてくれる。

 大きな音を立てて落ちたそれは傷一つない。そればかりか、針が動いている。衝撃がそうさせたのか。それとも私をここへ導くために時間を止めていただけだったのか。

「あなたが、くれたの……?」

 そう尋ねたら、彼は「そう」とうなずく。

 私は時計を抱きしめて後ずさる。ここにいてはいけない。そう思えた。

 益田さんの表情が切なげにくもる。

 さらに下がろうとする私の肩に温かな手が置かれた。その手の主は優しく私の名を呼ぶ。

「悠紀さん」
「先生……、私……」
「逃げてはいけません。恐れず手を伸ばせば、つかめる幸せもあります」

 真咲さんの言葉が私の背中を押す。

 私は目の前の男を見上げる。彼は困り顔で私を見下ろし、そしてただただ私を見つめる。そうすることが幸せであるみたいに。

「お父さん……ですか?」

 私はそう尋ねた。
 実感はなかった。だけどそうだろうと、漠然と意味もなく感じたのは事実だった。

 益田さんは口元をゆるめて微笑んだ。どこかで見たことがある。そう、私の口元によく似ている。

「迎えに来たよ。長い時間がかかってしまったけれど、ようやく会えた」

 そう吐き出したら、益田さんは涙ぐんで、目がしらを押さえた。

 それから私はママと彼から様々な話を聞いた。

 どれもすぐには受け止められないものだったけれど、隣に真咲さんがいてくれたから、耳を塞ぐことなく聞くことができた。

「悠紀ちゃんはお姉さんに捨てられたわけじゃないのよ」

 ママはそう言って私を安心させてくれた。

「名前を呼ばせてもらってもいいかい?」

 益田さんはうなずく私に「ありがとう」と言い、

「悠紀」

 と、そう呼んだ。

「悠紀、これからは三人で暮らそう。離れていても俺たちは家族だったが、今度は幸せな時間を共に紡いでいこう」

 お父さんはそう言ってママと私の手を重ね合わせると、両手で優しく包んでくれた。
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