仮初めの甘い誘惑

水城ひさぎ

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お気に入りの画家

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「ここか」

 来客を歓迎するような、手作り感のあるポップな木製看板には、『しらかわの家』と書かれていた。

 入りづらい雰囲気があるのかと思っていたが、そうでもないようだ。看板の下にある、右矢印と事務所の文字を確認して、門の中へと進み入る。

 よく手入れされた花壇を横目に、右手にある事務所であろう建物へと向かう。

 どこかで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえているが、姿は見えない。建物の裏に公園でもあるのだろうか。

 受付の窓口をのぞくと、中年の男が奥から素早く歩いてきた。名札には、事務長村上むらかみとある。知らない男だ。

 事務所の奥へと、さりげなく視線を移す。数人の職員の姿があるが、知らない人ばかりだ。

 神林の親族が何人も関わっているのでは、と思っていたが、そうでもないらしい。彼らは雇われだろう。

「連絡もせず、突然うかがいまして申し訳ありません。神林夏凪と申しますが、福富ふくとみ秋花はまだこちらにいますか?」

 ほんの少しけげんそうにこちらを見ている事務長に、笑顔で尋ねた。

 姉の神林秋花は、数年前に福富産業の社長と結婚し、今は福富秋花となっている。不動産を扱う企業の御曹司との結婚生活で、パートに出る必要はないはずだ。何か理由があって働いているのだろう。

「神林さん?」
「はい、姉の秋花がお世話になってます。白川佐那子さんに用事があって寄らせてもらったんですが、姉にも用がありまして」

 そう答えると、警戒心を解いた事務長は柔和な笑顔を見せた。

「そうでしたか。神林さんにはいつもお世話になっております。佐那子先生は施設内の公園にいらっしゃいますが、福富さんはもうあがりの時間なので、そろそろそちらの入り口から出て来られると思いますよ」

 事務長の指し示す方へ視線をずらすと、従業員出入り口と書かれたドアから、ちょうど姉が姿を見せたところだった。

 事務長に礼を言い、窓口から離れると、姉が俺に気づいて声をかけてくる。

「夏凪ー、どうしたの?」
「父さんの手術、来週の水曜日に決まったよ。姉さんに伝えておいてくれって、父さんが」
「それ言うためだけに来たの? あ、そっか。佐那子ちゃんに言われたから来たのね」
「別にそういうわけじゃない」

 冷やかすようににやにやする姉に、つい仏頂面をしてしまう。

「素直じゃないのねー。絶対来ないって思ってたのに、ちゃんと来ただけ夏凪もえらいじゃない」
「一度は見ておかないとなって思ってさ」
「まあ、そうよね。気になるわよね。ゆっくり見学していって。私もね、お父さんからこの施設の話を聞いたときは驚いたけど、この施設に関わるうちに、潰しちゃいけないって思うようになったの。夏凪も感じるものがあると思うわ」

 すっかり、姉は施設運営に前向きのようだ。それもそうか。佐那子と良すぎるぐらい仲がいいのだから。

「いつから働いてるんだよ」

 辺りを見回して、そう言う。

 建物の外壁は最近塗り替えたのだろうか。何十年という月日を感じさせないぐらい綺麗になっているが、昔から変わらないのだろうと思わせる素朴な雰囲気はあちらこちらに漂っている。

 佐那子が守りたいものは、確かに変わらず守り続けられているのかもしれない。

「去年よ。その前から顔は出してたんだけどね、職員の方が産休に入ったときにパートのお話を持ちかけられて。彼女が育休から戻るまでの採用よ」
「腰かけ仕事か」

 ちょっと笑うと、姉は唇を尖らせた。

「失礼な言い方するのね。私が断っても、別の人を採用したんだろうけど、力になれるならってお引き受けしたのよ」
「やけに肩入れしてるんだな」
「それはそうよ。働く前からずっと見てきたけど、ここの子たちは本当にのびのび暮らせてると思うの。なるべく今の雰囲気を変えずに過ごさせてあげたいって思ったの」

 自分かわいいで育った姉らしくない返答だったが、納得して一つうなずく。

「預かってる子は少ないんだってな」
「今は5人よ。職員の入れ替わりも少ないし、いい雰囲気を作ろうってみんな頑張ってるの。佐那子ちゃんもそのひとりよ」
「子どもたちに美術を教えてるって聞いたよ」

 まだ一緒に暮らし始めて日は浅いが、家事の手は抜かず、どこかへ出かけているのか、まったく気配を感じさせないことはあるが、毎日家にいる彼女が教師だとは知らなかった。

「週に一度とはいえ、ワークショップの準備は大変だろうし、うちのこともやってくれてるでしょう? 本当なら、もっとアーティストの仕事に専念させてあげたいんだけど、当の本人が全然負担じゃないっていうものだから……」

 悩ましげに言う姉の言葉に耳がぴくりとした。

「アーティスト? 美術の先生じゃないのか?」

 食い気味に尋ねると、姉がきょとんとする。

「あら、聞いてないの? 佐那子ちゃん、本業は画家なのよ」
「画家……?」

 そんな話は聞いていない。どれだけ、あの女には隠し事があるんだ。

 いや、俺がトップアートオークションで働いていると知ったときの彼女はひどく驚いていた。

 トップアートオークションがアート界でどれほど力があるのか、彼女は知っていたのだろう。

 俺に嫌われているとわかった上で、画家だと告白するのは当然ためらうか……。まあ、そうだな。俺が同じ立場でも、軽率には言わないだろう。

「佐那子ちゃんね、なかなかいい絵を描くの。ちょこちょこ売れてるみたいだし、何年前だったかな、大きなコンテストで受賞したこともあるのよ。あのあたりかしらね、親戚もうるさいこと言わなくなって、注文も増えるようになったって。今が頑張り時じゃない?」

 姉の話が事実なら、実績を積んでる画家なのだろうか。普段の彼女からは、まったくそういう気配を感じないが。

 いや、母もそうだったか。家の中では仕事の話をしない、家族思いの優しい母だった。

「知らなかったよ」
「夏凪は世界規模で働いてるから耳に入らないのかもしれないけど、佐那子ちゃんみたいな画家にこそ、目を向けるべきね」
「佐那子さんみたいなって?」

 そう問うと、姉は得意げな顔で胸を張る。

「佐那子ちゃんはね、今は亡き深山四季の最初で最後の弟子よ。彼女の才能を埋もれさせておくなんて、トップで働く神林夏凪の名が泣くわね」

 佐那子が深山四季の……母の弟子?

 それを聞いた瞬間に、俺の足は子どもたちの声のする方へ向かっていた。

 施設の角を曲がると、コスモスの花が咲き乱れる公園の片隅で、画用紙を持ってはしゃぐ子どもたちの姿が目に飛び込んできた。

 子どもは3人。みな、小学生のようだ。

「先生っ、誰か来たー」

 ピンクの服を着たおかっぱの女の子が、いち早く俺に気付き、佐那子の足に抱きついた。まだ小学校に上がったばかりのような幼さのある女の子だ。

 一方、高学年と思われる、おさげ髪の女の子と活発そうな男の子は急に静かになって、俺の様子をじっと見つめてくる。

「あっ、先生のお客さんが来たみたい。ごめんね、みんな。ちょっと待ってて」

 不安そうな子どもたちに声をかけた佐那子は、笑顔のまま俺に向かって走ってきた。

「夏凪さんっ、来てくれたんですねっ」

 うれしそうな佐那子に、俺は言葉を失った。

 屋敷では、どこか気を張っているように堅苦しい彼女が、今は開放感あふれる笑顔を見せている。

 そんなに俺が来るのを楽しみにしていたのか、と思ってしまう。そうじゃない。この施設の空気感が、彼女の笑顔を引き出している。わかっているのに、そう錯覚してしまった。

 男相手にそんなふうに笑うんじゃない。そう言ってやりたくなったが、俺はただ佐那子の笑顔に見惚れていた。

 可愛らしくて柔らかで、すべてを包み込んで癒してくれるような、その笑顔に。
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