仮初めの甘い誘惑

水城ひさぎ

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お気に入りの画家

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***


「来週になったんだ? 手術」

 見舞いに現れた俺を見るなり、手術日を伝えてきた父は、ベッドの上に広げていた新聞をたたんで、うなずいた。

「しばらく帰れそうにないが、佐那子さんとの暮らしはどうだ?」
「まあ、問題ないよ」

 ベッドサイドのいすに腰かけながら、あっさりと即答する。

 悔しいぐらい、進展はない。ようやくデートの約束にこぎつけたところだが、どうだろう。

 展覧会デートのあとはレストランで食事して、いい雰囲気のまま帰宅すれば、男慣れしていない佐那子だろうが、開放的になるだろうと踏んでいる……のだが、意表をついてくる純朴な彼女に振り回されているのは、認めたくはないが俺の方だ。

 父が退院する前に、交際宣言できる関係にはやくなってしまわないと。そのあとは計画通り、佐那子を屋敷から追い出すだけだ。

「それならいい。佐那子さんは大事なお嬢さんだから、あまり強くあたらないでやってほしい」
「大事なお嬢さん?」
「佐那子さんは昔からの知り合いのお嬢さんでね。ご両親が亡くなられたときはすでに成人していて、私が面倒を見る必要もなかったんだが、どうしてもうちに住まわせてやりたかったんだ」
「じゃあ……」
「私が無理言って、屋敷に住まわせている。遺産相続の件もそうだ。佐那子さんのためになるだろうと思って、私が決断した」

 初耳だ。それじゃあ、すべては佐那子の意向じゃなかったってことか。相続対象者になろうと、うまく父に取り入ったわけではないと。

「だけどさ、相続する気満々だよな、彼女。父さんはうまく利用されてるだけなんじゃないのか?」

 白い目で見られたくなければ、佐那子は父の申し出を断るだけでよかった。それなのにそうしなかったのは、遺産が欲しいからだ。

「これには、事情があるんだ」

 佐那子を認めようとしない俺を、困った目で父は見てくると、仕方なさそうにそう言った。

「養護施設の話は聞いたよ」
「なんだ、知ってるのか。じゃあ、話は早い。佐那子さんは施設の維持を望んでいる。私はそれを応援してるんだよ」
「待てよ。俺はそれが引っかかってるんだ。採算の取れない施設のために、父さんが財産を分ける意味がわからない。しかも、佐那子さんはいずれ、理事長になる気だ。彼女は理想のために父さんを利用してる。いわれのない金を使うのは賛成できない」

 子どもたちのためと、体裁のいいことを言いながら、その実は父の財産に頼りきりだ。なぜそこまでして、神林家が彼女を助けなければならないのか。

「いわれか……。あの施設はもともと佐那子さんの……いや、白川家が立ち上げたものなんだ。いずれは返すのが、当然のつとめだ」

 父はそう告白する。

「白川家が立ち上げた? じゃあ、父さんがなんで理事長になってるんだよ。どういうことだよ」
「まあ、落ち着け、夏凪。この話は叶冬にも秋花にも話した。その上で、佐那子さんがひとり立ちできるまで、神林が施設の運営をしようという話になった。これはもう終わった話だ。夏凪がなんと言おうが変わらない。理解してくれ、としか私は言わない」
「じゃあ、理解できるように説明してくれよ。佐那子さんの両親は誰で、父さんとどんな関係があるのか」

 目をじっと見つめると、父は一つうなずいた。

 俺は神林家の次男だ。物分かりのいい兄と、しっかり者の姉、そして、かわいい弟。俺はいくつになっても、幼い子どものように扱われてきた。だから、父は兄や姉にそうしてるようには俺を頼らない。

 今回も、何も説明せずに過ごすつもりかと思ったが、話を聞かせてくれる気はあるようだ。

「施設の名前は『しらかわの家』と言う」

 父はそう切り出した。

「しらかわの家……」

 まぎれもなく、白川家の設立した施設だと後世に伝えるために残したような名だ。

「設立は50年ほど前になる。佐那子さんの祖父である白川有造ゆうぞう氏が、母親を亡くした乳児を育てたことがきっかけで始まった施設でね、今でも預かる子どもたちは多くない。こじんまりとしたアットホームな施設だよ」
「母親を亡くした乳児って? 知り合いの子どもを育てたって話か?」

 いや、と父は首を振る。

「有造氏は医師だったんだよ。父親もわからない、身寄りもない母親が産んだ子どもの末路を心配したんだろう。慈悲深い人だったよ」

 佐那子はその血を受け継いでいるのだろうか。私財を投げ売ってでも、子どもたちの未来を守ろうとしているのだから。

「佐那子さんのご両親は亡くなったんだよな?」

 確かめるように尋ねた。

「ああ」

 父は肩を落とす。

「しらかわの家の理事長は、有造氏亡き後、佐那子さんの母親がつとめていた」
「母親が?」
「父親の白川政勝まさかつ氏も医師でね。施設の方は妻であり、弁護士の恵里えりさんに任せていたようだ。その恵里さんが亡くなったのは、14年前になるな。不慮の事故だった……。政勝氏はまだ小学生だった佐那子さんを育てながら医師の仕事も続けねばならず、困っていた。だから私が、理事長を引き受けると申し出たんだ」

 14年前の事故……、その言葉に心が痛む。俺の母が亡くなったのも、14年前だ。

「母親はずいぶん前に亡くなってたんだな。父親が亡くなったのは、じゃあ、佐那子さんがうちに来た?」
「6年前だ。政勝氏は病気でね。残念だが、助からなかった」
「そうか。……話はわかったよ。でもさ、父さんがなんでそこまでするのかは、まだわからない。たまたま政勝氏と知り合いだったとしても」
「単なる知り合いじゃないんだよ、夏凪。私は小学生の頃に大けがをしてね、有造氏に命を助けられた過去がある」
「大けがって……」

 父のひたいに視線を移す。父もまた、目が隠れそうなほどに伸びた前髪をかきあげた。ひたいの左側の生え際に、縫合した傷跡がある。

 子どものころ、父と一緒にお風呂に入るたび、物珍しくて、その傷口に触れていた。父はいつも、父さんも子どものころは活発でね、と笑っていたんだっけ。

「そのけがと関係があるんだな」
「小学生のころ……、あれは夏休みだったな。自転車に乗っていて、車と接触事故を起こしてね。有造氏の適切な処置がなければ、この年まで生きられていなかったかもしれない。夏凪、おまえたちにも会えていなかったかもしれないんだ。白川家の人々に、私は頭があがらないんだよ」
「父さん……」

 佐那子の祖父は、父の命の恩人か。だから、こんなにも彼女に尽くそうとしてる。

「佐那子さんはご両親の意思を継ぎ、施設だけは守りたいとがんばってる。さっき言ったように、うちで暮らさないかと提案したのは私の方からだ。彼女の味方になれるのは、私たち以外にいない」
「だからって、すんなり、はいそうですかとはいかない。父さんはもう十分、恩は返してる」
「おまえは昔から変わらないな。母さんに似て、頑固というか」

 父は苦笑いする。

「言っておくけどな、遺産を渋ってるわけじゃないんだ。佐那子さんのやり方が納得いかないだけだ。そこまでする必要あるのかって」
「で、どうするつもりだ? 反対したところで、何も変わらないが」
「俺のやり方でやらせてもらう」
「まあ、夏凪の好きにしたらいい。叶冬も秋花も、最初は反対した。すんなり認められない夏凪の気持ちもわかるからな」

 ますます父は笑う。バカにされてるみたいで、腹立たしい。

「ああ、好きにするよ。どいつもこいつも、好きにしたらいいって投げやりに言いやがって」
「なんだ、佐那子さんにも言われたのか。なるほど、相手にされなくて怒ってるのか、夏凪は。佐那子さんは素敵なお嬢さんだしな。夏凪にはもったいないと思うぞ」

 カッとほおが上気したのを感じた。

 これじゃあまるで、佐那子に相手にされなくて、駄々をこねてるだけみたいじゃないか。

「あいにく、女には困ってない」
「お付き合いしてる女性がいるのか?」
「父さんに教える義理はないよ」
「あー、好きな女性はいるようだな」
「そんなんじゃない」

 女は作ろうと思えば、いつでもできる。その自負はある。ただ、今は好きになれる女がいないだけだ。

 俺の心をさらりと奪ってくるような、そんな女が……。

 ふと、脳裏に一枚の絵画がよぎった。なぜ、思い出したのか。ニューヨークの街で見かけた、古風な桜を。

 ひとめぼれし、すぐに購入を決めた絵画だった。迷っていたら、誰かが買ってしまうかもしれない。そうなったとき、俺は絶対後悔すると思った。

 まだ見ぬ画家に恋をしてるっていうのか、俺は。どんな女かもわからないっていうのに。

「施設を見てくる」

 どうにも落ち着かなくて、俺はサッと立ち上がる。

「今からか? だったら、ちょうどいい。この時間ならまだ秋花がいるはずだ。手術の件、秋花に伝えておいてくれないか」
「秋花姉さん?」
「ああ、秋花には施設で働いてもらっている」
「なんだって。本当にどいつもこいつも。まさか、叶冬兄さんは施設に関わってないよな?」

 いらだちながら、問う。俺は知らないことが多すぎる。

「叶冬も理事だ。万が一、私に何かあった場合は、叶冬に理事長をお願いするつもりでいる」
「どっぷりだな。まあいいさ。どんな施設か、俺が冷静な目で見てきてやるよ」

 そんなことしたって何も変わらないのはわかる。佐那子はどんな逆境にも負けないと言ったのだから。

「だからって、すんなりと賛成できるか」

 面白くない感情が湧き上がるのを感じながら、おかしそうに俺を見上げる父に向かって、「また来る」と乱暴に言うと、病室を飛び出した。
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