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きっかけの始まり
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その日は一日中、石神さんのことが頭から離れなかった。時計の長針を眺めている時間も長かった。
私はただ、知った顔を見つけて、挨拶程度の話をしようとしただけだったはずなのに。
はあ、と思わずため息が出た。
「どうしたの? まさかお金あわない?」
売上金を勘定する私の手元を心配そうに見つめるのは、ミゾタ靴店へ同期入社した熊井紀子だ。大学時代からの親友でもあり、現在、同じ店舗で働いている。
これまで紀子とは定期的に会ってきた。気兼ねなくなんでも話せる相手。だけど、石神さんのことはなんだか素直に話せない。
「あ、ううん、大丈夫。ごめんね、すぐに片付けるから」
「ならいいけど。今日の和美、ちょっと変だよ? もしかして、元カレのこと?」
「えっ、あ、違う違う」
「本当? 別れたのに連絡が来るって悩んでたでしょ?」
「それはもう半年も前の話。今は全然連絡ないから大丈夫なの」
「じゃあなにー? もしかして、好きな人ができたとか?」
紀子はにやにやしながら尋ねてくる。ため息を一つついただけなのに、やけにうがった見方をするものだ。
だけど、自分からはなかなか話せない悩みを話すきっかけになるのだから、私はずいぶんと彼女に助けられている。
「好きとか、そういうんじゃないの」
「男がらみの話ではあるんだ?」
「なんていうのか、結婚してるのに食事に行こうって誘ってくる男の人って初めてだから、どう理解したらいいのかなって」
「なになに? どんな話なの、それ」
好奇心に満ちた目で紀子は身を乗り出す。しかし、その手はレジのお金をコインケースに手際よく片付けているのだから、さすがというか。
「紀子はフェリーチェ知ってる? そこの宝石店だけど」
「知ってる知ってる。カッコイイ店員がいるって結構有名だよ。なに、その店員の話?」
「ん、まあ。つい最近ね、顔見知りになって」
紀子の鋭さに苦笑いしつつも、和音で石神さんと出会ったいきさつを話した。そして、彼に食事に誘われていることも。
「石神さん、結婚してるの。それなのに、って思って」
「あの人、結婚してるの? あ、でも、うわさ……」
紀子は少し不穏に口をつぐむ。私の目を気にした。そんな気がする。
「変な噂がある人?」
不安になって尋ねると、紀子は小さく息を吐き出す。
「噂だよ。和美もそうだけど、美男美女って変な噂立てられやすかったりするでしょー? 石神さんのこともただの噂かもしれないけど、一つだけ変なこと聞いたことあるよ」
「どんなこと?」
「和美には関係ない話だから食事に誘われたことはそういうことじゃないとは思うけど、石神さんね、人妻しか相手にしない人だって」
「え……」
どきっとして、言葉が出てこない。
「ほら、たまにいるでしょ? 結婚を迫られるの苦手な人。だから、石神さんもそうなのかなって思ったんだけど、結婚してるなら、割り切って付き合える女の人がいいのかもね」
「そうなんだ……」
「でも、和美には全然あてはまらないし。食事に誘ったのは、村橋くんの知り合いだからじゃない?」
私はすぐにうなずけなくて、視線を落とす。
「違うかもしれない」
「違う? どういう意味?」
「石神さん、私が結婚してるって思ってるから……」
そう口に出したら、腑に落ちた。
石神さんは優しい笑顔を見せながら、私をそんな風に見てたのかもしれない。結婚してるのに、居酒屋で一人で夕食を食べる女なんて、彼にとっては格好の餌だったかもしれない。
さみしい女に見えていただろうか。食事に誘えば、簡単に落とせるだなんて考えただろうか。
「それ本当? なんでそんな誤解……あ、もしかして苗字が変わったから?」
「うん、村橋くんが前畑って私を呼んだから」
「まあ、この歳で苗字が変われば、結婚したとは思われるよね。和美ぐらい綺麗なら、不倫相手として不足はないしね」
「え、なんか……ショック。そんなことするような人には全然見えなかったから」
「結構、女にだらしがない人って仕事ができたりするでしょ? マメなのよ、きっと」
「そうなのかも……」
ちょっと落ち込む。落ち込む自分にも複雑な思いはあるけど。
「で、それを聞いて、和美はどうするの? 今夜のデート」
「え、どうしよう」
「迷う余地はあるの?」
「あ、ちょっと、ちょっとだけ話がしてみたいなって思ったりはしたんだけど。でも、結婚してる人って知ってるのに二人で会うのは抵抗あるかな」
「場所は和音だっけ? 小坂くんいるなら、大丈夫じゃない? あいつがボディーガードになれるとは思えないけど、結婚してるから異性の友人を作っちゃいけないってこともないし。あ、言っておくけど、私も不倫は否定派だから」
「不倫って……。そんなこと絶対しないよ」
「わかんないよー、和美だって、惚れたらとことんなとこあるし。影の女に徹しますってタイプだもん」
そうだろうか。自分では自分のことがわからないこともある。こと恋愛に関しては。
付き合いの長い紀子がそう言うのだから、そう見える何かがあるのかもしれない。
石神さんの笑顔を思い出すと、私の心は少なくともざわつく。深入りしたら、好きになってしまうかもしれないなんて思いもよぎる。
結婚してるからパス、なんて思えるなら、すでにこんなに悩んではいないような気もする。
「じゃあ、やめておこうかな」
ぽつりとつぶやくように言うと、紀子も優しく微笑んでうなずく。
「迷うならやめておきなよ。好きになってつらい思いするのは和美だもん」
「そうだよね。うん、そうする。紀子に相談してよかった」
「そう? でもさ、最後は和美が自分で決断しなきゃいけないんだから、私は話を聞くだけだよ」
「ううん、ありがとう。紀子に相談して決めたことは、今まで良かったかなって思うことばっかりだったから、今回もこれでいいと思えるの」
「そっか。あの時は悩んだもんね。大丈夫、和美は間違ってないよ」
そう言って、紀子は私の肩にそっと手を置く。その温かさに胸が熱くなる。
あの時……、元カレがたった一度だけど浮気をした時、私はこのまま関係を続けていくか悩んだ。別れを切り出したのは私で、ショックを受けた元カレの表情は未だに脳裏に貼り付いている。
別れの言葉は彼を傷つけた。でもそれ以上に、彼は私を傷つけた。
だからやっぱり、石神さんとは会えないと思った。
その日は一日中、石神さんのことが頭から離れなかった。時計の長針を眺めている時間も長かった。
私はただ、知った顔を見つけて、挨拶程度の話をしようとしただけだったはずなのに。
はあ、と思わずため息が出た。
「どうしたの? まさかお金あわない?」
売上金を勘定する私の手元を心配そうに見つめるのは、ミゾタ靴店へ同期入社した熊井紀子だ。大学時代からの親友でもあり、現在、同じ店舗で働いている。
これまで紀子とは定期的に会ってきた。気兼ねなくなんでも話せる相手。だけど、石神さんのことはなんだか素直に話せない。
「あ、ううん、大丈夫。ごめんね、すぐに片付けるから」
「ならいいけど。今日の和美、ちょっと変だよ? もしかして、元カレのこと?」
「えっ、あ、違う違う」
「本当? 別れたのに連絡が来るって悩んでたでしょ?」
「それはもう半年も前の話。今は全然連絡ないから大丈夫なの」
「じゃあなにー? もしかして、好きな人ができたとか?」
紀子はにやにやしながら尋ねてくる。ため息を一つついただけなのに、やけにうがった見方をするものだ。
だけど、自分からはなかなか話せない悩みを話すきっかけになるのだから、私はずいぶんと彼女に助けられている。
「好きとか、そういうんじゃないの」
「男がらみの話ではあるんだ?」
「なんていうのか、結婚してるのに食事に行こうって誘ってくる男の人って初めてだから、どう理解したらいいのかなって」
「なになに? どんな話なの、それ」
好奇心に満ちた目で紀子は身を乗り出す。しかし、その手はレジのお金をコインケースに手際よく片付けているのだから、さすがというか。
「紀子はフェリーチェ知ってる? そこの宝石店だけど」
「知ってる知ってる。カッコイイ店員がいるって結構有名だよ。なに、その店員の話?」
「ん、まあ。つい最近ね、顔見知りになって」
紀子の鋭さに苦笑いしつつも、和音で石神さんと出会ったいきさつを話した。そして、彼に食事に誘われていることも。
「石神さん、結婚してるの。それなのに、って思って」
「あの人、結婚してるの? あ、でも、うわさ……」
紀子は少し不穏に口をつぐむ。私の目を気にした。そんな気がする。
「変な噂がある人?」
不安になって尋ねると、紀子は小さく息を吐き出す。
「噂だよ。和美もそうだけど、美男美女って変な噂立てられやすかったりするでしょー? 石神さんのこともただの噂かもしれないけど、一つだけ変なこと聞いたことあるよ」
「どんなこと?」
「和美には関係ない話だから食事に誘われたことはそういうことじゃないとは思うけど、石神さんね、人妻しか相手にしない人だって」
「え……」
どきっとして、言葉が出てこない。
「ほら、たまにいるでしょ? 結婚を迫られるの苦手な人。だから、石神さんもそうなのかなって思ったんだけど、結婚してるなら、割り切って付き合える女の人がいいのかもね」
「そうなんだ……」
「でも、和美には全然あてはまらないし。食事に誘ったのは、村橋くんの知り合いだからじゃない?」
私はすぐにうなずけなくて、視線を落とす。
「違うかもしれない」
「違う? どういう意味?」
「石神さん、私が結婚してるって思ってるから……」
そう口に出したら、腑に落ちた。
石神さんは優しい笑顔を見せながら、私をそんな風に見てたのかもしれない。結婚してるのに、居酒屋で一人で夕食を食べる女なんて、彼にとっては格好の餌だったかもしれない。
さみしい女に見えていただろうか。食事に誘えば、簡単に落とせるだなんて考えただろうか。
「それ本当? なんでそんな誤解……あ、もしかして苗字が変わったから?」
「うん、村橋くんが前畑って私を呼んだから」
「まあ、この歳で苗字が変われば、結婚したとは思われるよね。和美ぐらい綺麗なら、不倫相手として不足はないしね」
「え、なんか……ショック。そんなことするような人には全然見えなかったから」
「結構、女にだらしがない人って仕事ができたりするでしょ? マメなのよ、きっと」
「そうなのかも……」
ちょっと落ち込む。落ち込む自分にも複雑な思いはあるけど。
「で、それを聞いて、和美はどうするの? 今夜のデート」
「え、どうしよう」
「迷う余地はあるの?」
「あ、ちょっと、ちょっとだけ話がしてみたいなって思ったりはしたんだけど。でも、結婚してる人って知ってるのに二人で会うのは抵抗あるかな」
「場所は和音だっけ? 小坂くんいるなら、大丈夫じゃない? あいつがボディーガードになれるとは思えないけど、結婚してるから異性の友人を作っちゃいけないってこともないし。あ、言っておくけど、私も不倫は否定派だから」
「不倫って……。そんなこと絶対しないよ」
「わかんないよー、和美だって、惚れたらとことんなとこあるし。影の女に徹しますってタイプだもん」
そうだろうか。自分では自分のことがわからないこともある。こと恋愛に関しては。
付き合いの長い紀子がそう言うのだから、そう見える何かがあるのかもしれない。
石神さんの笑顔を思い出すと、私の心は少なくともざわつく。深入りしたら、好きになってしまうかもしれないなんて思いもよぎる。
結婚してるからパス、なんて思えるなら、すでにこんなに悩んではいないような気もする。
「じゃあ、やめておこうかな」
ぽつりとつぶやくように言うと、紀子も優しく微笑んでうなずく。
「迷うならやめておきなよ。好きになってつらい思いするのは和美だもん」
「そうだよね。うん、そうする。紀子に相談してよかった」
「そう? でもさ、最後は和美が自分で決断しなきゃいけないんだから、私は話を聞くだけだよ」
「ううん、ありがとう。紀子に相談して決めたことは、今まで良かったかなって思うことばっかりだったから、今回もこれでいいと思えるの」
「そっか。あの時は悩んだもんね。大丈夫、和美は間違ってないよ」
そう言って、紀子は私の肩にそっと手を置く。その温かさに胸が熱くなる。
あの時……、元カレがたった一度だけど浮気をした時、私はこのまま関係を続けていくか悩んだ。別れを切り出したのは私で、ショックを受けた元カレの表情は未だに脳裏に貼り付いている。
別れの言葉は彼を傷つけた。でもそれ以上に、彼は私を傷つけた。
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