嘘つきフェイク

水城ひさぎ

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きっかけの始まり

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 私が和音をふたたび訪れたのは、石神さんに出会ってから三週間後のことだった。

 レトロなジャズミュージックが流れる物静かな空間に落ち着きを覚える。どうもここが肌に合っているらしい。

 店内に入るとすぐ、カウンターの中に立つ青年が、グラスを手から滑り落としそうになり慌てている様子が目についた。

 小坂くんだ。懐かしい。白シャツにきつめの黒ベストはスタイリッシュな印象を与えるが、一目で彼とわかるほど、素朴な雰囲気は大学時代と変わりはない。

「小坂くん、お久しぶり」

 何より先にカウンターに近づき声をかけると、小坂くんは緊張したような笑みを浮かべた。

「前畑さん……あ、ごめん。えっと、朝霧さん、久しぶり」

 そう言った小坂くんの視線が、少しだけ私の手元に下がる。
 結婚指輪を探したのだろうか。村橋くんから私の苗字が変わったことは聞いたのだろう。彼も、結婚して苗字が変わったと思ってるかもしれない。そう思ったけど、無言で椅子に腰かけた。

「変わらないね、小坂くん」
「大した苦労してないからかな」

 小坂くんはうっすら苦笑いを浮かべる。

「それを言うなら、私もそうよ。大学時代からなんにも変わってないわ」
「なんにもってことはないだろ」
「小坂くんと同じぐらいにはいろいろあるかもね」
「今日はひとり?」

 小坂くんは後方の入り口へ視線を向ける。私がひとりでいる方がおかしく見えるようだ。

「今日もひとり。えっと、何飲もうかな」

 サラッと受け流して何気に視線をずらした私は、カウンター席の端からこちらを見つめる青年と目が合い、驚きで息を飲んだ。

「石神さん……」

 そこには石神さんがいた。私を見つめた視線を外さない。意味もなく胸が激しく打ち始める。

「え……」

 そう言ったのは小坂くんだ。私と彼を交互に見つめる。私たちが顔見知りであることは知らなかったのだろう。

 石神さんは腰をあげた。驚きで動けないでいる私にゆっくり近づいてくる。

「石神さん、いらしてたんですね……」

 目の前で足を止める彼と、すぐには目を合わせられない。

 石神さんが今日ここにいるのは偶然だろうか。それとも、私を待ってたんだろうか。
 あれから三週間経ってる。三週間も待ってたとは考えにくい。

「席を変わりませんか? 朝霧さん」
「え、あの……でも」

 無意識に助けを求めるように小坂くんを見てしまう。石神さんと話をすることに抵抗があるわけではないのに、なぜか消極的になってしまう。

「彼がめあて?」

 石神さんは続けて少しいじわるに聞く。
 そうではないと答えたら、石神さんの思うつぼだ。しかし、私が返事をする前に、彼は小坂くんに声をかけた。

「奥の個室、まだ空いてるよな。彼女と使わせてもらうよ」



 石神さんと共に個室に移動した私は、キャンドルライトの灯る薄暗い空間に緊張していた。

 正直、どうしたらいいのかわからずにいる。少なくとも、彼の誘いを無視していた。それを彼がどう思っているのか、表情から読み取ることができない。

「ご迷惑だったかな? 食事も進まないね」
「いえ……」

 石神さんは申し訳なさそうに眉をさげて、グラスにシャンパンを注ぐ。その左手にはやはり指輪が見えて、二人きりでいることに改めて戸惑う。

「どうぞ」
「ありがとうございます。石神さん、左利きなんですね」

 左手で差し出されたグラスを両手で受け取りながら、何か言わなくてはと口を開く。すると、彼の口元に柔らかな笑みが浮かんで、空気がなごむ。

「家族全員左利きなんだよ」
「そんなことあるんですね。珍しい。ご兄弟はいらっしゃるんですか?」
「兄が一人。朝霧さんは?」
「私は一人っ子なんです」
「一人っ子では、いろいろと期待をかけられるんだろうね」
「あ、……はい。両親もそれぞれ一人っ子で、私には理解できないこともあるんですけど、家のことでは苦労することもあるみたいです」
「少しわかる気がするよ」

 石神さんは少しばかりため息を吐き出す。何かに憂いているようだが、兄のいる彼には私たち家族のことはきっとわからないことで、彼の家族のことも私にはわからないだろうと思った。

「それにしても、今日は会えて良かった。正直もうダメかななんて諦めかけていたんだよ」

 少し沈黙が出来ると、石神さんは話を変えて、気恥ずかしげな笑みを見せた。

 彼はやはりこの三週間、いつ来るかもわからない私を待ち続けていたようだ。
 なんと答えて良いのかわからず、そのまま沈黙していると、彼は「迷惑なんだろうね」とそっとため息を吐き出した。

「迷惑というか」
「ああ、わかってるよ。ご主人に誤解されるようなことをしたくない気持ちはわかる」
「あ、いえ、そんな……」
「ご主人はここへ来ていることを知って?」
「それはー」

 左手にそっと右手を重ねる。指輪も何もしていない。そもそも結婚もしていない。石神さんが尋ねることは、私が彼に尋ねたいことだ。

「すみません。立ち入った質問だったね。もうご主人のことは聞かないよ。でももし、何かあるなら……」
「結婚してるのに一人でここにいるのはおかしく見えますか?」
「何か満たされないことがあるのかなと想像はしたよ」

 石神さんの視線が私の胸元に落ちるから、恥ずかしい気持ちになる。やっぱり物欲しそうに見えているのだと思えて。

「石神さんこそ……」

 声がかすれる。いたたまれなくて目線を落とす。
 私たちは満たされない何かを得ようとして、こうして一緒にいるかのようだ。

「俺? ああ、まあ、そうか」

 石神さんは前髪をくしゃりとつかむと、そのまま結婚指輪に視線を落とした。

「良くない噂でも聞いた? 誤解だと言っても、信じてもらうすべはないけどね」

 彼はそう言って、おもむろにはずした指輪をテーブルの上に置いた。傷の多い結婚指輪だ。無造作に置かれたが、それでも大切にしているもののようにしか私には見えない。

「俺は確かに、君が既婚者でも関係ない気持ちでいるよ」
「え……」
「どうせ結婚はしない。期待されても困る。だからこそ、既婚者であった方が気持ちも楽でいい。噂もあながち的はずれではないんだろう」

 石神さんは自分に立てられている噂も知っていてそういうのだろう。

「俺は君に好意がある。できたら、また会って欲しいと思っている」

 思いがけずストレートな告白に、胸ははねた。彼にまっすぐ見つめられたら、冷静な判断なんて出来なくなりそうだ。

 私だって石神さんの容姿や雰囲気を好ましく思っている。ただ素直に飛び込めないと、彼の指輪を見て我を取り戻す。

「石神さん、おかしいわ。結婚されてるのに」
「結婚なんてしてないよ」

 石神さんははっきりとそう言って、結婚指輪をジッと見つめた。その横顔に浮かぶ複雑な表情に私は惹きつけられていく。

 彼に希望を失ったような顔をさせているものはなんだろう。もし私なんかで彼が癒されるなら、なんて気持ちが芽を出す。

 しかしすぐにそんな気持ちを持ってしまった自分を恥じながら、彼に問う。

「結婚してないなんて。だって結婚指輪でしょう? それは」
「そうだよ、結婚指輪だ。それでも、結婚はしてない」
「私、そんな嘘に騙されたりしません。バカにしないでください」
「バカになんてしてない。信じてもらうすべはないが、また君に会いたい気持ちは確かだ」
「私にどんな返事をしろと言うの」
「朝霧さんは俺が結婚してるからもう会いたくないと考えてる?」

 冷静な彼の目は、ひたむきに私に向けられる。私を欲する気持ちに負けてしまいそうになるが、私は凛として答える。

「もちろんです」
「だったら話すよ。これはフェイクなんだ。本当は結婚なんてしてない」
「フェイクって……」
「言っただろう? 俺は結婚しないと。期待されても困ると。だから結婚指輪をしている」
「意味がわからないわ」
「わかる必要はない。理解してもらいたいとも思ってない。俺たちは結婚を考える間柄にはなり得ない。それでもただ君が欲しいと思った、それだけだ」

 不倫でもかまわない。夫に満たされない思いがあるなら、代わりに満たしてやろう。彼はそう言うのだ。

 ただ私を抱きたいだけ。そう言われたようで悲しくなる。

 失望にも似た気持ちにさいなまれながらも、私は彼の言葉を信じようとする気持ちが溢れてくるのを感じていた。

 彼が結婚していないということが事実なら、私には彼を拒む理由はないのだ。

「逆に……」

 そう言葉を発した時には、私は石神さんとの可能性を探ろうとしていた。

 ギュッと組み合わせた指に力を入れた。石神さんは無言で私の言葉を待つ。

「逆に、人妻でなければ、私のこと相手にしませんでしたか?」

 結婚を迫る可能性は私にだってないとは言えない。もう27歳だ。少しぐらい期待する気持ちを持つかもしれない。それを彼は望むなというのだ。

 その可能性を持つ女を、やはり彼は相手にしないのではないかと思う気持ちがその質問を言わせていた。

 私は怖くて目を伏せた。彼の返事次第で、私はどうしようとしているのか、自分でもわからない。

 石神さんは長い沈黙の後、深いため息と共に言葉を吐き出した。

「そうかもしれないな。そうでなければ、俺は君の未来に責任が持てない」

 私たちは見つめ合う。きっかけを作ったのは私だろうか。それとも彼か。静かに絡み合う視線に、私たちの恋が始まろうとしているのを感じる。
 だから私はその返事を聞いた時、結婚していないことは隠し通そう、そんな思いを胸に秘めたのだ。
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