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あなたのために
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フェリーチェを覗くと客はおらず、怜司さんの姿もなかった。店内を見回していると、女性店員が私に気づいて近づいてこようとする。
彼女はやけに親しげな笑みを浮かべている。私のことを知っているのかもしれない。
声をかけられたら怜司さんと強制的に会わなければいけなくなるかもしれない、なんて性懲りもなく怖気づいて、ぺこりと頭をさげると後ずさった。
不思議そうな表情の女性店員に背を向けて歩き出す。やっぱり無理だ。小坂くんに励まされて勢いで来たけど、怜司さんに会う勇気などまだないのだ。
帰ろう。怜司さんも、勇介も、小坂くんまでも失ってしまったけど、これで良かったのだと思える日がいつか来るはずだ。
そんな風に自分の気持ちをなぐさめていた時、地下街の喫茶店から出てきた二人連れに目が奪われた。
彼らは入り口の前でいったん立ち止まり、穏やかな雰囲気で言葉をかわす。凛としたスマートな青年の隣がやはり似合うと思わせる美しい女性の表情は、幸せに満ちているようにも見える。
女性が先に時間を気にするように立ち去り、青年は彼女の背中を優しい眼差しで見つめていた。しばらくすると青年がこちらへ向かって一歩足を踏み出した。
私は飛び上がりそうになる心臓を押さえ、くるりとかかとをひるがえす。足早に細い通路に逃げ込む。
だめだ。まだ会えない。
彼がもう会わないと言った女性と会っていたからって、私が責める理由はないけど、傷ついてもいる。やっぱり彼は、彼女を突き放すことなんて出来ないのだ。
そのまま細い通路を歩き出す。青い空が覗く階段を昇る。
何をやっているのだろう、私は。何がしたいのだろう。ため息が出る。その時だった。突然腕をつかまれた。
「え……」
驚いて振り返ろうとする私の前に青年が回り込む。行く手をふさがれ、戸惑う私にさらに彼は近づく。
「……驚かせた」
「怜司さん……どうして」
「君の姿が見えたから」
少し息を弾ませる彼の顔を見上げると、切なげに眉を下げるスーツ姿の彼と目があう。
「だからって追いかけてくるなんて。仕事中でしょう?」
「君と話す時間ならある。……今日は休み?」
「……ええ」
腕を引く。怜司さんは私の腕をつかんでいた手をすんなり離した。
「和美、今夜予定あるか?」
「え……?」
「話があるんだ」
そう言われたら、顔が引きつった。
みのりさんと、結婚するの?
さっき見た二人の穏やかな様子が思い出されて、私にその思いを駆り立てさせる。
怜司さんは少し苦笑する。
「そんな迷惑そうな顔しないでくれ。まだ君を諦められない気持ちに変わりはないんだ」
「……」
「君が戻ってくれることを願ってる」
「前みたいに? あなたはみのりさんとも、私とも、前みたいに付き合うつもり?」
「それは違う」
怜司さんはすぐさま否定し、顔を背ける私を見てハッと息を飲む。
「みのりさんと一緒のところを見たのか? だとしても誤解してるよ、君は。今日彼女と会ってたのは……」
「違うわ。……違う。わかってるの。私だってわかってる」
怜司さんがみのりさんから離れられない理由が愛情があるからじゃないことはわかってる。それでも私は、みのりさんから離れて欲しいなんて願っていて。はっきりして欲しいなんて望んでいて。その思いを口にすることは、彼の考えを否定しているようで言い出せない。
「どうしたらいいのかわからないの。怜司さんに何を望んだらいいのか」
みのりさんを大切にして欲しい。春翔くんの父親として生きて欲しい。それが二人のためになるとわかっていても、それは私の気持ちとは違うのだ。それを言えないのは、私がそれを望んではいない証拠だ。
「和美の素直な気持ちを聞かせてくれたらそれでいいんだ」
「怜司さん……」
怜司さんは私を抱きしめたそうに手を伸ばし、ためらう。この腕の中に抱きしめられたら安心できるだろう。そう思いながらも、途方にくれた目で見つめ返すしかできない。
「みのりさんと会ってたのは、和美が思うようなことでではないよ。指輪……、結婚指輪を返したんだ」
「返した……?」
「ああ」
怜司さんは短くうなずいて、左手を私の前にかざす。長くて綺麗な指に指輪はなくて。
「和美の納得いく形にしたかった。これからもみのりさんが義姉であることは変わりないが、和美が思うような関係ではもうないよ」
怜司さんは私の不安を取り除く努力をしてくれていたのだ。それに気づかされて、私は落ち込む。
「……私、小坂くんと付き合うつもりだったの」
「そう」
怜司さんは切ない目をする。
「小坂くんがうなずいてたら、あなたを裏切ってた」
「そうか」
「小坂くんにふられたからあなたのところへ戻ってきたなんて、虫のいい話よね」
「どんな理由でも、戻る気になったならそれでいい」
「……優しすぎるわ」
「そうでもないよ」
そう言って怜司さんは身をかがめ、顔を寄せてくる。
「後悔してる」
「怜司さん……?」
「君の気持ちを拒んだこと、後悔してる。それなのに君に戻ってきて欲しいなんて望む俺の方が虫のいい話だ。それでも君が好きだから……」
怜司さんの指が私の頬に触れる。
「和美は? 俺をまだ好きでいてくれる?」
知らず私も彼の頬に手を伸ばす。あまりに切ない目をするから、これ以上傷ついてほしくないと思う。
「あなたの恋人になりたいって、ずっと思ってたの……」
「和美……」
「あなたにとって唯一の人になりたい」
そう言ったら涙が浮かんでしまう。ひどいわがままを口にしたような気がして。
「叶うなら……」
「泣くな。もう君を傷つけないって決めたんだ。だから泣かなくていい」
ぽろぽろこぼれ落ちる涙を怜司さんは優しくぬぐって、そっと小さなキスをしてくれる。
「怜司さん……」
彼の首に腕を回す。
「和美」
と、優しく私を抱きしめてくれる彼を抱きしめ返す。
ずっとこうしたかった。こらえていた気持ちが抑えきれず、すがりつく。
「和美、もう何も心配しなくていい」
なだめるように優しく言った彼は、私をいつまでも抱きしめてくれていた。
フェリーチェを覗くと客はおらず、怜司さんの姿もなかった。店内を見回していると、女性店員が私に気づいて近づいてこようとする。
彼女はやけに親しげな笑みを浮かべている。私のことを知っているのかもしれない。
声をかけられたら怜司さんと強制的に会わなければいけなくなるかもしれない、なんて性懲りもなく怖気づいて、ぺこりと頭をさげると後ずさった。
不思議そうな表情の女性店員に背を向けて歩き出す。やっぱり無理だ。小坂くんに励まされて勢いで来たけど、怜司さんに会う勇気などまだないのだ。
帰ろう。怜司さんも、勇介も、小坂くんまでも失ってしまったけど、これで良かったのだと思える日がいつか来るはずだ。
そんな風に自分の気持ちをなぐさめていた時、地下街の喫茶店から出てきた二人連れに目が奪われた。
彼らは入り口の前でいったん立ち止まり、穏やかな雰囲気で言葉をかわす。凛としたスマートな青年の隣がやはり似合うと思わせる美しい女性の表情は、幸せに満ちているようにも見える。
女性が先に時間を気にするように立ち去り、青年は彼女の背中を優しい眼差しで見つめていた。しばらくすると青年がこちらへ向かって一歩足を踏み出した。
私は飛び上がりそうになる心臓を押さえ、くるりとかかとをひるがえす。足早に細い通路に逃げ込む。
だめだ。まだ会えない。
彼がもう会わないと言った女性と会っていたからって、私が責める理由はないけど、傷ついてもいる。やっぱり彼は、彼女を突き放すことなんて出来ないのだ。
そのまま細い通路を歩き出す。青い空が覗く階段を昇る。
何をやっているのだろう、私は。何がしたいのだろう。ため息が出る。その時だった。突然腕をつかまれた。
「え……」
驚いて振り返ろうとする私の前に青年が回り込む。行く手をふさがれ、戸惑う私にさらに彼は近づく。
「……驚かせた」
「怜司さん……どうして」
「君の姿が見えたから」
少し息を弾ませる彼の顔を見上げると、切なげに眉を下げるスーツ姿の彼と目があう。
「だからって追いかけてくるなんて。仕事中でしょう?」
「君と話す時間ならある。……今日は休み?」
「……ええ」
腕を引く。怜司さんは私の腕をつかんでいた手をすんなり離した。
「和美、今夜予定あるか?」
「え……?」
「話があるんだ」
そう言われたら、顔が引きつった。
みのりさんと、結婚するの?
さっき見た二人の穏やかな様子が思い出されて、私にその思いを駆り立てさせる。
怜司さんは少し苦笑する。
「そんな迷惑そうな顔しないでくれ。まだ君を諦められない気持ちに変わりはないんだ」
「……」
「君が戻ってくれることを願ってる」
「前みたいに? あなたはみのりさんとも、私とも、前みたいに付き合うつもり?」
「それは違う」
怜司さんはすぐさま否定し、顔を背ける私を見てハッと息を飲む。
「みのりさんと一緒のところを見たのか? だとしても誤解してるよ、君は。今日彼女と会ってたのは……」
「違うわ。……違う。わかってるの。私だってわかってる」
怜司さんがみのりさんから離れられない理由が愛情があるからじゃないことはわかってる。それでも私は、みのりさんから離れて欲しいなんて願っていて。はっきりして欲しいなんて望んでいて。その思いを口にすることは、彼の考えを否定しているようで言い出せない。
「どうしたらいいのかわからないの。怜司さんに何を望んだらいいのか」
みのりさんを大切にして欲しい。春翔くんの父親として生きて欲しい。それが二人のためになるとわかっていても、それは私の気持ちとは違うのだ。それを言えないのは、私がそれを望んではいない証拠だ。
「和美の素直な気持ちを聞かせてくれたらそれでいいんだ」
「怜司さん……」
怜司さんは私を抱きしめたそうに手を伸ばし、ためらう。この腕の中に抱きしめられたら安心できるだろう。そう思いながらも、途方にくれた目で見つめ返すしかできない。
「みのりさんと会ってたのは、和美が思うようなことでではないよ。指輪……、結婚指輪を返したんだ」
「返した……?」
「ああ」
怜司さんは短くうなずいて、左手を私の前にかざす。長くて綺麗な指に指輪はなくて。
「和美の納得いく形にしたかった。これからもみのりさんが義姉であることは変わりないが、和美が思うような関係ではもうないよ」
怜司さんは私の不安を取り除く努力をしてくれていたのだ。それに気づかされて、私は落ち込む。
「……私、小坂くんと付き合うつもりだったの」
「そう」
怜司さんは切ない目をする。
「小坂くんがうなずいてたら、あなたを裏切ってた」
「そうか」
「小坂くんにふられたからあなたのところへ戻ってきたなんて、虫のいい話よね」
「どんな理由でも、戻る気になったならそれでいい」
「……優しすぎるわ」
「そうでもないよ」
そう言って怜司さんは身をかがめ、顔を寄せてくる。
「後悔してる」
「怜司さん……?」
「君の気持ちを拒んだこと、後悔してる。それなのに君に戻ってきて欲しいなんて望む俺の方が虫のいい話だ。それでも君が好きだから……」
怜司さんの指が私の頬に触れる。
「和美は? 俺をまだ好きでいてくれる?」
知らず私も彼の頬に手を伸ばす。あまりに切ない目をするから、これ以上傷ついてほしくないと思う。
「あなたの恋人になりたいって、ずっと思ってたの……」
「和美……」
「あなたにとって唯一の人になりたい」
そう言ったら涙が浮かんでしまう。ひどいわがままを口にしたような気がして。
「叶うなら……」
「泣くな。もう君を傷つけないって決めたんだ。だから泣かなくていい」
ぽろぽろこぼれ落ちる涙を怜司さんは優しくぬぐって、そっと小さなキスをしてくれる。
「怜司さん……」
彼の首に腕を回す。
「和美」
と、優しく私を抱きしめてくれる彼を抱きしめ返す。
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