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愛なんてなくてもいい
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*
昨夜はなかなか寝付けなかった。
化粧の乗らない肌を眺めながら、ため息をつく。
肌の調子がよくないと、どうしてこうも気持ちが塞ぐのだろう。今日一日、憂鬱な気分で過ごさないといけない。
そう覚悟していたものの、昨日の努力の甲斐あって、始業から一日終わりの打ち合わせまで、普段よりスムーズに済んだ。
「企画の花村さんがむちゃぶりしてくるって、開発でうわさになってるみたいね」
御園さんはコーヒーを片手に、愉快そうに笑う。
この頃の私たちは、打ち合わせ終わりに個室でひと息つきながら、情報交換と称しての会話を楽しむようになっていた。
「えぇ? ほんとうー?」
蓮が開発部で私の話をよく聞くって言っていたのは、このことだったのだろうか。
「なかなか面白い企画を考えてくるって、評判らしいわよ」
「褒められてる?」
「認められてきたっていう証よ」
「第三企画の初の大仕事だもの。どうしても成功させたいわよね」
そうね、と御園さんはうなずいて、コーヒーを飲み終えると早速ファイルを束ねた。
「昨日はかなり残業したらしいじゃない。今日はもう帰るといいわ。ずいぶん疲れた顔してるもの」
「あっ、これは別にね……」
恋愛の悩みで化粧乗りが悪いなんて言い出せず、気まずそうにする私を、彼女は誤解したみたいだった。
「ほら、みんなももう帰るみたいよ。明日やれることは明日やりましょう」
御園さんに急かされて、荷物をまとめると会社を出た。
地下鉄に乗り、自宅アパートの最寄り駅に着いても、昨日のように蓮とは会わなかった。
奈緒さんと会ってるのかもしれない。
蓮と会う日の方が少ないのに、余計な妄想だけはふくらんだ。
改札を出て、大通りの脇にある薄暗い路地の前で足を止めた。
線路沿いの道を選ぼうとしたのは、蓮の暮らすマンションの前を通る勇気がなかったからだ。
ずっと使い慣れていた道なのに、今日に限って人通りがない。
前へ進むのをちゅうちょしてしまう。一旦、使うのをやめた道は景色を変えてしまっている。目の前に広がる夜の闇に、吸い込まれるんじゃないかと怖くなってしまった。
やっぱり、マンションの前を通って帰ろう。
しかし、その判断を私はすぐに後悔した。
「あら、あなた……昨日の」
マンションの前を通りがかった時、エントランスから出てきた奈緒さんが私に声をかけてきた。
「こんばんは。小嶋奈緒です。あなたは?」
「花村佳澄です」
ご丁寧に名乗ってしまったけど、どうして自己紹介してるのだろう。
いよいよ、流されやすい自分の性格に問題がある、と自戒するけども、すっかり奈緒さんのペースに巻き込まれ、立ち去るに立ち去れなくなってしまった。
「蓮、いないの。チャイム鳴らしても出てこないし。留守なのか、居留守なのか……」
いまいましそうに彼女はつぶやく。
奈緒さんは蓮の部屋の場所、知ってるんだ。
あのベッドで、彼女も抱かれたんだろうか……。
蓮は遊び慣れてるみたいだったし、いちいち女性関係なんて気にしていられない。でもやっぱり、気になった。
「ねー、駅前のカフェに行かない?」
初対面と言ってもいいのに、やたらと気安く、ラルゴへ行こうと彼女は私を誘った。
「え……」
「いいでしょ? ちょうど、あなたにも会いたいなって思ってたの」
「どうして私に……」
「だって、蓮の彼女さんでしょ? 蓮は否定したけど、ピンと来ちゃった」
奈緒さんは誤解してるようだけど、蓮の彼女だったら何の用があるって言うのだろう。
戸惑う私などおかまいなしに、「行きましょ」と、歩き出す彼女を仕方なく追いかけて、ラルゴに入った。
「彼女じゃないです」
コーヒーを購入し、窓際の席に向かい合って座るとようやく、否定できた。
「ほんとに? 同僚って感じしないけど。だって蓮、今の会社に入って、まだ2か月ぐらいでしょ?」
知り合って短期間のわりに仲良さそうだから、昔からの知り合いじゃないかと疑ったのだろうか。
「そう言われても、困ります」
「ふーん。ほんとに同僚なんだ。ピンと来たんだけどなぁ。違ったんだ」
予想がはずれたのが残念だったのか、奈緒さんはつまらなさそうにそう言って、コーヒーを口もとに運んだ。
「蓮、仕事がんばってる?」
私が彼女じゃないとハッキリしたからか、私が知ってそうな会社での彼の様子を尋ねてきた。
「配属部署が違うのでよくわからないです」
「部署が違うのに、仲良くしてるの?」
無難に答えたつもりだったのに、またもや、奈緒さんは引っかかりを覚えたみたい。
「仲良くはないです。昨日はたまたま一緒にいただけで」
「じゃあ、私、めちゃくちゃ失礼なことしてない?」
「まあ……」
苦笑いすると、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「私の早とちりね。でも心配だったの、蓮のこと。周りに何の相談もなく、病院辞めたみたいだったから」
誤解がとけても、私を解放してくれる気はないらしい。きっとまだ、私が彼女なんじゃないかって疑ってるんだろう。
そうじゃなきゃ、蓮と親しくないと主張する私に個人的な話をするわけがない。
「相談もなく、辞めたんですか?」
仕方なく、会話に付き合う。
「蓮ね、東崎大病院で働いてたのよ。それが急に辞めて、ヘルスケア関連の企業に就職したっていうじゃない。蓮のお兄さんの結婚が決まった矢先だったから、何かあったんじゃないかと思って、気になっていたの」
「お兄さんの結婚……?」
初耳だった。蓮にお兄さんがいることも知らなかった。
「最近、入籍したの。お兄さんは東崎大病院の整形外科医よ」
「お兄さんも、東崎大病院で働いてるんですか?」
「そうよ。来春には開業するから病院は辞めるって聞いたわ。だから余計に、どうして蓮まで……って思って。今までずっと一緒に働いてきたのに、今さら、良から離れる理由がわからない」
良というのは、お兄さんの名前だろう。
奈緒さんは、蓮もお兄さんも呼び出てできるような関係にある女性なのだ。
やっぱり、奈緒さんは蓮にとって特別な女性なのだろう。胸が騒いだ。
「病院を辞めた理由に心当たりはないんですか?」
そう問うと、奈緒さんは考え込むように、コーヒーカップの中をじっと見つめた。
「私のせいなのかな……。良と蓮は仲のいい兄弟だったのに」
「今は違うんですか?」
もし兄弟に確執があるなら、その理由は自分にあるかもしれないと、彼女はため息をつく。
「私ね、蓮と付き合ってたの。ずいぶん前に」
奈緒さんは、さらりとそう告白した。
胸がちくりと傷んだけど、私は表情を変えずにいられたと思う。たぶんそうだろうって、心のどこかで思ってたから。
「別れてから、蓮に恋人がいるなんてうわさも聞かなかったから、気がかりだったの」
蓮はもう何年も前に恋人と別れて、それ以降、彼女はいないと言っていた。
その別れた恋人がきっと、奈緒さん。
彼は恋人ができないんじゃない。作らないのだ。わざと。
「奈緒さんが忘れられないんですね」
答えを見つけた気がして、私はそう言った。
抱けるなら誰でもいい。
蓮はそう言った。
奈緒さんじゃないなら、誰だって一緒だから。
そう考えれば、つじつまが合う。
「やっぱりあなたもそう思う?」
奈緒さんの中に、まだ蓮に愛されてる確信があるから出てくる問いかけなのだと気づいたら、動揺してしまった。
「あ……、よく知りもしないのに、変なこと言ってすみません」
目をそらした私をごまかすように、頭をさげた。
「私ね、蓮と付き合う前、良と付き合っていたの」
「え、お兄さんとも?」
「驚いた? 良とは職場で知り合って、すぐに恋仲になったわ。でも長く続かなかった。良と別れてからしばらくして、友人に誘われて合コンに行ったの。それが、6年ぐらい前になるのかな。そこに蓮も来てた。まだ蓮は学生だったけど、出会った瞬間に、彼こそ運命の人! だなんて思ったわ」
「そうなんですか」
私は何を聞かされてるんだろう。黙っていると、彼女は照れくさそうに笑った。
「私もまだ若かったから、カッコいい蓮にただ惹かれただけだったのにね。若い時は運命なんて、簡単に起きるの」
「お互いに運命だと思ったから、付き合ったんですよね」
6年前の蓮は、お遊びで彼女に近づいたわけじゃないだろう。
奈緒さんはこくりとうなずく。
「話すうちに、良の歳の離れた弟だってわかったけど、蓮と付き合いたかった。だから、良とのことは内緒にしてお付き合いしたの」
「なかなか話せませんよね」
「でも、内緒にしてたのがいけなかった。良とふたりで映ってる写真を見られちゃって。蓮は勝手に誤解して、私に別れ話を持ち出したの」
「誤解ですか」
「そう。良の身代わりにしたと思ったみたい。否定したけど、彼も若かったし、私が許せなかったんだと思う」
だから、昨日の蓮は奈緒さんに冷たかったのだろうか。
「今でも、許せないでいるんでしょうか」
「蓮も東崎大病院に就職したのを知って、良へのわだかまりはなくなったんだとばっかり思ってたんだけど。彼、きっと私にはまだ怒ってるのね」
それはそうよね、と奈緒さんは言う。
お兄さんに罪はない。ただ好きになった人が、お兄さんの元彼女だっただけだ。でも、奈緒さんは知ってて付き合ったのだから、身代わりだったと蓮が思うのも仕方なかったのかもしれない。
昨日は、あのあと、蓮はさっさと帰ってしまったらしい。取り付く島もなかったようだ。
それじゃあ、兄弟の確執なんてなくて、奈緒さんにだけ複雑な思いを抱えてるってことになる。
それはやっぱり、彼女を忘れられないでいるからだろうか。
許せないのも、恋人を作らないでいるのも全部、奈緒さんにとらわれてるから……。
そのことと、蓮が病院をやめたことに関係があるのかわからないけれど、私の心は穏やかではなかった。
「奈緒さんは今でも黒瀬さんの心配をされてるんですね」
「……うん、そう。蓮の心配ばかりしてる。私が彼の人生を狂わせちゃったのかもって、悩んだこともあったわ。でもあの時は、良の弟だからって理由で、蓮をあきらめるなんてできなかった」
「黒瀬さんが好きなんですか?」
別れた男性のために、病院をやめた理由まで心配して会いに来るなんて、それ以外に考えられない。
ちらりと私をうかがった彼女は、緊張ぎみに深呼吸をする。
胸に秘めた大切な思いを告白する前の呼吸音に、どきりとした。確認してはいけない質問をしてしまったんだと後悔した。
「そうかも。蓮とよりを戻したいって、何度も考えたの。もう、6年も経ってしまったけど、私はまだ蓮以外の人とは付き合えないでいるの」
奈緒さんの正直な気持ちに私は何も言えなかった。
困った顔をしていたのだと思う。
「話し過ぎちゃったみたい。なんだかあなた、話しやすくて。でも聞いてくれてありがとう。少しすっきりしました」
と、一方的に笑顔を見せて、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。
彼女がラルゴを出ていっても、すぐには立ち上がれないでいた。
ふたりはお互いに、蓮のお兄さんへの感情は解決させている。でも、6年もの長い間、誰とも付き合えないでいる。
それは、ふたりが想い合ってるからだろう。
今もまだ、蓮は奈緒さんの気持ちを誤解してて、お兄さんの身代わりになりたくないと抵抗してるんだろうけど、誤解がとけたら、戻れる関係にあるのだ。
私の入る隙なんて全然ない。
私だって、6年ぶりに伊達さんと再会した。あの頃、彼に抱いていた思いは私の中にまだ存在してた。
まして、蓮と奈緒さんは付き合っていたのだ。
6年で簡単に消えるものではないだろう。
「あ……」
バッグの中で光るスマホを取り出して、息を飲む。
伊達さんからメールが届いていた。
『紅葉ドライブなんてどうかな? 車で2時間ぐらいのところ。佳澄ちゃんの行きたい場所があれば、また探すから遠慮なく言って』
しまった。
すっかり返信を忘れていた。
彼なりに悩んで、近場の紅葉スポットを探してくれたのだろう。
行き先のリンクを眺めながら、近くに風花屋旅館があるのに気づいた。風花屋といえば、加奈江が雰囲気のいい旅館だからと勧めてくれた旅館だ。
私が全然返事をしないから、もしかしたら、伊達さんは加奈江に相談したのかもしれない。困らせてしまったのだろう。
『日帰りで行けそうですね。今がちょうど紅葉の見頃ですよね。楽しみにしてます』
優等生のように、あたりさわりのない返事をすぐに送った。
ふたりきりで出かけたりして、キスされそうになったらどうしよう。
そういう思いはあったけれど、不安だからやっぱり行きたくないなんて言えなかった。
蓮に気持ちを伝えて、伊達さんと出かけないでほしいって言われたら、断ることもできたけど、誰かのせいにしなければ、断る勇気もなかった。
私はずっと、綺麗事の中で生きてきたんだ。
傷つきたくなくて、誰も傷つけたくなくて、なりふりかまわず追いかける、本気の恋なんてしたことなかった。
きっとこれからも、しないと思う。これは私の性格だから。
伊達さんと出かけるのはこれで最後にしよう。
伊達さんは憧れの人で、好きな人じゃない。キスをされたことで、それに気づいてしまったから。
だからあの日、私は蓮に会いに行ったんだろう。傘を貸したい、なんて理由をつけて。
でも、蓮と結ばれる日は来ないだろう。私たちは出会いからずっと、体だけのつながりしかなかった。恋と呼べるものなんて、何もなかった。
私はお見合いをしよう。
仕事を続けながら、恋愛もできる人と幸せになれたらいいと思う。
それが一番、私の生活と性格に合った恋愛なのだと思った。
昨夜はなかなか寝付けなかった。
化粧の乗らない肌を眺めながら、ため息をつく。
肌の調子がよくないと、どうしてこうも気持ちが塞ぐのだろう。今日一日、憂鬱な気分で過ごさないといけない。
そう覚悟していたものの、昨日の努力の甲斐あって、始業から一日終わりの打ち合わせまで、普段よりスムーズに済んだ。
「企画の花村さんがむちゃぶりしてくるって、開発でうわさになってるみたいね」
御園さんはコーヒーを片手に、愉快そうに笑う。
この頃の私たちは、打ち合わせ終わりに個室でひと息つきながら、情報交換と称しての会話を楽しむようになっていた。
「えぇ? ほんとうー?」
蓮が開発部で私の話をよく聞くって言っていたのは、このことだったのだろうか。
「なかなか面白い企画を考えてくるって、評判らしいわよ」
「褒められてる?」
「認められてきたっていう証よ」
「第三企画の初の大仕事だもの。どうしても成功させたいわよね」
そうね、と御園さんはうなずいて、コーヒーを飲み終えると早速ファイルを束ねた。
「昨日はかなり残業したらしいじゃない。今日はもう帰るといいわ。ずいぶん疲れた顔してるもの」
「あっ、これは別にね……」
恋愛の悩みで化粧乗りが悪いなんて言い出せず、気まずそうにする私を、彼女は誤解したみたいだった。
「ほら、みんなももう帰るみたいよ。明日やれることは明日やりましょう」
御園さんに急かされて、荷物をまとめると会社を出た。
地下鉄に乗り、自宅アパートの最寄り駅に着いても、昨日のように蓮とは会わなかった。
奈緒さんと会ってるのかもしれない。
蓮と会う日の方が少ないのに、余計な妄想だけはふくらんだ。
改札を出て、大通りの脇にある薄暗い路地の前で足を止めた。
線路沿いの道を選ぼうとしたのは、蓮の暮らすマンションの前を通る勇気がなかったからだ。
ずっと使い慣れていた道なのに、今日に限って人通りがない。
前へ進むのをちゅうちょしてしまう。一旦、使うのをやめた道は景色を変えてしまっている。目の前に広がる夜の闇に、吸い込まれるんじゃないかと怖くなってしまった。
やっぱり、マンションの前を通って帰ろう。
しかし、その判断を私はすぐに後悔した。
「あら、あなた……昨日の」
マンションの前を通りがかった時、エントランスから出てきた奈緒さんが私に声をかけてきた。
「こんばんは。小嶋奈緒です。あなたは?」
「花村佳澄です」
ご丁寧に名乗ってしまったけど、どうして自己紹介してるのだろう。
いよいよ、流されやすい自分の性格に問題がある、と自戒するけども、すっかり奈緒さんのペースに巻き込まれ、立ち去るに立ち去れなくなってしまった。
「蓮、いないの。チャイム鳴らしても出てこないし。留守なのか、居留守なのか……」
いまいましそうに彼女はつぶやく。
奈緒さんは蓮の部屋の場所、知ってるんだ。
あのベッドで、彼女も抱かれたんだろうか……。
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「ねー、駅前のカフェに行かない?」
初対面と言ってもいいのに、やたらと気安く、ラルゴへ行こうと彼女は私を誘った。
「え……」
「いいでしょ? ちょうど、あなたにも会いたいなって思ってたの」
「どうして私に……」
「だって、蓮の彼女さんでしょ? 蓮は否定したけど、ピンと来ちゃった」
奈緒さんは誤解してるようだけど、蓮の彼女だったら何の用があるって言うのだろう。
戸惑う私などおかまいなしに、「行きましょ」と、歩き出す彼女を仕方なく追いかけて、ラルゴに入った。
「彼女じゃないです」
コーヒーを購入し、窓際の席に向かい合って座るとようやく、否定できた。
「ほんとに? 同僚って感じしないけど。だって蓮、今の会社に入って、まだ2か月ぐらいでしょ?」
知り合って短期間のわりに仲良さそうだから、昔からの知り合いじゃないかと疑ったのだろうか。
「そう言われても、困ります」
「ふーん。ほんとに同僚なんだ。ピンと来たんだけどなぁ。違ったんだ」
予想がはずれたのが残念だったのか、奈緒さんはつまらなさそうにそう言って、コーヒーを口もとに運んだ。
「蓮、仕事がんばってる?」
私が彼女じゃないとハッキリしたからか、私が知ってそうな会社での彼の様子を尋ねてきた。
「配属部署が違うのでよくわからないです」
「部署が違うのに、仲良くしてるの?」
無難に答えたつもりだったのに、またもや、奈緒さんは引っかかりを覚えたみたい。
「仲良くはないです。昨日はたまたま一緒にいただけで」
「じゃあ、私、めちゃくちゃ失礼なことしてない?」
「まあ……」
苦笑いすると、彼女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「私の早とちりね。でも心配だったの、蓮のこと。周りに何の相談もなく、病院辞めたみたいだったから」
誤解がとけても、私を解放してくれる気はないらしい。きっとまだ、私が彼女なんじゃないかって疑ってるんだろう。
そうじゃなきゃ、蓮と親しくないと主張する私に個人的な話をするわけがない。
「相談もなく、辞めたんですか?」
仕方なく、会話に付き合う。
「蓮ね、東崎大病院で働いてたのよ。それが急に辞めて、ヘルスケア関連の企業に就職したっていうじゃない。蓮のお兄さんの結婚が決まった矢先だったから、何かあったんじゃないかと思って、気になっていたの」
「お兄さんの結婚……?」
初耳だった。蓮にお兄さんがいることも知らなかった。
「最近、入籍したの。お兄さんは東崎大病院の整形外科医よ」
「お兄さんも、東崎大病院で働いてるんですか?」
「そうよ。来春には開業するから病院は辞めるって聞いたわ。だから余計に、どうして蓮まで……って思って。今までずっと一緒に働いてきたのに、今さら、良から離れる理由がわからない」
良というのは、お兄さんの名前だろう。
奈緒さんは、蓮もお兄さんも呼び出てできるような関係にある女性なのだ。
やっぱり、奈緒さんは蓮にとって特別な女性なのだろう。胸が騒いだ。
「病院を辞めた理由に心当たりはないんですか?」
そう問うと、奈緒さんは考え込むように、コーヒーカップの中をじっと見つめた。
「私のせいなのかな……。良と蓮は仲のいい兄弟だったのに」
「今は違うんですか?」
もし兄弟に確執があるなら、その理由は自分にあるかもしれないと、彼女はため息をつく。
「私ね、蓮と付き合ってたの。ずいぶん前に」
奈緒さんは、さらりとそう告白した。
胸がちくりと傷んだけど、私は表情を変えずにいられたと思う。たぶんそうだろうって、心のどこかで思ってたから。
「別れてから、蓮に恋人がいるなんてうわさも聞かなかったから、気がかりだったの」
蓮はもう何年も前に恋人と別れて、それ以降、彼女はいないと言っていた。
その別れた恋人がきっと、奈緒さん。
彼は恋人ができないんじゃない。作らないのだ。わざと。
「奈緒さんが忘れられないんですね」
答えを見つけた気がして、私はそう言った。
抱けるなら誰でもいい。
蓮はそう言った。
奈緒さんじゃないなら、誰だって一緒だから。
そう考えれば、つじつまが合う。
「やっぱりあなたもそう思う?」
奈緒さんの中に、まだ蓮に愛されてる確信があるから出てくる問いかけなのだと気づいたら、動揺してしまった。
「あ……、よく知りもしないのに、変なこと言ってすみません」
目をそらした私をごまかすように、頭をさげた。
「私ね、蓮と付き合う前、良と付き合っていたの」
「え、お兄さんとも?」
「驚いた? 良とは職場で知り合って、すぐに恋仲になったわ。でも長く続かなかった。良と別れてからしばらくして、友人に誘われて合コンに行ったの。それが、6年ぐらい前になるのかな。そこに蓮も来てた。まだ蓮は学生だったけど、出会った瞬間に、彼こそ運命の人! だなんて思ったわ」
「そうなんですか」
私は何を聞かされてるんだろう。黙っていると、彼女は照れくさそうに笑った。
「私もまだ若かったから、カッコいい蓮にただ惹かれただけだったのにね。若い時は運命なんて、簡単に起きるの」
「お互いに運命だと思ったから、付き合ったんですよね」
6年前の蓮は、お遊びで彼女に近づいたわけじゃないだろう。
奈緒さんはこくりとうなずく。
「話すうちに、良の歳の離れた弟だってわかったけど、蓮と付き合いたかった。だから、良とのことは内緒にしてお付き合いしたの」
「なかなか話せませんよね」
「でも、内緒にしてたのがいけなかった。良とふたりで映ってる写真を見られちゃって。蓮は勝手に誤解して、私に別れ話を持ち出したの」
「誤解ですか」
「そう。良の身代わりにしたと思ったみたい。否定したけど、彼も若かったし、私が許せなかったんだと思う」
だから、昨日の蓮は奈緒さんに冷たかったのだろうか。
「今でも、許せないでいるんでしょうか」
「蓮も東崎大病院に就職したのを知って、良へのわだかまりはなくなったんだとばっかり思ってたんだけど。彼、きっと私にはまだ怒ってるのね」
それはそうよね、と奈緒さんは言う。
お兄さんに罪はない。ただ好きになった人が、お兄さんの元彼女だっただけだ。でも、奈緒さんは知ってて付き合ったのだから、身代わりだったと蓮が思うのも仕方なかったのかもしれない。
昨日は、あのあと、蓮はさっさと帰ってしまったらしい。取り付く島もなかったようだ。
それじゃあ、兄弟の確執なんてなくて、奈緒さんにだけ複雑な思いを抱えてるってことになる。
それはやっぱり、彼女を忘れられないでいるからだろうか。
許せないのも、恋人を作らないでいるのも全部、奈緒さんにとらわれてるから……。
そのことと、蓮が病院をやめたことに関係があるのかわからないけれど、私の心は穏やかではなかった。
「奈緒さんは今でも黒瀬さんの心配をされてるんですね」
「……うん、そう。蓮の心配ばかりしてる。私が彼の人生を狂わせちゃったのかもって、悩んだこともあったわ。でもあの時は、良の弟だからって理由で、蓮をあきらめるなんてできなかった」
「黒瀬さんが好きなんですか?」
別れた男性のために、病院をやめた理由まで心配して会いに来るなんて、それ以外に考えられない。
ちらりと私をうかがった彼女は、緊張ぎみに深呼吸をする。
胸に秘めた大切な思いを告白する前の呼吸音に、どきりとした。確認してはいけない質問をしてしまったんだと後悔した。
「そうかも。蓮とよりを戻したいって、何度も考えたの。もう、6年も経ってしまったけど、私はまだ蓮以外の人とは付き合えないでいるの」
奈緒さんの正直な気持ちに私は何も言えなかった。
困った顔をしていたのだと思う。
「話し過ぎちゃったみたい。なんだかあなた、話しやすくて。でも聞いてくれてありがとう。少しすっきりしました」
と、一方的に笑顔を見せて、コーヒーを飲み干すと立ち上がった。
彼女がラルゴを出ていっても、すぐには立ち上がれないでいた。
ふたりはお互いに、蓮のお兄さんへの感情は解決させている。でも、6年もの長い間、誰とも付き合えないでいる。
それは、ふたりが想い合ってるからだろう。
今もまだ、蓮は奈緒さんの気持ちを誤解してて、お兄さんの身代わりになりたくないと抵抗してるんだろうけど、誤解がとけたら、戻れる関係にあるのだ。
私の入る隙なんて全然ない。
私だって、6年ぶりに伊達さんと再会した。あの頃、彼に抱いていた思いは私の中にまだ存在してた。
まして、蓮と奈緒さんは付き合っていたのだ。
6年で簡単に消えるものではないだろう。
「あ……」
バッグの中で光るスマホを取り出して、息を飲む。
伊達さんからメールが届いていた。
『紅葉ドライブなんてどうかな? 車で2時間ぐらいのところ。佳澄ちゃんの行きたい場所があれば、また探すから遠慮なく言って』
しまった。
すっかり返信を忘れていた。
彼なりに悩んで、近場の紅葉スポットを探してくれたのだろう。
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私が全然返事をしないから、もしかしたら、伊達さんは加奈江に相談したのかもしれない。困らせてしまったのだろう。
『日帰りで行けそうですね。今がちょうど紅葉の見頃ですよね。楽しみにしてます』
優等生のように、あたりさわりのない返事をすぐに送った。
ふたりきりで出かけたりして、キスされそうになったらどうしよう。
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私はずっと、綺麗事の中で生きてきたんだ。
傷つきたくなくて、誰も傷つけたくなくて、なりふりかまわず追いかける、本気の恋なんてしたことなかった。
きっとこれからも、しないと思う。これは私の性格だから。
伊達さんと出かけるのはこれで最後にしよう。
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だからあの日、私は蓮に会いに行ったんだろう。傘を貸したい、なんて理由をつけて。
でも、蓮と結ばれる日は来ないだろう。私たちは出会いからずっと、体だけのつながりしかなかった。恋と呼べるものなんて、何もなかった。
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