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消えた夢の軌跡
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はじめてこの地に足を下ろしてから、一ヶ月が過ぎようとしている。寒さの増した観光地はあいかわらず混雑しているが、年末になればもっと混み合うのだろうか。私はあと何回、この地を訪れるだろう。
タクシー乗り場の方へ歩いていくと、見慣れた陽仁さんの車がちょうどロータリーへ入ってくるところだった。
一度、彼に駅からろまん亭までの送迎をお願いしてから、電車で来るときは必ず迎えに来てくれる。あきれてしまうぐらい親切な人だ。その優しさに甘えてる私も私だけれど。
「おはよう。今日は寒いね。ずっと曇りみたいだ」
助手席に乗り込む私にそう言って、彼はすぐに車を発進させた。
「雨降るかな。傘、忘れてきちゃった」
フロントガラスからのぞき込むようにして、空を見上げる。遠くでたなびく雲は重たそうな灰色で、山の方は雨が降っているかもしれないと思う。
「明日は降るかもね。いいよ、あとで持っていく。美術館に貸し出し用の傘あるからさ、都合いいときに返してくれれば」
「それだったら、私が美術館まで行きます」
「歩くと距離あるよ。遠慮しないで」
「……じゃあ、お願いしようかな。明日は弦さんのさんぽに行きたいし」
そう言ってみて、つづみさんなら何本か傘を持ってるかもしれない、そう気づいたけど、笑顔の陽仁さんにまた会いたいような気がして、そのまま黙っていた。
「3時ぐらいに持っていくよ」
「おやつ、用意しますね。父のレシピにレアチーズケーキがあって。今日は作って持ってきたんです」
ひざの上に乗せた真っ白な紙袋を軽く持ち上げてみせると、「それは楽しみだな」って彼はほほえむ。
「昨日の夜、作ったの?」
「はい。残業もなくて、時間があったから」
「毎週こっちに来てると大変だよね」
「弦さんに会うと、ふしぎと疲れが取れるんです。つづみさんは面倒見てくれるっていうけど、やっぱり引き取ろうかなぁ」
「弦さんはすごいなぁ。じゃあ、毎週来てるのは弦さんのためなんだ?」
彼は苦笑しつつ、茶目っ気たっぷりに尋ねてくる。
「あ、まあ……」
あいまいにごまかす。
正直、週五日労働して、週末になるとこっちへ来てろまん亭で過ごすのは大変な毎日だった。
その生活ができるのは、陶芸の青年を探すためなんて話したら、陽仁さんも一緒になって探してくれるような気がして言い出せないでいる。今のところ、村井さんしか手がかりにつながりそうな人は見つかってなくて、その村井さんからの連絡もなしのつぶてだった。
長い坂道をのぼる車がカーブを曲がると、ろまん亭が見えてきた。すっかり見慣れてしまった光景に安心感さえ覚える。空気もきれいだし、買い物には不便だけど、たまに来るだけだから困ることはない。今ではいい隠れ家になってるとも思う。
店の前で私をおろすと、陽仁さんは3時にまた来るよと言って帰っていった。
「弦さん、こんにちは」
玄関のカギを開ける前に庭にまわって、駆け寄ってくる弦さんの頭をなでる。彼はいつもうれしそうに目を細め、私に抱きついてこようとする。
「あっ、ちょっと待って。荷物置いてくるから」
雨戸を一枚外から開けて、縁側にカバンと紙袋を置くと、足もとにいる弦さんの前にしゃがんで、抱きついてくる彼を抱きとめる。
「お腹すいたの? それともさんぽ?」
弦さんは一日二回、さんぽに行く。朝はつづみさんが起きた都合で、午後もつづみさんが行きたくなったときに行くらしい。
「ああ、望ちゃん、来てたんだ。今日も電車?」
庭先に車がないからか、つづみさんは壊れた柵から出てきてそう言う。
「はい。陽仁さんが迎えに来てくれて、さっき」
「で、陽仁は?」
「帰りました。3時にまた来るって」
「なんだ。迎えに行っただけか」
すぐに帰るなんてとあきれたように言うけど、用事もないのに迎えに来てくれる方がおかしいと思う。
「まあでも、望ちゃんに少しでも会えるならってとこだろうな」
「なに言ってるんですか」
「付き合ってねぇの?」
「付き合ってないですよ。つづみさんの勘違いです」
いい加減、まどわすのはやめてほしい。陽仁さんは親切にしてくれるけれど、いい雰囲気には全然ならない。
勝手な妄想にあきれる私を、彼はじっと見つめてくる。
「じゃあ、監視?」
「は? 監視ってなんですか」
「好きでもない女につきまとう理由なんてそのぐらいしかないだろ」
何を言うのだ。信じられない思いでつづみさんを眺めるが、彼は涼しい顔で弦さんの頭をなでている。怒るのがバカらしくなるような笑顔で弦さんをかまうから、批難する気もそがれてしまう。
「そう言えば、つづみさんに聞きたいことがあったんです」
「ん? なに」
「陶芸の話です」
「やる気になった?」
「そうじゃなくてですね、裏の作業場のことです。あの作業場、父がどなたかのために作ったみたいなんです」
「ろまん亭の客じゃないのか? 陶芸がやりたいっていうお気に入りの客がいたんだろ」
前にもそう言っただろ? と面倒くさそうに彼は眉をひそめる。
「そのお客さんなんですけど、どなたかご存知ですか?」
「誰って……知らないな。俺がここに来たときは工事中だったしな。永朔さんが使うのか聞いたら、陶芸やってもらいたいやつがいるって言ったからさー、ろまん亭の客かなって思ったんだよ」
「じゃあ、心当たりは全然?」
つづみさんは肩をすくめる。何にも知らないみたい。
「あ、陽仁は? 陽仁なら知ってるんじゃないか?」
「知らないみたいです。知ってたら、もう教えてくれてると思うし」
「そりゃそうだよな。じゃあ、お手上げだ。俺は陽仁ほどこの辺に詳しくないしな」
つづみさんはいつもここで書道に向き合ってるだけで、人付き合いはほとんどしてないのだろう。私が知る限りでも、弦さんのさんぽのときぐらいしか外に出てこない。だからこそ、陽仁さんがせっせとお世話してるんだろうけれど。
過度な期待をしてたわけじゃないけど、すくに手詰まりになってしまうから、がっかりする。やっぱり、陶芸の青年を見つけるのは無理なのだろうか。
「つづみさんはどうしてここに来たんですか? 土地勘があるわけでもないのに、わざわざここに住もうって、私だったら思わないと思って」
話を変えて、弦さんをなでまわす彼にそう尋ねた。
「どうしてかぁ。どうしてかなぁ。まあ、一つはたきざわ夕市の絵が単純に好きだったからだ」
たきざわ夕市の絵画は私も好きだった。彼の描く風景画は、忙しい毎日を過ごす私たちの足を止めさせて、もっとのんびり生きていいんだと思わせるような優しさがあった。彼の世界をのぞくときだけは、現実を忘れられる。熱狂的なファンではないけど、駅の構内に彼の絵画が飾られているのを見たときは、自然と心が穏やかになったものだった。
そう、陽仁さんと一緒にいると、たきざわ夕市の絵画を目にしたときと同じような優しい感覚に満たされるのだ。
「それで、たきざわ美術館に来たんですね」
「あー、そうだ。思い出した。そうしたらさ、美術館にたきざわ夕市がたまたまいてよ。画集にサインくれたんだよな。名前を名乗ったらさ、書道家の竹村鼓かって聞かれてなぁ。俺を知ってるんだって驚いたな。もっと評価されてもいいって言ってくれてさ。よかったら、ろまん亭に寄って帰るといいって、ここの場所を教えてもらったんだ」
よみがえった記憶を、彼は忘れないうちにというように、次々と吐き出す。
「それで、父に会ったんですか?」
「ああ。ろまん亭に入った途端、君も芸術家か? って聞かれてびっくりしたよな。まあ、落ち着いて考えてみりゃ、こんな風体だしな、すぐに気づくよな」
「父はどうしていきなりそんな話を?」
「気、つかったんだろ。ろまん亭は夢に敗れた人が集まる場所だってうわさされてるけど、気にしなくていいって言われたんだ。君はじゅうぶん売れてるからって」
「父はつづみさんを知ってたんですね」
夢に敗れた芸術家が集う場所。それが、ろまん亭。うわさは人を呼び、人が人を呼ぶ。そんな喫茶店だったのだろう。
「みたいだな。たきざわ夕市も野垣永朔も、変わった男だなって興味が湧いた。ちょうど隣が空き家だって言うからさ、引っ越すことにしたんだ。売れない書道家には、ちょうどいい場所だろ」
「売れてないんですか?」
「当時は言うほどな。今思えば、挫折してここに来たのかもなぁ」
しみじみと、つづみさんはつぶやく。
「誰が見てもお上手なのに、挫折してたなんて信じられないです」
「今も挫折してるっていえば、してるけどな」
「本当ですか?」
「人間の欲望にはキリがないからな。いつまで経っても満足なんてしないのさ。でも、やめたらダメだ。全部そこで終わる」
庭に転がる石をつかんで立ち上がった彼は、まるでマウンドに立つ野球選手のように足を振り上げた。
投げるのっ? そう思ってまばたきした瞬間、彼はストンと足を落として、手のひらを開いた。ぽとん、と真下へ落下する小さな石に、弦さんがクンクンと鼻を寄せる。
瞬時に湧いた思いは怒りだったのだろうか。きっと、売れたくても売れない、もどかしい気持ちはすぐにコントロールされて消えていった。
つづみさんは強い人だ。
私とは違う。私は、陶芸家になる夢を簡単にあきらめてしまった。
「つ、つづみさんの作品、好きですよ」
「ん?」
「好きです。まっすぐで強くて、でも繊細なところとか。この間くれた、朔弦望の書、部屋に飾りました」
「飾るなら、もっと丁寧に書いてやるよ、落款入りで」
「いいんです。私だけが、つづみさんの作品だって知ってたら、それでいいんです」
まだ開け途中だった雨戸に手をかけて、力を入れて引く。動きが悪くなってガラガラとひどい音を立てる雨戸が開いていくと、たたみの上に薄明かりが差し込む。
たたみより一段高く設けられた床の間に、『朔弦望』という文字は静かに、だけれど、光るように存在していた。そう。まるで、夜空に輝く月みたいなきれいさで。
つづみさんの文字には人を惹きつけるものがある。だから、好まれる。
私はどうだっただろう。陶芸なんてやったことなくて、高校に入ってからは人一倍努力した。友だちからは独創的だし、センスがいいねと褒めてもらうことも多かった。賞だって、無縁じゃなかった。器用にできる方だったと、自分でも思う。順風満帆ではなくとも、陶芸に携わる仕事をずっとやっていけるんじゃないかと本気で思っていた。
あれはいつだったか。陶芸家を目指すために芸術大学へ進みたいと言った私を、祖父母は応援してくれたけど、先生は向いてないからやめた方がいいと言った。
向いてないなんてことあるんだろうかと、衝撃を受けたのは鮮明に覚えている。もちろん、私より優秀な生徒はたくさんいたし、コンテストだって入賞止まりばかりだった。だからって、夢をあきらめるように言われるなんて思ってもなかった。
そして、先生は言ったのだ。学費の心配もあるだろう。ご両親がいないんだから、祖父母に甘えてばかりいないで、地に足のついた職業に就いた方がのちのちのためだ、と。
先生は私をあわれんでいた。そんな目をして、私を説得した。
いつだって私はあわれまれていた。
祖父母の愛情をたくさん受けて育ってきたのに、両親がいないという事実が私を不自由にした。
現実を生きなさい、と先生に肩を叩かれて、全身の力が抜けた。もうがんばるのはやめなさい。無意味だから。そう言われたように感じたのだ。
あの日から、私の作る作品は輝きをなくし、コンテストに出すのもままならなくなった。
陶芸を嫌いになったのは、あのときからだろうか。もう、思い出したくもない記憶だ。
そして私は高校を卒業して、今の会社に就職した。そこで元彼と出会い、別の幸せを見つけた。結局、陶芸家になる夢も、彼との幸せな結婚を夢見た日も、うたかたのように消えてなくなってしまったのだけど。
はじめてこの地に足を下ろしてから、一ヶ月が過ぎようとしている。寒さの増した観光地はあいかわらず混雑しているが、年末になればもっと混み合うのだろうか。私はあと何回、この地を訪れるだろう。
タクシー乗り場の方へ歩いていくと、見慣れた陽仁さんの車がちょうどロータリーへ入ってくるところだった。
一度、彼に駅からろまん亭までの送迎をお願いしてから、電車で来るときは必ず迎えに来てくれる。あきれてしまうぐらい親切な人だ。その優しさに甘えてる私も私だけれど。
「おはよう。今日は寒いね。ずっと曇りみたいだ」
助手席に乗り込む私にそう言って、彼はすぐに車を発進させた。
「雨降るかな。傘、忘れてきちゃった」
フロントガラスからのぞき込むようにして、空を見上げる。遠くでたなびく雲は重たそうな灰色で、山の方は雨が降っているかもしれないと思う。
「明日は降るかもね。いいよ、あとで持っていく。美術館に貸し出し用の傘あるからさ、都合いいときに返してくれれば」
「それだったら、私が美術館まで行きます」
「歩くと距離あるよ。遠慮しないで」
「……じゃあ、お願いしようかな。明日は弦さんのさんぽに行きたいし」
そう言ってみて、つづみさんなら何本か傘を持ってるかもしれない、そう気づいたけど、笑顔の陽仁さんにまた会いたいような気がして、そのまま黙っていた。
「3時ぐらいに持っていくよ」
「おやつ、用意しますね。父のレシピにレアチーズケーキがあって。今日は作って持ってきたんです」
ひざの上に乗せた真っ白な紙袋を軽く持ち上げてみせると、「それは楽しみだな」って彼はほほえむ。
「昨日の夜、作ったの?」
「はい。残業もなくて、時間があったから」
「毎週こっちに来てると大変だよね」
「弦さんに会うと、ふしぎと疲れが取れるんです。つづみさんは面倒見てくれるっていうけど、やっぱり引き取ろうかなぁ」
「弦さんはすごいなぁ。じゃあ、毎週来てるのは弦さんのためなんだ?」
彼は苦笑しつつ、茶目っ気たっぷりに尋ねてくる。
「あ、まあ……」
あいまいにごまかす。
正直、週五日労働して、週末になるとこっちへ来てろまん亭で過ごすのは大変な毎日だった。
その生活ができるのは、陶芸の青年を探すためなんて話したら、陽仁さんも一緒になって探してくれるような気がして言い出せないでいる。今のところ、村井さんしか手がかりにつながりそうな人は見つかってなくて、その村井さんからの連絡もなしのつぶてだった。
長い坂道をのぼる車がカーブを曲がると、ろまん亭が見えてきた。すっかり見慣れてしまった光景に安心感さえ覚える。空気もきれいだし、買い物には不便だけど、たまに来るだけだから困ることはない。今ではいい隠れ家になってるとも思う。
店の前で私をおろすと、陽仁さんは3時にまた来るよと言って帰っていった。
「弦さん、こんにちは」
玄関のカギを開ける前に庭にまわって、駆け寄ってくる弦さんの頭をなでる。彼はいつもうれしそうに目を細め、私に抱きついてこようとする。
「あっ、ちょっと待って。荷物置いてくるから」
雨戸を一枚外から開けて、縁側にカバンと紙袋を置くと、足もとにいる弦さんの前にしゃがんで、抱きついてくる彼を抱きとめる。
「お腹すいたの? それともさんぽ?」
弦さんは一日二回、さんぽに行く。朝はつづみさんが起きた都合で、午後もつづみさんが行きたくなったときに行くらしい。
「ああ、望ちゃん、来てたんだ。今日も電車?」
庭先に車がないからか、つづみさんは壊れた柵から出てきてそう言う。
「はい。陽仁さんが迎えに来てくれて、さっき」
「で、陽仁は?」
「帰りました。3時にまた来るって」
「なんだ。迎えに行っただけか」
すぐに帰るなんてとあきれたように言うけど、用事もないのに迎えに来てくれる方がおかしいと思う。
「まあでも、望ちゃんに少しでも会えるならってとこだろうな」
「なに言ってるんですか」
「付き合ってねぇの?」
「付き合ってないですよ。つづみさんの勘違いです」
いい加減、まどわすのはやめてほしい。陽仁さんは親切にしてくれるけれど、いい雰囲気には全然ならない。
勝手な妄想にあきれる私を、彼はじっと見つめてくる。
「じゃあ、監視?」
「は? 監視ってなんですか」
「好きでもない女につきまとう理由なんてそのぐらいしかないだろ」
何を言うのだ。信じられない思いでつづみさんを眺めるが、彼は涼しい顔で弦さんの頭をなでている。怒るのがバカらしくなるような笑顔で弦さんをかまうから、批難する気もそがれてしまう。
「そう言えば、つづみさんに聞きたいことがあったんです」
「ん? なに」
「陶芸の話です」
「やる気になった?」
「そうじゃなくてですね、裏の作業場のことです。あの作業場、父がどなたかのために作ったみたいなんです」
「ろまん亭の客じゃないのか? 陶芸がやりたいっていうお気に入りの客がいたんだろ」
前にもそう言っただろ? と面倒くさそうに彼は眉をひそめる。
「そのお客さんなんですけど、どなたかご存知ですか?」
「誰って……知らないな。俺がここに来たときは工事中だったしな。永朔さんが使うのか聞いたら、陶芸やってもらいたいやつがいるって言ったからさー、ろまん亭の客かなって思ったんだよ」
「じゃあ、心当たりは全然?」
つづみさんは肩をすくめる。何にも知らないみたい。
「あ、陽仁は? 陽仁なら知ってるんじゃないか?」
「知らないみたいです。知ってたら、もう教えてくれてると思うし」
「そりゃそうだよな。じゃあ、お手上げだ。俺は陽仁ほどこの辺に詳しくないしな」
つづみさんはいつもここで書道に向き合ってるだけで、人付き合いはほとんどしてないのだろう。私が知る限りでも、弦さんのさんぽのときぐらいしか外に出てこない。だからこそ、陽仁さんがせっせとお世話してるんだろうけれど。
過度な期待をしてたわけじゃないけど、すくに手詰まりになってしまうから、がっかりする。やっぱり、陶芸の青年を見つけるのは無理なのだろうか。
「つづみさんはどうしてここに来たんですか? 土地勘があるわけでもないのに、わざわざここに住もうって、私だったら思わないと思って」
話を変えて、弦さんをなでまわす彼にそう尋ねた。
「どうしてかぁ。どうしてかなぁ。まあ、一つはたきざわ夕市の絵が単純に好きだったからだ」
たきざわ夕市の絵画は私も好きだった。彼の描く風景画は、忙しい毎日を過ごす私たちの足を止めさせて、もっとのんびり生きていいんだと思わせるような優しさがあった。彼の世界をのぞくときだけは、現実を忘れられる。熱狂的なファンではないけど、駅の構内に彼の絵画が飾られているのを見たときは、自然と心が穏やかになったものだった。
そう、陽仁さんと一緒にいると、たきざわ夕市の絵画を目にしたときと同じような優しい感覚に満たされるのだ。
「それで、たきざわ美術館に来たんですね」
「あー、そうだ。思い出した。そうしたらさ、美術館にたきざわ夕市がたまたまいてよ。画集にサインくれたんだよな。名前を名乗ったらさ、書道家の竹村鼓かって聞かれてなぁ。俺を知ってるんだって驚いたな。もっと評価されてもいいって言ってくれてさ。よかったら、ろまん亭に寄って帰るといいって、ここの場所を教えてもらったんだ」
よみがえった記憶を、彼は忘れないうちにというように、次々と吐き出す。
「それで、父に会ったんですか?」
「ああ。ろまん亭に入った途端、君も芸術家か? って聞かれてびっくりしたよな。まあ、落ち着いて考えてみりゃ、こんな風体だしな、すぐに気づくよな」
「父はどうしていきなりそんな話を?」
「気、つかったんだろ。ろまん亭は夢に敗れた人が集まる場所だってうわさされてるけど、気にしなくていいって言われたんだ。君はじゅうぶん売れてるからって」
「父はつづみさんを知ってたんですね」
夢に敗れた芸術家が集う場所。それが、ろまん亭。うわさは人を呼び、人が人を呼ぶ。そんな喫茶店だったのだろう。
「みたいだな。たきざわ夕市も野垣永朔も、変わった男だなって興味が湧いた。ちょうど隣が空き家だって言うからさ、引っ越すことにしたんだ。売れない書道家には、ちょうどいい場所だろ」
「売れてないんですか?」
「当時は言うほどな。今思えば、挫折してここに来たのかもなぁ」
しみじみと、つづみさんはつぶやく。
「誰が見てもお上手なのに、挫折してたなんて信じられないです」
「今も挫折してるっていえば、してるけどな」
「本当ですか?」
「人間の欲望にはキリがないからな。いつまで経っても満足なんてしないのさ。でも、やめたらダメだ。全部そこで終わる」
庭に転がる石をつかんで立ち上がった彼は、まるでマウンドに立つ野球選手のように足を振り上げた。
投げるのっ? そう思ってまばたきした瞬間、彼はストンと足を落として、手のひらを開いた。ぽとん、と真下へ落下する小さな石に、弦さんがクンクンと鼻を寄せる。
瞬時に湧いた思いは怒りだったのだろうか。きっと、売れたくても売れない、もどかしい気持ちはすぐにコントロールされて消えていった。
つづみさんは強い人だ。
私とは違う。私は、陶芸家になる夢を簡単にあきらめてしまった。
「つ、つづみさんの作品、好きですよ」
「ん?」
「好きです。まっすぐで強くて、でも繊細なところとか。この間くれた、朔弦望の書、部屋に飾りました」
「飾るなら、もっと丁寧に書いてやるよ、落款入りで」
「いいんです。私だけが、つづみさんの作品だって知ってたら、それでいいんです」
まだ開け途中だった雨戸に手をかけて、力を入れて引く。動きが悪くなってガラガラとひどい音を立てる雨戸が開いていくと、たたみの上に薄明かりが差し込む。
たたみより一段高く設けられた床の間に、『朔弦望』という文字は静かに、だけれど、光るように存在していた。そう。まるで、夜空に輝く月みたいなきれいさで。
つづみさんの文字には人を惹きつけるものがある。だから、好まれる。
私はどうだっただろう。陶芸なんてやったことなくて、高校に入ってからは人一倍努力した。友だちからは独創的だし、センスがいいねと褒めてもらうことも多かった。賞だって、無縁じゃなかった。器用にできる方だったと、自分でも思う。順風満帆ではなくとも、陶芸に携わる仕事をずっとやっていけるんじゃないかと本気で思っていた。
あれはいつだったか。陶芸家を目指すために芸術大学へ進みたいと言った私を、祖父母は応援してくれたけど、先生は向いてないからやめた方がいいと言った。
向いてないなんてことあるんだろうかと、衝撃を受けたのは鮮明に覚えている。もちろん、私より優秀な生徒はたくさんいたし、コンテストだって入賞止まりばかりだった。だからって、夢をあきらめるように言われるなんて思ってもなかった。
そして、先生は言ったのだ。学費の心配もあるだろう。ご両親がいないんだから、祖父母に甘えてばかりいないで、地に足のついた職業に就いた方がのちのちのためだ、と。
先生は私をあわれんでいた。そんな目をして、私を説得した。
いつだって私はあわれまれていた。
祖父母の愛情をたくさん受けて育ってきたのに、両親がいないという事実が私を不自由にした。
現実を生きなさい、と先生に肩を叩かれて、全身の力が抜けた。もうがんばるのはやめなさい。無意味だから。そう言われたように感じたのだ。
あの日から、私の作る作品は輝きをなくし、コンテストに出すのもままならなくなった。
陶芸を嫌いになったのは、あのときからだろうか。もう、思い出したくもない記憶だ。
そして私は高校を卒業して、今の会社に就職した。そこで元彼と出会い、別の幸せを見つけた。結局、陶芸家になる夢も、彼との幸せな結婚を夢見た日も、うたかたのように消えてなくなってしまったのだけど。
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