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すれ違う祈り
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***
那波は氷のように冷たい身体で俺の熱を奪っていく。
しかし、そこから伝わる柔らかくてしなやかな感触が、冷めていくはずの俺の身体に熱を灯す。
「那波……」
そっと小さな身体を抱きしめながら、彼女の名を呼ぶ。身じろぎする彼女が俺から離れようとするから、させまいと腕に力を込める。
「……ごめんなさい、離して」
離したくない。その思いを伝えたくて抱きしめるのに、それでも彼女があらがうから、仕方なしに手を放す。
「私……、どうかしていたわ」
那波はそう言って唇に指をあてると、目を伏せる。軽率だったと後悔したのだろうか。
「俺は遊びじゃないよ。本気で……、ずっと一緒にいたいと思ってる。お互いに同じ気持ちだとわかったからキスもした」
一方的な俺の気持ちを押し付けただけじゃない。そう伝えるのに、那波は顔を上げてくれない。
「那波……」
「いけない……、いけないわ、木梨くん。私をその名で呼ばないで」
両手で顔を覆う那波は、混乱する様子で首を横にふる。
「どうして? 飛流さんは芽依として生きてきた時間より、那波としての人生の方が長いのに。もう芽依じゃないよ。二人はもう別の生き方をしてる」
「それでも那波としてはもう生きていけない……」
「どうして?」
もう一度尋ねるが、那波は口をつぐんで、何も言い出そうとしない。
那波の指にそっと触れ、俺は思い切って言う。
「体が冷たいこと、気にしてるなら大丈夫だよ」
彼女の指に力が入る。それは肯定したということだろう。俺が触れた彼女の痛みが指を通して伝わってくる。
「俺の伯母さんがさ、嘉木野ナミさんそっくりの人形が、形代だったとしたら納得するって言ってた。それを聞いて、俺もなんだか納得したんだ」
ジッとうつむいたままだが、那波は俺の言葉に耳を傾けている。
「嘉木野さんは娘さんをすごく大切に思ってて、出来ることなら生き返って欲しいって願いを込めて、人形を作成したんじゃないかな。その思いの強さと、両親の期待に応えられなくて悩む芽依が出逢って、奇跡が起きたんだとは考えられるよ。芽依の心は人形を見つけて、一目で逃げ場を見つけた。それが人形に惹かれた理由じゃないのかな」
那波は俺の言葉を素直に受け入れ難そうに頬を強張らせた。
「だから何……? 好んで逃げ出したのだから、もう私の魂は芽依の身体に戻りたくないと思ってるとでもいうの?」
「そうじゃないよ。逃げ場って言ったけど、本当に逃げ出したのかなって思ってもいる」
「……どういう意味かしら」
冷たい彼女の指をしっかり握る。けして那波を傷つけたくて言うわけではない。その思いを伝えたいのだ。
「どこにある人形だって、普通は飛流さんみたいに冷たくはないよ。冷たいのには意味があるんだって俺は思う」
「冷たさまで、芽依が自分から追い出したというの?」
那波という存在をバケモノにしたのは、芽依か。
そう気付いた彼女は悲しげに眉を寄せる。傷ついた彼女の心を救いたくて、俺は静かに言う。
「芽依は那波が人として幸せに生きることを望んではいなかったかもしれない。だから誰もが嫌うような体にしたかったんだ。せめてご両親には嫌われるようにしたかった。飛流さんの体が冷たいのは、身を守るための冷たさだと俺は思う」
「……なぜ?」
「ご両親の干渉を嫌ったからだよ。芽依は愛されたくて自分の中からご両親の嫌いな自分を追い出したんじゃない。ご両親に壊されたくない大切な感情や、守りたかったものを、那波の中へ逃がしたんじゃないかな」
「そんなの、ただの推測じゃない」
そうだ。これは俺の想像でしかない。だが、確かめようのないことでも、彼女の間違った決意をやめさせれる少しの可能性があるなら、俺は聞いてもらいたい。
「飛流さんがチーズケーキの話をしてくれた時にそう思ったんだ。飛流さんが今チーズケーキを好きなのは、やっぱり芽依もチーズケーキが好きだったからだよ。芽依が好きだった自分、好きだったものが那波のすべてだよ」
「……そんなことわからない」
「わかるよ、俺は飛流さんが好きだから。芽依は確かに人としてお手本のような優等生かもしれないけど、飛流さんは芽依よりも人間らしくて繊細で、人の痛みがわかる優しさを持った素敵な女の子だと思う」
「……もし木梨くんの言うことが正しかったとしても、これから先もずっとみんなは私の体を嫌うのよね。そういうことよね。それに……、それだけじゃないのよ、嘉木野ナミさんを知ってる人はみんな、私を怖がるの」
那波の両親が屋敷から彼女を出したくない理由はそれだ。だが、その理由をなくすために彼女がしようとしていることはリスクが高すぎる。
「俺は気にしないって言ってるんだから。飛流さんが言ったんだよ、恋は心と心がするものだって」
「でもそれは……。木梨くん、怖くないの? 私のこと……」
「何も。俺だって同じだよ。たまたまこんな顔した体に魂が入って俺を形成してるだけ。そう考えたら、飛流さんはたまたま嘉木野ナミさんによく似た体に魂が入っただけだよ。体は器でしかないし、その器も好きになれるって言ってるんだから、飛流さんが悩むことは何もないよ」
「でも……、私の体は冷たくて、木梨くんに不快な思いをさせてる」
複雑だ。肌を触れさせることだけが相手を想うことではないのに、欲深な俺が那波に触れたがるから、彼女は悩むのだ。
「飛流さんは俺が触れるとどう?」
「どうって?」
「嫌な気持ちになる?」
「そんなことあるわけないわ。木梨くんはとても温かくて安心するの……。だから、余計に苦しくて」
「それならいいよ。俺の体温を感じて幸せな気持ちになってくれるなら、俺はそれだけで幸せだよ。苦しむことなんてないんだ」
少なくとも、彼女と唇を触れ合わせた時にあふれた思いは、俺を熱くした。もっと触れたい。今だってそう思っている。
「……木梨くんは、本当に優しいわ。……本当に」
那波は目元を押さえるが、すぐに悲しげに首を横にふる。
「涙は流れなくても、飛流さんが傷ついてることはわかる。笑顔がなくても、嬉しく思ってることはわかる。心が通じ合っていたら、どんなことも分かり合っていけるって信じてるよ」
「木梨くん……、ありがとう。もう少しだけ、考える時間が欲しいわ」
俺は安堵する。
「明日の計画は中止だね。あ、飛流さん、……やっぱり紅茶飲むよ。さっきの話の続きがしたい」
「さっきの話って何を指してるのかしら?」
「ほら、その、……いつから俺のこと好きだったのかなって思ってさ」
照れる俺を無表情で見つめる那波は、ゆるりと首を傾げる。
「そうね。きっと出会った日からよ」
「え?」
「あなたのペースにずっと巻き込まれてたことに気づかなかったけれど、あの時にはもう私はいつもの私ではなかったんだわ」
那波は懐かしむように口元に笑みを浮かべながら、レモンティーの缶に手を伸ばした。それは無理に作っていないような、とても自然な笑みだった。
「飛流さんっ」
ふと脳裏によぎる思いを伝えたくて、俺は声を上げた。
「え……」
突然叫んだからか、那波は驚いたようにスプーンを持つ手を止める。
「あ、ごめん。今さ、飛流さんは気づいてなかったかもしれないけど、普通に笑ってたから。なんか、なんていうのか、最近の飛流さんは変わったよね。いろんなことが自然になってきてる気がする」
「……そうかしら」
「そうだよっ。俺や樋野先輩とか、いろんな人に関わったことで、いろんな感情が豊かになってきたんじゃないかな! これからもっとたくさんの経験をしたらいいと思う」
「たくさんの経験……、そんなこと出来るかしら」
那波は切なそうにレモンティーの缶の中に視線を落とす。まるで空虚なものを眺めているようだ。
「できるよ。いつも家にいて、芽依やご両親としか接しないから変化が生まれないんだ。もっと知らない人と接したらいいと思う」
「そんなの無理よ。木梨くんはどうしたらいいと言うの?」
「たとえば、好きなチーズケーキを買いに行ってみるとか。たとえば、そうだな……、美都夜、俺の妹と話してみるとか。あと他には……、あ! 映画は? 映画見ても楽しいかもしれない。この辺って遊園地って見かけないけど、ほら、電車に乗っていろんなところに遊びに行くのもいいよ!」
「つまり、どういうことかしら?」
「あ、つ、つまりさ、俺と……、デートしないかなって、思って」
俺の言葉が全く理解できない様子で眉をひそめる那波に思い切って言うと、彼女は小さな息をつく。
だめ、だろうか。
ただでさえ外出できないのに、男と出かけるなんて彼女の両親が許すはずもない。
息をこらして那波を見つめる。彼女はレモンティーの缶を見つめたまま、しばらく悩んでいた。
「あ、飛流さん、今すぐに全部やってみようって話じゃなくてさ。買い物に行こうって軽い感じで出かけたらどうかな」
「私、買い物ってしたことないの。だから、木梨くんがいてくれないと何もできないけれど、もし良かったら……」
「良かったら?」
ごくりと唾を飲み込む俺に、那波は悲しげな瞳を向けながらも、静かに願い出る。
「良かったら、レモンティーを買いに一緒に行ってもらえないかしら」
「レモンティー?」
「なくなってしまったの。もう必要ないと思って、買い足してなくて」
那波は空になったレモンティーの缶の底が見えるように俺に向ける。
本気で那波は消えようとしていたのだ。それもずっと前から計画して。何も知らずにいた自分の愚かさを痛感しながら、俺は努めて明るく言う。
「行こう、飛流さん。一時間くらいなら、ご両親も許してくれるかな。いつ行こう?」
「いつ……。そうね、明日はどうかしら」
「明日っ? 急だね」
「だめかしら」
「だめじゃないよ。でもさ、ご両親にまずは聞いてみないと」
「そうよね。木梨くん、明日の三時に私の家に迎えに来てくれるかしら。母に話しておくわ」
「あ、いいよ。いいけど……、なんか緊張するな」
いきなり家に来いと言われるとは思っていなかった。前に彼女の家を訪れた時と今回は明らかに違うのだから動揺する。
「デートって初めてよ」
「それはそうだよね。あ、俺もだから」
「そう、意外」
「意外って……。ほら、飛流さんは樋野先輩を基準に男のイメージ作ってるかもしれないけど、男はみんなあんな風じゃないよ。樋野先輩は特別だから」
「転校してくる前に好きな女の子がいたと言っていたじゃない。女の子と出かけたりしていたと思ってたわ」
那波は思いがけない誤解をするから、曖昧にしていてはいけないと俺も奮起する。
「俺は飛流さんとしか出かけないよ。他の女の子と出かけるなんてない」
「そう、私もあなたとしか出かけないわ。デートって……、手をつないだりもするのよね。少し緊張するわ」
「あ、飛流さんはストレートだから、なんか困るな」
奮起したばかりの気持ちがすぐに萎える。
那波に愛されていると感じたいくせに、ストレートにその気持ちを向けられると照れてしまうのだ。
「困らせたいわけじゃないの」
「いいんだ。困りたいからいいんだよ」
「困りたいの? 本当、あなたって理解できないぐらい変わっているのね」
そう言って那波は眉をよせるが、俺は笑って彼女を見つめた。
出会った頃も、こんな風な会話をしただろうか。那波の飾らない素直な気持ちを聞くと嬉しくなる。これから先もずっと、彼女とこんな不毛な会話を続けていけるのだろうと思ったら、自然と笑みが浮かんだ。
那波は氷のように冷たい身体で俺の熱を奪っていく。
しかし、そこから伝わる柔らかくてしなやかな感触が、冷めていくはずの俺の身体に熱を灯す。
「那波……」
そっと小さな身体を抱きしめながら、彼女の名を呼ぶ。身じろぎする彼女が俺から離れようとするから、させまいと腕に力を込める。
「……ごめんなさい、離して」
離したくない。その思いを伝えたくて抱きしめるのに、それでも彼女があらがうから、仕方なしに手を放す。
「私……、どうかしていたわ」
那波はそう言って唇に指をあてると、目を伏せる。軽率だったと後悔したのだろうか。
「俺は遊びじゃないよ。本気で……、ずっと一緒にいたいと思ってる。お互いに同じ気持ちだとわかったからキスもした」
一方的な俺の気持ちを押し付けただけじゃない。そう伝えるのに、那波は顔を上げてくれない。
「那波……」
「いけない……、いけないわ、木梨くん。私をその名で呼ばないで」
両手で顔を覆う那波は、混乱する様子で首を横にふる。
「どうして? 飛流さんは芽依として生きてきた時間より、那波としての人生の方が長いのに。もう芽依じゃないよ。二人はもう別の生き方をしてる」
「それでも那波としてはもう生きていけない……」
「どうして?」
もう一度尋ねるが、那波は口をつぐんで、何も言い出そうとしない。
那波の指にそっと触れ、俺は思い切って言う。
「体が冷たいこと、気にしてるなら大丈夫だよ」
彼女の指に力が入る。それは肯定したということだろう。俺が触れた彼女の痛みが指を通して伝わってくる。
「俺の伯母さんがさ、嘉木野ナミさんそっくりの人形が、形代だったとしたら納得するって言ってた。それを聞いて、俺もなんだか納得したんだ」
ジッとうつむいたままだが、那波は俺の言葉に耳を傾けている。
「嘉木野さんは娘さんをすごく大切に思ってて、出来ることなら生き返って欲しいって願いを込めて、人形を作成したんじゃないかな。その思いの強さと、両親の期待に応えられなくて悩む芽依が出逢って、奇跡が起きたんだとは考えられるよ。芽依の心は人形を見つけて、一目で逃げ場を見つけた。それが人形に惹かれた理由じゃないのかな」
那波は俺の言葉を素直に受け入れ難そうに頬を強張らせた。
「だから何……? 好んで逃げ出したのだから、もう私の魂は芽依の身体に戻りたくないと思ってるとでもいうの?」
「そうじゃないよ。逃げ場って言ったけど、本当に逃げ出したのかなって思ってもいる」
「……どういう意味かしら」
冷たい彼女の指をしっかり握る。けして那波を傷つけたくて言うわけではない。その思いを伝えたいのだ。
「どこにある人形だって、普通は飛流さんみたいに冷たくはないよ。冷たいのには意味があるんだって俺は思う」
「冷たさまで、芽依が自分から追い出したというの?」
那波という存在をバケモノにしたのは、芽依か。
そう気付いた彼女は悲しげに眉を寄せる。傷ついた彼女の心を救いたくて、俺は静かに言う。
「芽依は那波が人として幸せに生きることを望んではいなかったかもしれない。だから誰もが嫌うような体にしたかったんだ。せめてご両親には嫌われるようにしたかった。飛流さんの体が冷たいのは、身を守るための冷たさだと俺は思う」
「……なぜ?」
「ご両親の干渉を嫌ったからだよ。芽依は愛されたくて自分の中からご両親の嫌いな自分を追い出したんじゃない。ご両親に壊されたくない大切な感情や、守りたかったものを、那波の中へ逃がしたんじゃないかな」
「そんなの、ただの推測じゃない」
そうだ。これは俺の想像でしかない。だが、確かめようのないことでも、彼女の間違った決意をやめさせれる少しの可能性があるなら、俺は聞いてもらいたい。
「飛流さんがチーズケーキの話をしてくれた時にそう思ったんだ。飛流さんが今チーズケーキを好きなのは、やっぱり芽依もチーズケーキが好きだったからだよ。芽依が好きだった自分、好きだったものが那波のすべてだよ」
「……そんなことわからない」
「わかるよ、俺は飛流さんが好きだから。芽依は確かに人としてお手本のような優等生かもしれないけど、飛流さんは芽依よりも人間らしくて繊細で、人の痛みがわかる優しさを持った素敵な女の子だと思う」
「……もし木梨くんの言うことが正しかったとしても、これから先もずっとみんなは私の体を嫌うのよね。そういうことよね。それに……、それだけじゃないのよ、嘉木野ナミさんを知ってる人はみんな、私を怖がるの」
那波の両親が屋敷から彼女を出したくない理由はそれだ。だが、その理由をなくすために彼女がしようとしていることはリスクが高すぎる。
「俺は気にしないって言ってるんだから。飛流さんが言ったんだよ、恋は心と心がするものだって」
「でもそれは……。木梨くん、怖くないの? 私のこと……」
「何も。俺だって同じだよ。たまたまこんな顔した体に魂が入って俺を形成してるだけ。そう考えたら、飛流さんはたまたま嘉木野ナミさんによく似た体に魂が入っただけだよ。体は器でしかないし、その器も好きになれるって言ってるんだから、飛流さんが悩むことは何もないよ」
「でも……、私の体は冷たくて、木梨くんに不快な思いをさせてる」
複雑だ。肌を触れさせることだけが相手を想うことではないのに、欲深な俺が那波に触れたがるから、彼女は悩むのだ。
「飛流さんは俺が触れるとどう?」
「どうって?」
「嫌な気持ちになる?」
「そんなことあるわけないわ。木梨くんはとても温かくて安心するの……。だから、余計に苦しくて」
「それならいいよ。俺の体温を感じて幸せな気持ちになってくれるなら、俺はそれだけで幸せだよ。苦しむことなんてないんだ」
少なくとも、彼女と唇を触れ合わせた時にあふれた思いは、俺を熱くした。もっと触れたい。今だってそう思っている。
「……木梨くんは、本当に優しいわ。……本当に」
那波は目元を押さえるが、すぐに悲しげに首を横にふる。
「涙は流れなくても、飛流さんが傷ついてることはわかる。笑顔がなくても、嬉しく思ってることはわかる。心が通じ合っていたら、どんなことも分かり合っていけるって信じてるよ」
「木梨くん……、ありがとう。もう少しだけ、考える時間が欲しいわ」
俺は安堵する。
「明日の計画は中止だね。あ、飛流さん、……やっぱり紅茶飲むよ。さっきの話の続きがしたい」
「さっきの話って何を指してるのかしら?」
「ほら、その、……いつから俺のこと好きだったのかなって思ってさ」
照れる俺を無表情で見つめる那波は、ゆるりと首を傾げる。
「そうね。きっと出会った日からよ」
「え?」
「あなたのペースにずっと巻き込まれてたことに気づかなかったけれど、あの時にはもう私はいつもの私ではなかったんだわ」
那波は懐かしむように口元に笑みを浮かべながら、レモンティーの缶に手を伸ばした。それは無理に作っていないような、とても自然な笑みだった。
「飛流さんっ」
ふと脳裏によぎる思いを伝えたくて、俺は声を上げた。
「え……」
突然叫んだからか、那波は驚いたようにスプーンを持つ手を止める。
「あ、ごめん。今さ、飛流さんは気づいてなかったかもしれないけど、普通に笑ってたから。なんか、なんていうのか、最近の飛流さんは変わったよね。いろんなことが自然になってきてる気がする」
「……そうかしら」
「そうだよっ。俺や樋野先輩とか、いろんな人に関わったことで、いろんな感情が豊かになってきたんじゃないかな! これからもっとたくさんの経験をしたらいいと思う」
「たくさんの経験……、そんなこと出来るかしら」
那波は切なそうにレモンティーの缶の中に視線を落とす。まるで空虚なものを眺めているようだ。
「できるよ。いつも家にいて、芽依やご両親としか接しないから変化が生まれないんだ。もっと知らない人と接したらいいと思う」
「そんなの無理よ。木梨くんはどうしたらいいと言うの?」
「たとえば、好きなチーズケーキを買いに行ってみるとか。たとえば、そうだな……、美都夜、俺の妹と話してみるとか。あと他には……、あ! 映画は? 映画見ても楽しいかもしれない。この辺って遊園地って見かけないけど、ほら、電車に乗っていろんなところに遊びに行くのもいいよ!」
「つまり、どういうことかしら?」
「あ、つ、つまりさ、俺と……、デートしないかなって、思って」
俺の言葉が全く理解できない様子で眉をひそめる那波に思い切って言うと、彼女は小さな息をつく。
だめ、だろうか。
ただでさえ外出できないのに、男と出かけるなんて彼女の両親が許すはずもない。
息をこらして那波を見つめる。彼女はレモンティーの缶を見つめたまま、しばらく悩んでいた。
「あ、飛流さん、今すぐに全部やってみようって話じゃなくてさ。買い物に行こうって軽い感じで出かけたらどうかな」
「私、買い物ってしたことないの。だから、木梨くんがいてくれないと何もできないけれど、もし良かったら……」
「良かったら?」
ごくりと唾を飲み込む俺に、那波は悲しげな瞳を向けながらも、静かに願い出る。
「良かったら、レモンティーを買いに一緒に行ってもらえないかしら」
「レモンティー?」
「なくなってしまったの。もう必要ないと思って、買い足してなくて」
那波は空になったレモンティーの缶の底が見えるように俺に向ける。
本気で那波は消えようとしていたのだ。それもずっと前から計画して。何も知らずにいた自分の愚かさを痛感しながら、俺は努めて明るく言う。
「行こう、飛流さん。一時間くらいなら、ご両親も許してくれるかな。いつ行こう?」
「いつ……。そうね、明日はどうかしら」
「明日っ? 急だね」
「だめかしら」
「だめじゃないよ。でもさ、ご両親にまずは聞いてみないと」
「そうよね。木梨くん、明日の三時に私の家に迎えに来てくれるかしら。母に話しておくわ」
「あ、いいよ。いいけど……、なんか緊張するな」
いきなり家に来いと言われるとは思っていなかった。前に彼女の家を訪れた時と今回は明らかに違うのだから動揺する。
「デートって初めてよ」
「それはそうだよね。あ、俺もだから」
「そう、意外」
「意外って……。ほら、飛流さんは樋野先輩を基準に男のイメージ作ってるかもしれないけど、男はみんなあんな風じゃないよ。樋野先輩は特別だから」
「転校してくる前に好きな女の子がいたと言っていたじゃない。女の子と出かけたりしていたと思ってたわ」
那波は思いがけない誤解をするから、曖昧にしていてはいけないと俺も奮起する。
「俺は飛流さんとしか出かけないよ。他の女の子と出かけるなんてない」
「そう、私もあなたとしか出かけないわ。デートって……、手をつないだりもするのよね。少し緊張するわ」
「あ、飛流さんはストレートだから、なんか困るな」
奮起したばかりの気持ちがすぐに萎える。
那波に愛されていると感じたいくせに、ストレートにその気持ちを向けられると照れてしまうのだ。
「困らせたいわけじゃないの」
「いいんだ。困りたいからいいんだよ」
「困りたいの? 本当、あなたって理解できないぐらい変わっているのね」
そう言って那波は眉をよせるが、俺は笑って彼女を見つめた。
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