せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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キスまでの距離

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 週末は意外と早くやってきた。純ちゃんが誕生日プレゼントに手袋をくれたけど、それ以外は普段と何も変わらない生活だ。

 円華からはパーティー以来連絡もない。円華とはそんな関係だ。上條家のイベントがあれば会うが、積極的に連絡を取り合う仲ではない。

「今夜は家でバースデーパーティーだっけ?」

 会社を出て、地下鉄へと向かう途中、純ちゃんが、そう尋ねてきた。

「ううん、今日はレストランで食事。お父さんが仕事で遅くなるんだって」
「一流レストランで食事? いいなぁ、沙耶は。憧れる」
「普通だよ、うちは。純ちゃんと変わらないよ。すごいのは親戚だけ」
「そうかなー。沙耶はお嬢様ってオーラ、かなり放ってるよ。いい意味でね」
「ありがとう。ねー、純ちゃんはこれからどうするの?」

 このまま帰る?と、尋ねる。

「沙耶は?」
「どーしようかなって考えてたとこ。食事の時間までは少しあるし、家に帰るほどの時間はない気もするし。喫茶店で時間つぶそうかなとか思ったり」
「喫茶店行くなら付き合うよ」
「本当? じゃあ、行こう。ちょっと聞いて欲しいこともあるから」

 よかったーって胸をなで下ろす。

「なに? 聞いて欲しいことって。珍しい。まさか男の話じゃないでしょうねー」
「うー……、そうとも言えるかも」
「うそー、まさか彼氏が出来たとか言わないわよねー」
「そんなんじゃないよ」

 慌てて両手を顔の前で振る。
 今日は湊くんが私に会いに来ると言った日だから、彼のことを純ちゃんに聞いてもらおうと思っただけなのだ。

「じゃあ、好きな人が出来たとか?」
「まだわからないんだけど、話だけでも……」
「本気? まさか、まさかよね?」

 そう言って、純ちゃんの目がきらめいた時だ。

「お話中のところ申し訳ないけれど、ちょっといいかな」

 と、私の背中に声がかけられた。

 道を尋ねるのだろうか。そんな軽い乗りの男性の声を聞いて、無視することは出来ない性格の私は振り返ろうとした。しかし、純ちゃんが腕をぎゅっと握ってくるから、それは阻まれた。

「純ちゃん?」
「すっごいカッコいいよ」

 私の耳に顔を寄せて、純ちゃんはひそひそ声で言う。

「関係ないよー……」
「あるあるー。こんなカッコいい人見たこと……」
「純ちゃん?」
「見たことないことない……」
「見たことないことないって、なにー?」

 純ちゃんの目は私の後ろに釘付けだ。言い方が面白くてくすくす笑っていると、不機嫌そうな声が飛んできた。

「さっきからこそこそと。人が話しかけてるのに無視かよ」
「あ、ごめんなさいっ」

 慌てて振り返ると、明らかに不機嫌な表情で私を見下ろす青年がいる。

 仕事帰りのサラリーマンだろうか。しかし、一日働いたという疲労感を感じさせない清潔感のある青年だ。
 髪もきちんと整えられ、スリムなスーツは高級感のあるツヤを放っている。靴もピカピカに磨かれているし、バッグもブランド品で、若いわりに身なりがきちんとしている印象がある。

「あ、まあ、別にいいんだけどよ」

 ジッと見上げていると、気まずそうに彼は目をしかめた。
 あごが細くて、切れ長の瞳が綺麗な長身の青年だ。男性のわりに肌の色は白い方だが、脆弱な感じはない。純ちゃんがカッコいいというだけある。雑誌の表紙を飾っていても不思議はないと感じるほど、彼には綺麗という言葉が似合う。

「ちょっと君に話がある」

 青年は真っ直ぐに向けられた純ちゃんの視線を気にするように、わずかに身をかがめて私に言う。

「私に?」
「君以外にいるか?」
「すぐに終わる話ですか?」

 時間がかかるようなら困る。暗にそう伝えてみるのだが、彼は眉を寄せただけだ。

「私、ちょっと急いで……」

 急いでいたわけではないけど、今までにナンパの経験がなかったわけではないし、と思い、すぐに立ち去る構えをする。
 そんな私の言葉を遮って、純ちゃんがいきなり、「あ! 思い出した!」と叫んだ。

「純ちゃん、なに?」
「思い出したの!」
「だから何を?」
「この人よ。この人。どっかで見たことあると思ったんだけど」

 純ちゃんは彼をぶしつけに指差した。

「ちょっと君……」

 彼も戸惑いを見せて、純ちゃんに歩み寄る。

「沙耶は知らないかもしれないけど、この人……」
「君っ!」

 何を焦るのか知らないが、青年は純ちゃんを一喝するかのような、声を上げた。
 しかし、負けずと純ちゃんは叫んだ。

「この人、先輩の元カレよ、元カレ! 知野深雪先輩の元カレ!」
「え! 本当っ?」

 と、私が声をあげると同時に、彼は片手で顔を覆い、「まじかよ…」とつぶやいた。

「うん、絶対間違いない。先輩がめっちゃカッコいい人と歩いてるの見たことあって、先輩に彼氏ですかって聞いたことあるから」
「ちょっと君……、それはもう終わったことだよ」

 青年は私の視線を気にしながら、そう言う。純ちゃんの言葉を肯定したようなものだ。

「入社する前のこと?」

 私は先輩の彼氏を見たことがない。社内一綺麗な先輩に彼氏がいるのは当たり前だと思ってはいたけど。

「ううん、確か、入社したばっかりの頃の話。あの時には沙耶、先輩にベタ惚れだったから、彼氏がいるなんて言いにくくて話さなかったんだよね」
「でも、先輩とだったら、すごくお似合いかも」

 そう言って彼を見上げると、殺気立った目でにらみつけられる。

「だから、終わったことだと言ってるだろう」
「先輩、結婚しちゃったしね」

 私が純ちゃんに言うと、「俺の話を聞けよ」と彼は苛立たしげに声を荒らげる。

「あ、そうだった。えっと、私に話があるんでしたね」

 先輩の元カレと知ったら、少しは話を聞く気になって、彼をジッと見上げて言葉を待つ。

「こんな話の後で言いにくいんだが」

 と、彼は言葉を区切る。ギロリと純ちゃんをにらんだ後、気を取り直すように私に魅惑的な笑みを見せた。

「俺と付き合わないか? もちろん、今夜だけという話じゃなくて、結婚も視野に入れて」
「え?」
「何度も言わせるなよ。だから俺と……」
「ムリ! ムリムリ、ムリ!」
「は?」
「だって、先輩と付き合ってたんでしょ。無理です、無理。だって……、先輩と」

 私は胸に手を当てて、彼の唇を見てしまった。
 先輩はとても綺麗な唇をしていた。二人が唇を重ねたのだと思うだけで、ドキドキする。まるで素敵なドラマのワンシーンを思い浮かべた時みたいに。

 その彼の相手役が先輩ではなくて、私になるなんてとても考えられないし、現実味にかける。
 まして、結婚前提のお付き合いとか、まったく自分の身に起きていることとは思えないのだ。

「無理……?」

 彼はムッとしたように、眉をあげた。

「はい、無理です。じゃあ、急ぎますから」

 私は純ちゃんの手を握ると、一目散に彼の前から逃げるように走り出した。
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