せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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キスまでの距離

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『沙耶、今どこにいるの? 家に帰ってくるの?』

 開口一番、わずかな雑音の中、母はそう尋ねてきた。少しばかり慌ただしい様子だ。部屋の中を歩き回っているのかもしれない。

「家に帰る時間はないから、喫茶店にいるの。直接レストランに行くから大丈夫だよ」
『そうなの? 困ったわね』
「家に帰らなきゃいけない用事でもあった?」
『それがね、大変なのよ。さっきパパから電話があって、沙耶のお誕生日会に連れてくるっていうから』
「連れてくる? 誰を?」
『沙耶も知ってるでしょ。結城湊さんよ』

 母の口からその名前を聞くとは思わなくて、驚く。

「え? 湊くんが来るの?」
『そうなのよ。彼の方からパパに連絡があったみたい。結城秀人さんのパーティーで湊さんと何かあったの? ママ不安だわ。結城さんににらまれたらパパの会社なんてすぐに潰されちゃうわ。沙耶、一度帰って来れない? ドレスに着替えて行きましょうよ』

 ほとほと困り果てている様子の電話口の後ろで、ルルルルルル……と電話の着信音が響く。どうやら自宅の固定電話が鳴っているようだ。

『沙耶、このままちょっと待ってて』

 母はスマホを持ったまま、固定電話に出たようだ。

『あら、パパ。沙耶? 沙耶はまだ帰って来てないの』

 どうやら相手は父のようだ。私はスマホを耳に当てたまま、集中して聞くでもなく、母の声になんとなく耳を傾けた。

『パパ、どういうこと? だって連絡があったのは、さっきでしょう? え? いくら忙しい人だからって……。もちろん勝手だなんて怒ったりはしないけど。じゃあ、沙耶は直接レストランに行くって言ってるから、そのようにするわね』

 ため息と共に、母の声が私のスマホの中でボリュームをあげた。

『沙耶、帰って来なくていいわ。先にレストランで待っていて。ママも今から行くから』
「湊くんは?」

 なんとなく電話の話から、湊くんは来ないんじゃないかと思ったけれど、母が『急に用事が入ったらしくて来れないらしいの』と、また一つため息を吐いたから、がっかりした私にも気づく。

「また会えるかな?」

 どうしてそんなことを母に聞いたのかはわからないけど、そんな言葉が口をついて出た。

『それはわからないわ。こちらがお呼び立て出来るような方じゃないもの。ああ、心配だわ。どんな用件だったのかしら。沙耶、もし湊さんから連絡があっても無下にしたらダメよ』
「湊くんって、思ったより良い人だったから大丈夫だよ」
『湊さんがどうこうという話じゃないのよ。沙耶に話しても仕方ないわね。じゃあ、今から用意するから切るわね』
「はーい、レストランで待ってるね」
『のんきねー』

 と、苦笑いの後、電話は切れた。

 私がスマホをカバンにしまうと、黙ってコーヒーを飲んでいた純ちゃんが少し身を乗り出した。

「なんて?」
「湊くんが誕生日会に来る予定だったけど、急に来れなくなったんだって」
「なんだー、残念。でも、いきなり家族と食事するなんて、ミナトくんって大胆だねー」
「この前のパーティーで両親には会っただろうし。うちとは無縁みたいな感じだけど、もともと結城家と上條家は縁があるしね」
「はー、サラッとしてるけど、沙耶って本当に本物のお嬢様だよね。まあ、うちの会社にはそういう人、多いけどね。でも、本当に残念だね。またミナトくんに会えるといいね」

 本当に純ちゃんの言う通りだ。湊くんに会えないのは残念だけど、また会える日は来ると思う。

「うん。用事があったなら、またお父さんに連絡入るかもしれないし。その時はまた純ちゃんに話すね。じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
「そうだね。ホテルのレストランだっけ? 途中まで一緒に行こ。またナンパされたら大変だしね」
「さっきの人、ナンパだったのかなー」
「なんだろね。でも、めっちゃカッコ良かったよー。やっぱりもったいないことしたんじゃない?」
「後悔してないよ」

 私はそう言って、純ちゃんと喫茶店を出た。
 暖かい店内から急に外に出たから、11月下旬の寒さが身にしみる。

「こんな日は彼氏にくっついて歩きたいよねー」

 純ちゃんはそう言って、寒さから逃れようと私に身を寄せる。

「私は純ちゃんがいるから当分いいよ」
「ほんと、あきれるー」

 くすくす笑いながら、私たちは肩を寄せ合って歩き出した。
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