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キスまでの距離
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「あら、湊さん、今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「気が変わったんだ。食事はしてきたからいらないよ」
二階にあがる階段を昇りかけたところで、リビングから出てきた母親が声をかけてきた。
それもそうだろう。今日は上條沙耶のささやかな誕生日パーティーに行ってくると話したのだから、上條家となんとしてでもつながりを持っていたい母親が気にするのは当然だ。
こんなことなら迂闊に話すのではなかった。いや、正確に言えば、上條沙耶の父親に電話しているところを見られてしまい、仕方なく話すことになったのだが。
「沙耶さんには会わなかったの?」
母親の質問には答えず、そのまま無言で階段を昇る。後ろから、母親のため息に混じって、バカにするような笑いを含んだ声が飛んでくる。
「沙耶ちゃんには会ったんだよなー、湊」
「秀人……」
振り返ると、兄の秀人が薄笑いを浮かべて、不安そうな母親の後ろに立っていた。
「沙耶なんて知らないよ」
「まあ、しらばっくれたくもなるよな」
「意味がわからないね」
「おまえはどこにいても目立つからな。知りたくなくても俺の耳に入ってくるんだよ」
「秀人さん、何の話?」
母親は理解でなくて、ますます不安そうにする。
「お母さんが気に病む話ではないですよ。大丈夫。湊は沙耶ちゃんとうまくいきますよ」
「そうなの? 湊さん」
「知らないよ」
勝手なことばかり言う秀人に背を向けて、二階にある自室へ向かう。すると、「湊、照れるなよ」と、秀人は楽しそうに後を追いかけてきた。
階段を上がって右側の自室に入ると、ドアを閉める前に秀人も入ってきた。
「いい加減なこと言うなよ」
ネクタイを緩めながら吐き捨てる。秀人は後手に閉めたドアに寄りかかった。
「湊は見事に沙耶ちゃんにふられました、なんて母さんに言ったら失神するぜ」
「誰がふられたって?」
眉がぴくりと上がるのがわかる。俺は今、自分でも自制できないような怒りを覚えているのだ。
しかし、秀人は容赦がない。そっとしておいてやろうなんて優しさなど持ち合わせていないのだ。
「ムリ、って道のど真ん中で叫ばれたんだろ? おまえをふった女を見たのは初めてだって、同僚が嬉しそうに電話してきたよ。沙耶ちゃんもなかなか男を見る目があるんだなって感心していたのさ」
「俺じゃないだろ」
「まあまあ、知らぬふりをするのも結構だが、事実は変えられないからな。問題は、これからどうするか? だろ」
「どうもこうもないさ。俺はもう二度と、上條沙耶には関わらないよ。わかったなら出て行ってくれよ」
上着を脱ぎ捨て、そのままベッドに横になる。秀人はしばらく立ち去る気配もなく部屋にいたが、背を向けて寝たふりをすると、無言で出ていった。
ため息を吐き出し、目を閉じた。
なんでこんなことになったんだ。沸き上がる思いはそれだけだ。本当なら今頃、上條沙耶を俺の女にしていたところだったのに。
沙耶が俺を拒むなんて考えてもみなかった。いや、沙耶と一緒にいた女が余計なことを言うから、彼女は俺を拒否したのだ。そうでも思わなければ、やるせない気持ちの行き場がない。
冷静になれ、と仰向けになり、腕を目元にあてた時、部屋のドアがノックされた。返事をする間もなくドアが開いて、姿を見せたのは秀人だ。
勝手に俺の部屋に入ってくるのは秀人ぐらいなものだ。
「なんだよ」
ちらりと視線だけ送ると、秀人は無遠慮にソファーに腰を下ろし、腕を組んだ。
「段取りしてきてやったよ」
「段取り? なんの?」
「沙耶ちゃんに湊との結婚を説得するよう、上條さんに電話しておいた。少し驚いてはいたが、光栄だと喜んでおられたよ」
「なっ……」
上半身を起こし、「余計なことを!」と食ってかかったが、秀人は薄笑いを浮かべた。
「沙耶ちゃんはどう見ても世間知らずのお嬢様だろ? ああいうのに遊びで手を出すと後悔するぞ。どうせ、責任とって結婚することになるんだ。結婚してから、存分に楽しめばいいだろ。飽きたら浮気したらいいんだ。上條さんは文句言わないさ。いや、言えないだろうな」
「勝手なこと言うなよ」
「湊と沙耶ちゃんの結婚は祝福されたものになるんだから、文句言うなよ」
「俺はまだ……」
「結婚する気がない? なら、今すぐ上條さんに電話入れるんだな。その代わり、もう沙耶ちゃんに会うことは出来なくなるけどな」
秀人はそう言うと、スマホをベッドの上へと放り投げてくる。
秀人はいつもそうだ。
俺の幸せを認めたくなくてか、無意識なのか故意か、俺が苦しむことになる行動を取る。
ベッドに投げ出されたスマホを見下ろす俺を、秀人は腕を組みながら楽しげに見ている。
「出ていってくれないか」
「俺がいると話しづらいか」
「考える時間が欲しいんだ。上條さんの連絡先なら俺も知ってる」
秀人のスマホを手に取り、ベッドから降りる。部屋のドアを開け、秀人にスマホを突き返す。
秀人はすんなり部屋を出たが、ドアを閉めようとする俺の手をつかんでさえぎり、顔を覗き込んできた。
「今さら考える時間なんて必要ないだろ? 欲しい女なら、どんな手を使ってでも手に入れた方がいい」
その目に浮かぶ嘲笑に、俺の苛立ちは高ぶった。
「自分ができなかったからって、俺に強制するなよ。沙耶のことは俺なりに考えてる」
「ふーん、考えてるねぇ。じゃあ、なおさら俺がしたことに感謝するんだな。沙耶ちゃんは円華と違っておとなしいから、結婚を拒んだりはしないだろうしな」
「そういうことを言ってるんじゃ……」
「相手の気持ちなんて考えてたら、一生幸せな結婚生活なんて送れないぜ。沙耶ちゃん以外の女と結婚したって、上條に執着してるあの人がいびり倒すに決まってるんだ。おまえは沙耶ちゃんとしか結婚できないんだよ」
「沙耶は……」
沙耶の気持ちはどうなる。好きでもない男と一生を過ごす人生は、俺には想像できない。
秀人はその気持ちさえも見透かしたように、口角をあげた。
「結城家の結婚に愛情なんていらないだろって話をしてるんだよ。まあ、多少気がとがめたとしても、思い通りにならない女を抱くのも楽しいだろうしな」
秀人は言いたいことを言って満足したのか、自らの手でドアを閉めた。
俺はため息を落とすと、ポケットに入っているスマホを取り出して、沙耶の父親の連絡先へ指を落とした。
「あら、湊さん、今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「気が変わったんだ。食事はしてきたからいらないよ」
二階にあがる階段を昇りかけたところで、リビングから出てきた母親が声をかけてきた。
それもそうだろう。今日は上條沙耶のささやかな誕生日パーティーに行ってくると話したのだから、上條家となんとしてでもつながりを持っていたい母親が気にするのは当然だ。
こんなことなら迂闊に話すのではなかった。いや、正確に言えば、上條沙耶の父親に電話しているところを見られてしまい、仕方なく話すことになったのだが。
「沙耶さんには会わなかったの?」
母親の質問には答えず、そのまま無言で階段を昇る。後ろから、母親のため息に混じって、バカにするような笑いを含んだ声が飛んでくる。
「沙耶ちゃんには会ったんだよなー、湊」
「秀人……」
振り返ると、兄の秀人が薄笑いを浮かべて、不安そうな母親の後ろに立っていた。
「沙耶なんて知らないよ」
「まあ、しらばっくれたくもなるよな」
「意味がわからないね」
「おまえはどこにいても目立つからな。知りたくなくても俺の耳に入ってくるんだよ」
「秀人さん、何の話?」
母親は理解でなくて、ますます不安そうにする。
「お母さんが気に病む話ではないですよ。大丈夫。湊は沙耶ちゃんとうまくいきますよ」
「そうなの? 湊さん」
「知らないよ」
勝手なことばかり言う秀人に背を向けて、二階にある自室へ向かう。すると、「湊、照れるなよ」と、秀人は楽しそうに後を追いかけてきた。
階段を上がって右側の自室に入ると、ドアを閉める前に秀人も入ってきた。
「いい加減なこと言うなよ」
ネクタイを緩めながら吐き捨てる。秀人は後手に閉めたドアに寄りかかった。
「湊は見事に沙耶ちゃんにふられました、なんて母さんに言ったら失神するぜ」
「誰がふられたって?」
眉がぴくりと上がるのがわかる。俺は今、自分でも自制できないような怒りを覚えているのだ。
しかし、秀人は容赦がない。そっとしておいてやろうなんて優しさなど持ち合わせていないのだ。
「ムリ、って道のど真ん中で叫ばれたんだろ? おまえをふった女を見たのは初めてだって、同僚が嬉しそうに電話してきたよ。沙耶ちゃんもなかなか男を見る目があるんだなって感心していたのさ」
「俺じゃないだろ」
「まあまあ、知らぬふりをするのも結構だが、事実は変えられないからな。問題は、これからどうするか? だろ」
「どうもこうもないさ。俺はもう二度と、上條沙耶には関わらないよ。わかったなら出て行ってくれよ」
上着を脱ぎ捨て、そのままベッドに横になる。秀人はしばらく立ち去る気配もなく部屋にいたが、背を向けて寝たふりをすると、無言で出ていった。
ため息を吐き出し、目を閉じた。
なんでこんなことになったんだ。沸き上がる思いはそれだけだ。本当なら今頃、上條沙耶を俺の女にしていたところだったのに。
沙耶が俺を拒むなんて考えてもみなかった。いや、沙耶と一緒にいた女が余計なことを言うから、彼女は俺を拒否したのだ。そうでも思わなければ、やるせない気持ちの行き場がない。
冷静になれ、と仰向けになり、腕を目元にあてた時、部屋のドアがノックされた。返事をする間もなくドアが開いて、姿を見せたのは秀人だ。
勝手に俺の部屋に入ってくるのは秀人ぐらいなものだ。
「なんだよ」
ちらりと視線だけ送ると、秀人は無遠慮にソファーに腰を下ろし、腕を組んだ。
「段取りしてきてやったよ」
「段取り? なんの?」
「沙耶ちゃんに湊との結婚を説得するよう、上條さんに電話しておいた。少し驚いてはいたが、光栄だと喜んでおられたよ」
「なっ……」
上半身を起こし、「余計なことを!」と食ってかかったが、秀人は薄笑いを浮かべた。
「沙耶ちゃんはどう見ても世間知らずのお嬢様だろ? ああいうのに遊びで手を出すと後悔するぞ。どうせ、責任とって結婚することになるんだ。結婚してから、存分に楽しめばいいだろ。飽きたら浮気したらいいんだ。上條さんは文句言わないさ。いや、言えないだろうな」
「勝手なこと言うなよ」
「湊と沙耶ちゃんの結婚は祝福されたものになるんだから、文句言うなよ」
「俺はまだ……」
「結婚する気がない? なら、今すぐ上條さんに電話入れるんだな。その代わり、もう沙耶ちゃんに会うことは出来なくなるけどな」
秀人はそう言うと、スマホをベッドの上へと放り投げてくる。
秀人はいつもそうだ。
俺の幸せを認めたくなくてか、無意識なのか故意か、俺が苦しむことになる行動を取る。
ベッドに投げ出されたスマホを見下ろす俺を、秀人は腕を組みながら楽しげに見ている。
「出ていってくれないか」
「俺がいると話しづらいか」
「考える時間が欲しいんだ。上條さんの連絡先なら俺も知ってる」
秀人のスマホを手に取り、ベッドから降りる。部屋のドアを開け、秀人にスマホを突き返す。
秀人はすんなり部屋を出たが、ドアを閉めようとする俺の手をつかんでさえぎり、顔を覗き込んできた。
「今さら考える時間なんて必要ないだろ? 欲しい女なら、どんな手を使ってでも手に入れた方がいい」
その目に浮かぶ嘲笑に、俺の苛立ちは高ぶった。
「自分ができなかったからって、俺に強制するなよ。沙耶のことは俺なりに考えてる」
「ふーん、考えてるねぇ。じゃあ、なおさら俺がしたことに感謝するんだな。沙耶ちゃんは円華と違っておとなしいから、結婚を拒んだりはしないだろうしな」
「そういうことを言ってるんじゃ……」
「相手の気持ちなんて考えてたら、一生幸せな結婚生活なんて送れないぜ。沙耶ちゃん以外の女と結婚したって、上條に執着してるあの人がいびり倒すに決まってるんだ。おまえは沙耶ちゃんとしか結婚できないんだよ」
「沙耶は……」
沙耶の気持ちはどうなる。好きでもない男と一生を過ごす人生は、俺には想像できない。
秀人はその気持ちさえも見透かしたように、口角をあげた。
「結城家の結婚に愛情なんていらないだろって話をしてるんだよ。まあ、多少気がとがめたとしても、思い通りにならない女を抱くのも楽しいだろうしな」
秀人は言いたいことを言って満足したのか、自らの手でドアを閉めた。
俺はため息を落とすと、ポケットに入っているスマホを取り出して、沙耶の父親の連絡先へ指を落とした。
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