せめて契約に愛を

水城ひさぎ

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キスまでの距離

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「明日だっけ? ミナトくんに会うの」

 純ちゃんはコンビニの雑誌コーナーにあるファッション雑誌を手に取ると、レジに向かった。その後ろをついて、私は「うん」とうなずく。

 会社帰りの私は、買いたいものがあるからという純ちゃんと、コンビニに立ち寄っていた。

「楽しみだね。向こうはその気なんでしょ? 沙耶がいいなって思ったら付き合うの?」
「何回か会って、そんな気持ちになれば……、かな」
「悠長なこと言ってるけど、好意があるのに下心もなしに会うだけなんて、そんなこと許してくれる男いないでしょー」

 純ちゃんは笑って、レジでお釣りを受け取ると、いきなり私の腕をつかんだ。

「見て見て、沙耶。あの人、この間の人じゃない?」
「この間の人?」

 コンビニのドアへ向かった純ちゃんの目の前で、ゆっくり開いた自動ドア。その奥で、一人の青年がタクシーを拾おうとしてるみたいに道路を眺めている姿が見えた。

「先輩の元カレよ。知野深雪先輩のっ」
「あ、うん、そうだね」
「会社近くなのかな?」
「そうかもね。この間も会社帰りみたいだったし」
「やっぱりカッコいいよ、あの人。ミナトくんがブサイクだったら、あの人にしたら? きっとまだ大丈夫だよ」

 純ちゃんのあいかわらずの言い方には笑ってしまう。

「湊くんはカッコいいみたいだよ。いとこがそう言ってたし、お父さんも悪くはないって言ってた」
「えー、そうなの? 沙耶ってなんでそんなにイイ男と縁があるの?」
「別に縁なんてないよー」
「あるあるー」

 コンビニを出て、純ちゃんと話しながら地下鉄の駅に向かって歩き出そうとした時だ。

「沙耶、あの人、こっち見た!」

 純ちゃんが叫ぶ。

「あ! 来るよ!」

 純ちゃんはさらに叫んで、私の腕をぶんぶんと振る。

「来るって……」

 話すことはないんだけどと思いながら純ちゃんの視線の先を追うと、車の波を縫うようにして大通りを横切ってくる彼と目が合った。

 彼は迷うことなくまっすぐ私に向かってくる。私に用があるのは明白で。
 逃げ出すわけにもいかなくて、知らず知らずのうちに純ちゃんと身を寄せ合っていた。

 彼は私の前でぴたりと足を止めると、純ちゃんなど目に入らない様子で、「少し話がある」と私の目を見て言う。

「あの……」
「もちろん、君と二人で。彼女には帰ってもらえないかな」

 そう言って、彼はジッと純ちゃんを見つめる。その瞳に浮かんだ、帰れ、の文字を見つけたみたいに、彼女は身を引く。

「純ちゃん……」
「沙耶、ごめん。今日は帰るわ」

 目の前で両手を合わせた純ちゃんは、私が止めるのもきかないで、「また月曜日ね」と耳打ちして帰ってしまった。

 取り残された私が、「えっと……」と目をきょろきょろさせていると、彼はかすかに微笑んだ。

「そこの喫茶店にでも入るか? 寒いから」
「え、あの……、ここで。ここで聞きます」

 長話をする気はないのだとアピールしてみたら、彼はスッと笑みを消す。まるで作り込まれた笑顔だったと言わないばかりに。

「俺の誘いを断る女なんていないんだけどな」

 かなりの自信家だ。もちろん、自信を持ってもおかしくないぐらい、端正な顔立ちをしているけれど。

「まあいい。少し覚悟をするように言いに来ただけだから」

 覚悟?と、私は沈黙した。なんの覚悟だろう。考えを巡らす私が何も言わないからか、彼はあきらめて立ち話を始めた。

「俺の家は普通じゃないからな、いろいろと事情がある」
「はぁ……」
「はぁ、か。君はのんびり屋だな」

 苦笑いを禁じ得ない様子の彼は、それでも先ほどよりは和らいで、肩を揺らす。

「ちょっと困ったことが起きていてね。まあ、実は大したことじゃないんだが」
「そのことは私と関係がありますか?」
「あるよ。俺はまだ君を諦めてはいないんだ。君以外の女性との結婚は、今のところ望んでない」
「よくわからないけれど……」
「簡単に言うと、俺に結婚話が勝手なところで持ち上がってしまっているという話だよ」
「そうなんですか。……じゃあ、あなたもお見合いするの?」

 彼はちょっと困ったように笑って、髪をかきあげた。

「実はそんな話は俺にとって日常茶飯事でね。俺が頷けば、いつだって結婚はできる」
「すごいんですね」
「家柄のせいさ。迷惑してもいる」
「でも、良い方も中にはいるんでしょう?」
「どうだろな。君以外の女性との結婚なんて考えたりもしないからな。正直面倒なんだよ」

 乱雑に髪をかき上げる姿も綺麗な青年を、私はどこか他人事のように見上げている。

「丁重にお断りするしかないですね。確かに大変そう」
「だろ? だから君には、頷いてもらわないと困るんだ」
「うなずく?」
「そうさ。君が嫌だというなら、俺は君以外の女性と結婚しなきゃいけなくなる」

 一方的に不満をぶつけられて、困ってしまう。

「話がよくわからないです。あなたのことよく知らないのに、結婚とか……」
「お互いをよく知るための猶予を、俺の家が許すかどうかわからないんだ」
「それはあなたのお家の事情で……」
「君がいいと思ってるんだ。君さえ素直になれば」
「急にそんなこと言われても困ります。それに私……」

 ふと脳裏をよぎる青年がいる。彼とは明日会う。はっきり好意があるとは言えないけれど、少なくとも今は、彼に会うことを楽しみにしている。

「私……」

 少しうつむけた顔をそらすと、目の前の彼は不穏な雰囲気で私の腕をそっとつかんだ。

「好きな男がいるのか?」

 それは頼りなげな質問で。

「好きとは言えないけれど……」
「だったら、何も心配はいらない」
「でも……」

 見上げると、意外なほどに彼は不安げだ。

「でも、なんて言葉はいらないはずだ」
「はじめてなの」
「何が?」
「はじめてもう一度会いたいと思える人に出会ったの」
「……だったらなんで」

 彼は言葉をくぎり、ため息を吐き出した。

「だから、無理だと言ったのか。そうか。君も俺と同じだ。望んで会うばかりではないということか……」

 私の腕から離れた彼の長い指は、悩むように眉間に置かれた。

「私、結婚のことはちゃんと考えたいの。家柄とか……、そういうことに左右されたくないの」
「それでも」

 私の瞳を見つめる彼の眼差しは弱々しいが、彼も諦めきれぬ思いがあるのだと感じるほどにそらされはしない。

「それでも君は、俺と結婚するかもしれない。その覚悟を君はしなくちゃいけない」
「今日はそれを言いに来たの? そんな強制された結婚に、どんな幸せがあるの?」
「たとえそんな結婚でも、君とならいいと思えたから決心したんだ」
「私があなたの理想とかけ離れた女だったら後悔するじゃない。猶予がないなら、縁がないんだと諦めた方がいいわ」

 ハッとするように彼は表情を歪め、薄く笑った。

「君は……、とても冷静だよ。だけどどうにもならないこともあるんだと、そんなことにも気づけない子供だね」
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