せめて契約に愛を

つづき綴

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キスまでの距離

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***


 玄関ドアを開くと、少し緊張した面持ちの沙耶が立っていた。
 ファーがついた白いコート姿の彼女は、清らかなイメージそのもの。色白の頬を少し赤らめているのは寒さのためだろうが、彼女の愛らしさを高めるには十分だ。

「まあ入れよ」
「あ、うん」

 言葉少なに頷いた沙耶は、玄関に入るとおもむろにコートを脱いだ。
 コートの中は淡いピンクベージュのブラウスに、ブラウンのフレアスカート。ブーツやアクセサリーも、優しいイメージの彼女に似合う、どこまでも繊細なデザインを身につけている。

 華奢な背中を俺に向けてブーツを脱いだ沙耶は、振り返るとちょっと驚いて身を引いた。

「どうした?」
「あ、あんまり近くにいたから……」
「玄関で襲うかよ」
「そんな意味で言ったんじゃないよ」
「俺は玄関以外でなら襲うかもと言ったんだ」
「変なこと言わないで……」
「男の部屋に抵抗なく来れるってことは、間違いが起きてもかまわないと思ってるからさ。まあ、そのつもりはないから安心しろ。今のところはな」

 沙耶の目の前で、玄関ドアのロックをかける。彼女の全身に緊張が走る。無防備な女だ。俺を男として意識していないにもほどがある。

「まあ、いずれそういう関係になるんだ。急ぎはしないよ」
「えっ! やだ……」
「やだってなぁ」
「違うよ。あ、でも……、違わないけど。やだって言うか……、まだ早いと思うの」

 沙耶は真っ赤になって、気持ちに整理をつけないまま話すから混乱している。

「ふぅん。気になる男がいるくせに、俺に抱かれてもかまわないと思ってるんだ。清純そうな顔して、そっちは興味あるわけ?」
「ち、違うよ。そうじゃないよ」
「何が?」

 沙耶はジッと俺を見上げて、言おうか言わないか、迷うように唇を震わせる。そんな懇願するみたいな愛らしい目で見つめられたら、男は冷静な判断が出来ないだろう。

 沙耶の自覚の足りなさを憂いながらも、俺は彼女との間合いを一歩つめた。
 今なら、沙耶の唇は簡単に奪えるだろう。分からず屋にわからせるためには、行動に移した方が早いかもしれない。

 結局言えないのか、うつむいた沙耶の肩に手を伸ばす。彼女に触れたら、今度は俺が分からず屋になるだろうか。

「沙耶……」
「好きな男の人はいないよ」

 ふいに顔をあげて言うから、俺は慌てて手を引っ込めた。そんな動作にも気づかないほど、真剣な眼差しで彼女は俺の目を見ている。

「は? 自分が言ったこと忘れたのか?」
「いないの。あれはちょっと、いろいろ誤解があって」
「誤解……? あれが?」

 こんな感情になったのは初めてだと告白した沙耶の様子は、誤解とは思えなかったが。

「あの、気になる人はいたにはいたんだけど、ちょっと誤解があって。まだ好きとか、そういう気持ちにはなってないから、うまくは言えないんだけど」
「俺との結婚が決まって、諦められる程度の気持ちだったってことがわかったんだろ」
「ちょっと違うけど……」
「まあいいさ。最初から俺は気にしてないんだ。沙耶の決心がつくなら、経緯は興味ないさ」
「湊くんはおおらかだね」
「なんか違うだろ」

 苦笑いすると、沙耶も肩の荷が下りたような笑顔になって、「部屋の中、見てもいい?」と辺りを見回した。

「自分の家になるんだ。勝手に見たらいい」

 隠すものは何もない。俺も越してきて日が浅い。手つかずの部屋もあるから、沙耶に見てもらってから片付けた方が効率がいいかもしれないとも思う。

 沙耶はそれでも勝手に歩き回ったりしないで、俺についてリビングに入ってきた。その途端、俺と二人きりで部屋にいる緊張感とか、これから二人で暮らしていくのだという不安感すべてを投げ打った表情で、目の前に広がる光景に目を輝かせた。

「綺麗ー!」
「だろ」
「すごいね。リビングの窓もすっごく大きいから、ホテルに来たみたいっ」

 リビングのガラス窓に駆け寄った沙耶は、ガラスに張り付くようにして、眼下に広がる光景にすぐに見惚れた。

「ホテルで誰かと夜景を見た経験でもあるの?」

 そんなことがないことは知っている。沙耶は大事に育てられすぎている。

「な、ないよー」

 慌てて否定する無邪気な沙耶の背後に立ち、ガラス窓に手をついた。俺とガラスの間に挟まれた沙耶は、困惑をあらわに俺を見上げる。

「じゃあ、そんな風に喜ぶ姿を見た男は、俺がはじめてだ」
「湊くん……、ちょっとだけ離れて」

 俺の質問には答えないで、要求だけする沙耶は憎らしい。

「なんで?」
「だって近い……」
「なんで近づいたか知りたいわけ?」
「そうじゃなくて」
「君は知った方がいい。こういうことに遅い早いもないんだ。触れたいと思った時に俺はしたい」
「え……」

 と、薄く唇を開いた沙耶の頬を左手で支える。その手の方へ視線をわずかにずらした彼女の隙をついて、顔を近づける。

「みな……っ」

 驚く沙耶の言葉は、唇で塞いだ。すぐに逃げ出そうとするから、左手をそのまま後頭部にずらし、さらに深く唇を重ねた。

 沙耶の指が俺の手首を弱々しくつかむ。抵抗か、ただ戸惑っているだけなのか。それでも沙耶はわずかにあごを引く。
 わずかな距離は、追いかければすぐに埋まる。ただ重ねているだけのキスなんて物足りない。あまりに柔らかい彼女の唇から離れられない俺は、今までにないほどの幸福感を覚えている。

「君の唇を知ってる男が俺だけかと思うと興奮する」
「……湊くん、意地悪だよ」
「どうも君を見てるといじめたくなるんだ。それでも十分おさえてるんだけどね」
「意味もなくこんなことしたらダメだよ……」
「意味? 君もおかしなことを言うね。君の言う意味が前戯だというなら、俺は遠慮しないよ」

 腰に腕を回すと、沙耶は真っ赤になって慌てた。

「そうじゃなくて……。気持ちがないキスは良くないって言ってるの」
「……君は失礼だよ」

 あきれて手を離すと、沙耶はすぐに乱れたブラウスを整えた。彼女が俺を求めてくる日を期待するのは無謀かと思うほどだ。

「まあいいさ。君にはそれほどの期待はしてない」

 すぐに恋人同士のようなキスが出来るとは思っていない。沙耶にしてみたら、出会ったばかりの男と過ちを犯したようなものかもしれないのだ。少しずつ、彼女の気持ちが俺に傾けばいい。

 俺は窓の前に立ち、大通りを見下ろした。クリスマス前の大通りは、豪華なイルミネーションに飾られて、夜の街を華やかにしている。

「……私」
「ん?」

 俺の隣に沙耶は寄り添うように立つ。そして、同様にイルミネーションを見つめた。ただその横顔は、何かを決意したように固く。

「私もわかってるんだよ……」

 何を?と、尋ねる必要はないだろう。
 気持ちに反してでも、俺を受け入れなければならない定めにあると、彼女もわかっている。

「身体は素直だよ。だからこそ意味が欲しいなら、俺は与えてはやれないよ」
「お互いに好きになれる日は来ないの?」
「それは君次第だろう」
「努力では補えないでしょ?」
「だろうな。俺はいつか君を抱くが、そこに意味をもたせたいなら、君も覚悟がいる。それは前にも言ったことだ」

 沙耶は少しだけ沈黙して、言う。

「湊くんは責任感が強いんだね」
「沙耶ほどじゃないとは思うよ」
「義務感や責任感だけで、結婚する日が来ないように努力したいとは思ってるの」
「君に出来るのか不安だね」
「……だから、時間をちょうだいと言ったのに」

 ふりだしだ。今日は沙耶と少し近づけるかと思っていたが、俺がキスをしたばかりに、彼女とは距離が出来てしまったかもしれない。

「クリスマスはパーティーがある。それまでには決心してくれると嬉しいね」
「パーティー?」
「毎年恒例だよ。今年は君を恋人として連れていく。それでもう、煩わしい見合い話は持ち上がらなくなるさ」

 俺は窓から離れ、ソファーへと腰を沈めた。沙耶は振り返りもせず、ジッと外を見ている。その背中は小さい。同じ上條でも、円華の代わりに結城の名を背負わせるのは、沙耶には荷が重いのかもしれないと、後悔すら感じる。

「君が喜んでパーティーに出席してくれたら嬉しいよ」

 そう言うと、沙耶はハッとして振り返り、かたい表情を崩しながら笑顔を見せた。

「湊くんと一緒なら大丈夫だよ、私」
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