せめて契約に愛を

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キスまでの距離

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 沙耶よりも先に、男は俺の声に反応した。彼女が振り返る寸前に、今にも肩に触れようとしていた腕をさげた。

 すぐに俺が何者か気づいたはずなのに、男は顔色一つ変えず、「知り合い?」と沙耶に尋ねた。もちろん彼女は「婚約者です」と答えたが、男は「彼が」とさほど興味もなさげにうなずいた。

 沙耶に触れようとしていたくせに、まるで関心のないふりは俺を苛立たせる。どういうつもりだと詰め寄ったところで、言いがかりだと男は否定するだろう。

 対峙する俺と男の間で、沙耶はうつむき加減に俺に近づいてきた。

「ごめんね、湊くん。もう少し後で行くから……」
「待つのは好きじゃない」
「でも、みんなの前にはいけないし」
「行かなくてもいい」
「え……?」

 と、顔をあげた沙耶は、俺と目を合わせると、慌てて右目を手で覆った。

「どうした、その目は」

 赤くなった目は、確かに俺の婚約者としてパーティー会場内を悠然と歩けるようなものではない。
 行きたくないと言う沙耶の気持ちがわからないでもない。それにしても、よりによって男とラウンジで過ごそうとするとは。

「これは、ちょっと」
「言いたくないなら言う必要はないが」
「言いたくないわけじゃないよ。でも、湊くんはきっと笑うから」
「笑う?」

 沙耶は悲しげにうつむく。意味がわからない。俺に笑われるようなことなのに、なぜそんなに落ち込むのか。

「とにかく……」

 行こうと、沙耶の手をつかんだ時、成り行きを見守っていた男が沙耶の後ろに立った。

「部外者が言うのもなんですが、あなたにとっては小さなことでも、あなたに恥をかかせるかもしれないと落ち込む彼女の悩みは決して小さなものではないと思いますよ」
「あなたは?」
「あ、失礼。彼女の同僚で浅田雄哉と言います。妻がいつも結城さんのパーティーには招待して頂いてまして、お世話になっています」
「そうですか。では、あなたもパーティーを楽しまれるといい。沙耶を心配して下さるのはいいが、度が過ぎるのは感心しませんよ」
「度が過ぎる?これは……」

 浅田は口元に手の甲を当て、くすりと笑った。

「でしゃばったように見えたのなら仕方ありませんね。私はただ当たり前のことをしようとしただけですが」

 既婚者のくせに、婚約者のいる女と二人きりで酒を飲もうとした男の言い分などに耳を傾ける気はない。

「沙耶、話がある」

 俺は沙耶の手を引く。

「あ、浅田主任、ありがとうございます」

 この場を立ち去ろうとする俺に気づいて慌てた沙耶は、浅田に礼を言うと、「湊くんっ、ちょっと……」と言いながら、俺の後をついてきた。

「湊くんっ、違うよ。浅田主任は本当に心配してくれただけで……。あ、湊くん、パーティー会場は隣の部屋だよっ」

 無言で俺は来た道を戻ると、目の前の扉を開いた。騒ぐ沙耶の腕をつかみ、扉の中へと彼女を押し込む。

 がらんとした広い部屋には、白い布がかけられたテーブルがいくつかあるだけだ。ひと気の全くない部屋に響くのは、後手に閉めた扉の音だけ。

 シンッと静まり返った部屋に臆したのか、沙耶も口をつぐんで後ろに下がった。

「君は不用心すぎるよ」

 一歩近づくと、彼女はまた一歩下がろうとする。そうはさせまいと腕をつかんで引き寄せ、腰に片腕を回す。硬くなる彼女の身体は、緊張を伝えてくる。

「泣くようなことがあるなら、誰かを頼る前に俺に話せ」

 意外なことを聞いたように、沙耶は目を大きく開いて俺を見上げた。

「沙耶は俺を誤解してるよ」
「誤解……?」
「俺は別に、縁談を断るために君との結婚を決めたわけじゃないよ」
「なに、急に」
「円華にそんな話をして泣いたのか? だからってあの男と過ごそうとするのは間違ってるよ」
「円華?」

 沙耶は思案げに口を閉ざす。黙るのは心当たりがある証拠だ。

「でもまあ、そんな理由で泣くんだとしたら、少しは期待しても良さそうだ」

 沙耶の白い頬に指を這わせる。ある予感を感じて当惑する彼女は可愛らしい。

「君の悩みを笑ったりはしないよ。もし、俺の態度で誤解したなら謝るよ」
「今日の湊くん、変だよ」
「だとしたら君のせいだ」

 そっと唇を重ねる。心構えができていたのだろう沙耶は逃げたりしなかった。

「これはごめんのキス」

 恥ずかしそうに目を閉じていた彼女はゆっくり目を開けた。

「もう大して赤くないよ。誰の前に出ても恥ずかしくはないさ」

 目元に指を当てると、沙耶はますます恥ずかしそうにする。

「違うの……」
「何が?」
「目にゴミが入ったみたいで」

 あっさりと告白した沙耶の言葉で、なぜ彼女が俺に笑われると思ったのか理解した。笑い飛ばす気もおきない今日の俺は、やはりどうかしている。

「コンタクトしてるから痛くて」
「コンタクト? ああ確かに。なんだ、沙耶はあまり目が良くないのか」
「浅田主任がいたから我慢してみたんだけど、目が真っ赤になっちゃって」
「君は変なところで我慢するんだな」
「笑わないの?」
「それより君が無事で良かったと思うよ。そんな可愛い顔で見つめられたら、そういうつもりのない男もやましい気持ちになる」
「そ、そんなっ……」
「もう一度キスしよう」

 良いも悪いもなく唇を重ねたら、彼女の細い身体に緊張が走る。髪が崩れるのも気にしないで頭を押さえ、唇を割り、舌を滑り込ませたら、沙耶はぎゅっと俺の腕をつかむ。

 されるがままの彼女とのキスは新鮮だ。真っ赤になって俺にしがみついてくる。それだけで精一杯なのだ。

「気持ちのないキスじゃないことはわかってくれた?」

 呼吸を乱す沙耶は頬に手を当てて、首を横に振る。

「急にこんな……」
「慣れないなら、慣らすまでだ」

 うなじに指を滑り込ませたら、沙耶は目を見開く。

「……まだ、するの?」
「意味のないキスが嫌だというなら、俺は一度も意味のないキスはしたことがないと言うしかない」
「湊くん……」
「それに、まだするの?とは、君は失礼すぎる」

 フッと笑って唇を寄せると、沙耶はちょっと逃げるみたいにあごを引く。

「これに意味はあるの?」
「あるよ。俺は君が好きだから、キスをするんだ」
「え、好き……?」
「鈍感だな」

 唇を軽く合わせると、沙耶は戸惑いながらも目を閉じて唇を受け止める。

 彼女とする求めあうキスまでの距離が、こんな簡単な言葉で縮められるものだと知った今は、もうこれ以上の言葉は必要ないだろう。
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