せめて契約に愛を

つづき綴

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寝室までの距離

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「あー、結構飲んだね、沙耶。まあ、いつものことだけど」
「うん……、ふわふわするー」
「全然断らないから、どんどん勧められちゃうんだよー。大丈夫? マンションの前まで送ろうか?」
「大丈夫だよー。純ちゃん、電車の時間あるでしょー?」
「じゃあ、そこの交差点まで一緒に行こう。道路渡ったらマンションすぐだよね?」
「うん、ありがとー」
「その陽気な足取りが怖いのよねー」

 夜風は冷たいのに、ちょっと気持ちがいいと感じる。いつもより飲みすぎたかもしれない。このまま帰って眠ってしまいたい。そのぐらい気持ちがいい酔いだ。

 交差点はすぐそこで、忘年会の感想を話す前に到着してしまう。名残惜しく思いながらも、赤信号の横断歩道の前で足を止めた。

「じゃあ沙耶、気をつけて帰るんだよ」
「うん、純ちゃんもねー」
「マンションにミナトくんいるんだよね? 迎えに来てもらう?」
「大丈夫だよー。すぐそこだもん」
「ほんとに大丈夫?」
「うん。お正月は時間があったら連絡するね」
「きっと忙しいだろうから、無理しなくていいからね。じゃあ、また来年ね」
「良いお年をー」

 手を振る私を、純ちゃんは心配そうにしながら何度も振り返り、確認しながら去っていく。そうするうちに、次第に背中は見えなくなっていった。
 その頃には横断歩道も青信号になっていて、一歩足を踏み込んだ時、身体がわずかにぐらついた。

「あぶないなー。上條さんって、ずっとなんとなく生きてるだろー」

 倒れるほどではなかったが、腕をつかまれた。おぼつかない足元はそのまま、青年に腕を引かれて横断歩道を歩き出す。

「あ、浅田主任ー」
「あ、じゃないよ。危なっかしいから、途中まで一緒に行くよ」

 点滅を始めた信号を見て早足になる浅田主任に、ついていくので精一杯だ。いいも悪いもなく、彼に誘導されるがままに歩く。

「マンションって確か、あの高級マンションだよな? すごいな、結城は。あんな若造が住めるんだから」

 少し先にある高層マンションを指差して、浅田主任は言う。

「中もすごい豪華なんですよー」
「へえ、じゃあ今度、旦那様のいない時にでも見せてもらおうかな」
「ダメですよっ。絶対ダメです」
「酔ってるのに、そういうとこはちゃんとしてるんだな。君ってガードが甘そうで、なかなか頑丈なんだな」
「そうですかー?」

 今日はちょっとだけ気分がうきうきしてる。浅田主任との会話も弾む。

「そうだよ。今日だって、君に好意を持ってる同僚がなかなか声をかけられないうちに結婚してしまったって嘆いてたよ」
「そんな人いないですよー。冗談はやめてください」
「君は何も気づかないんだな。俺が結婚してなかったら、この状況にも危険を感じた方がいいよ」
「危ない人はわかります」

 ちょっと胸を張る。

「危険回避能力は意外に高いんだ? でも気持ち一つで、君をどうにでも出来るよ、俺は」
「湊くんが怒ります」
「怒るなんてものじゃないだろうな。命あっての物種だから、君には用心していよう」
「でも心配して、こうやって送ってくださるから、優しいですね」
「下心だよ、下心」

 浅田主任はくすくす笑う。

「浅田主任でもそんな冗談言うんですね」
「まだな。まだ君に女としての魅力は感じないからな。彼には抱かれてないのか? そうだとしたら、意外すぎるけどね」
「湊くんは優しいんです」
「へえ、そう」
「今日の浅田主任も、いつもと違いますね」
「それは君が酔ってるから、そう思うだけさ。さあ、ついた。ナイトの役目も短いものだったな」

 浅田主任は私の腕を離すと、早速帰ろうとする。本当に送ってくれただけなのだ。

「いつもありがとうございます」
「いや。いつかのために恩を売ってるだけさ」

 冗談だか本気だかわからないことを言って、浅田主任は来た道を戻り始める。その背中を見送っていると、彼は振り返って、「風邪引くから早く行けよ」と言う。

 私は頭を下げると、見守る浅田主任に背を向けて、マンションのエントランスへと入った。

 酔いは幾分冷めた気がしたが、エレベーターのボタンを押す指に力が入らない。このまま寝てしまうかもしれない、なんて思いながら、エレベーターの壁にもたれた。
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