せめて契約に愛を

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寝室までの距離

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 それからは、食事をしながら純ちゃんの話をした。それが二人の共通の話題で、当たり障りのない会話が出来るということに、私たちは気づいていたからだ。

 朔くんは穏やかで、優しい青年。私の話を聞いて、愉快げに笑ってくれる。
 湊くんと一緒にいる時と同様の居心地の良さを感じさせてくれる人だ。

「もっと早くお友達になれたら良かったね」

 素直にそう思えて言うと、朔くんは困り顔を見せる。

「湊先輩よりも先に出会えてたら、何か違ったのかな……」
「……」
「あ、いや、そうだったら好きな時に会えたのかもと思っただけで。あ、違う……、そういうんじゃなくて」
「ありがとう、朔くん。私、男友達いないからあんまり気にしてなかったけど、結婚すると、こうやってお友達と会うだけなのに変な気を遣うんだなって思うの」

 朔くんの心配はなんとなくわかる。結婚するって、こういう不自由な面も出るってことも。

「それは仕方のないことですから」
「私がちゃんとしてればいい話だよね。湊くんを不安にさせないようにしたいの」
「大丈夫ですよ。湊先輩は沙耶さんと結婚してからずいぶんと柔らかくなりました。きっと幸せなんですよ」
「本当……?」
「俺はそう思います。じゃあ、行きましょう」

 これ以上話が長くなってはいけないと朔くんが伝票に手を伸ばした時、彼の背後に一人の青年が現れた。

 私の視線はすぐにその青年に釘付けになった。
 別に朔くんと食事をしていることにやましいことなんてない。そう思うのに、私の呼吸は急激に乱れ始める。

 不安を明らかに浮かべた私の表情に気づいて、朔くんは眉を寄せる。不審に思って振り返り、真後ろに立つ青年を見上げた。

 青年は朔くんを見下ろし、「へえー」と言う。そのまま視線を私に向け、にやりと笑う。

「沙耶ちゃんは意外と悪女だね。純情そうなふりして、湊を騙してるんだ?」
「ち、違います」

 首を横に振り、誤解だと訴えるけど、一向に胸の高鳴りは収まらない。

 なぜだろう。なぜこんなにも焦燥感を覚えるのだろう。

「まあ、俺はかまわないけど。お互いさまのことだしな」

 青年は不気味な笑顔を浮かべたまま、朔くんの隣に腰を下ろした。そして、まるで臨戦態勢のように身を乗り出す。

「今日は話があって来たんだ。どう話したものかと悩んだが、あまり気を遣う必要はないみたいだったな」
「話……、ですか?」

 私の声が震えたことに気づいた朔くんは眉をひそめる。

「どなたですか?」

 私に聞いたのか、青年に尋ねたのか、朔くんがそう言った時、目を伏せようとする私の目に映ったのは、唇の端を持ち上げる青年の顔だ。

「結城秀人だよ。結城グループの会社に勤務してるなら、俺の顔ぐらい覚えておくんだな」
「結城……」

 絶句した朔くんはもう気づいているのだろう。しかし、秀人さんは追い討ちをかけるように言う。

「結城湊の兄だよ、山口朔くん。湊の女とホテルで食事かい? 君もずいぶんと大胆な男だね」
「秀人さん、朔くんはここの料理が美味しいからって連れてきてくれただけなんです。秀人さんが思ってるようなことは誤解で……」

 秀人さんは朔くんの名前を知っている。湊くんがわざわざ秀人さんに朔くんの話をするとは思えない。だとしたら、朔くんのことは結城に調べられているということかもしれない。

 朔くんに迷惑をかけてはいけない。
 とっさに朔くんをかばったけれど、秀人さんは「どうでもいいことだよ」と、興味なさげに私の言葉を遮った。

 正月に会った時の秀人さんは常に笑顔だったけれど、今は違う。こんなに怖い表情をするのだと驚くほど、冷酷な目をする。

 息を飲む私を心配そうに見つめる朔くんを、やはりこれ以上巻き込んではいけないと思う。それほどに秀人さんの表情は不穏だ。

「朔くん、もう大丈夫だから帰っていいよ」
「でも……」

 秀人さんをちらりと見る朔くんにうなずきかけるが、秀人さんは椅子にもたれて腕を広げ、朔くんの立ち上がるスペースを塞いだ。

「帰る必要はない。聞かれて困る話じゃないからな」
「どんな、お話ですか?」
「その前に忠告しておくが、この辺りで沙耶ちゃんの身に起きたことは大概俺の耳に入るようになっている。今後は軽率な行動は控えるか、別の場所でするんだな」
「お友達とお食事してるだけです……」

 それを軽率な行動だなんて言われたら、朔くんにも申し訳ない。私の反論が気に入らなかったのか、秀人さんは挑むような目で薄く笑う。

「へえ、そう。湊には山口純と食事するって連絡したそうじゃないか。嘘をついて男と食事することにやましさはないのかい?」
「それは……」

 秀人さんは何もかも知ってるのだろうか。もしかしたら、知野先輩と会っていたことも知っているかもしれない。どちらにしろ、本当のことを湊くんが知ったら、いい顔はしないだろう。

「心配はいらない。沙耶ちゃんに似た女が男とホテルに入っていったと聞いて、湊には君がマンションにいるのか確認しただけだよ。湊は何も知らずに沙耶ちゃんの帰りを楽しみに待ってるだけの愚弟さ。君の浮気なんて想像を絶してるんだろうね」
「だから確認しに来たんですか? 私がマンションにいないと知って……」
「そういうことだよ。湊の恥は結城の恥だからな。君が軽率なことをすると、俺が毎度立ち回らなきゃいけなくなる。まあ、今日はちょうど話があったから出張ってきただけさ。ただ情報が俺の耳に入ることだけは知っておけよ」
「今日のことは……、反省します……」

 そう言わなくては秀人さんは納得しないだろう。そう思い頭を下げると、朔くんは物言いたげな目をした。私が首を横に振るのを見て、何か言うのは得策ではないとわかってくれたのか口をつぐんだ。

「わかればいい。さて本題だが、話は二つある。一つ目は着物のことだ」
「着物……?」
「そう。正月に母さんが君にあげた着物だよ。あれを始末したいと頼まれていてね。近いうちに俺のところへ持ってきてもらいたいんだ」
「始末って」

 それに頼まれたって。

 秀人さんは細かい説明を面倒臭がらないが、それは決して優しさではない。薄笑いを浮かべたまま、曇る私の表情をジッと見つめてくる。

「俺はね、父さん以外の人間に何を頼まれたって動かない主義なんだ。逆に言うと、父さんに頼まれたことはどんな理不尽なことでも引き受ける。それを完遂するのが、結城に生まれた俺の定めでね」
「着物を始末するように、お父さんが頼んだんですか?」
「正確に言うと、俺の父親がね。まるで沙耶ちゃんの父さんでもあるかのような言い方は誤解のもとだ」
「どういう……」
「それが一つ目の話だ。二つ目の話は今の話に付随する」

 秀人さんはまるで言伝さえ出来ればいいというように、私の意見に耳を傾ける気はないようだ。

「二つ目は彼も興味がある話かもしれない」

 秀人さんはそう言うと、息を飲んで私たちの話を聞いていた朔くんの肩に、手を置いた。
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