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別離までの距離
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しおりを挟むお会計を済ませて店の外へ出た私は、ひんやりとした空気に身をすくめた。
「まだまだ寒いですね」
朔くんが白い息を吐きながら、階段を降りようとする私に笑いかける。
黒いコートを着て、ブラウンのマフラーをした彼を見上げて、私はそっと手を伸ばす。
え……と、声にならない戸惑いを口に浮かべた朔くんのコートの袖についた、白い糸に触れる。
「これ、ついてた……」
見せようとしたら風に飛ばされて、朔くんは「ありがとう」と笑う。
「足元、気をつけて」
数段ある階段を降りる私に、朔くんが声をかけてくれた時、靴のかかとがカツンと階段に当たった。
「あ…」
と、バランスを崩しかけた私の右腕を、後ろから朔くんの右手がつかむ。
「さ、朔くん……」
朔くんに支えられたまま顔をあげると、近距離で彼は、「気をつけてと言ったばかりなのに」と爽やかに微笑む。
「あ、ありがとう」
背中を回る彼の腕は、私の身体にバランスを取り戻させようと、さらに私を引き寄せる。頬に触れたマフラーから、嗅ぎ慣れない雄々しい香水が匂う。
朔くんの香りなんだ。そう思ったら、なんだか胸が騒いだ。
「もう、大丈夫だよ……っ」
飛ぶように離れた私の頬はわずかに赤らんだ。変だ。こんな顔をするのは変だと、頬に手を当てる私を見て、朔くんはそっと目を細めただけ。
「沙耶ーっ、なにやってるのー?」
すでに階段を降りて私たちを待っていた純ちゃんが、「はやくー」と手を振る。
「あ、すぐ行くー」
なぜだか朔くんから逃げるように階段を降りて、純ちゃんの側に駆け寄る。
「お兄ちゃんもっ。寒いから早く帰ろー」
さらに大声をあげる純ちゃんに、「ああ」と返事した朔くんは、落ち着いた様子で階段を降りてくる。
「じゃあ、行きましょうか」
朔くんは私を促して歩き出す。その隣で、純ちゃんも軽い足取りでついていく。
二人から一歩遅れて歩き出した私の胸はまだ平静ではなかった。
どうしたんだろう、私……。
戸惑いながら、前を歩く朔くんの背中を見た時、不意に隣に人の気配がした。そちらを見て、私は息を飲む。
「浅田主任……」
「俺も今、帰り」
純ちゃんと話す朔くんは、後ろの様子に気づいてないみたいだった。その彼を見ながら、浅田主任は薄く笑みを浮かべた。
「見てたよ、さっき」
「え……」
「上條さんがあんな女の顔したの、はじめて見たな」
浅田主任は私の耳に唇を寄せ、ふっと笑った。
「階段で……彼に男を感じた?」
「ち、違います……」
すぐに否定するけど、声は小さくなる。朔くんは朔くんでしかなくて、異性として意識したことはなくて。
「別に否定することはないだろ? 結婚した後に、運命の男に出会うこともあるさ」
歩調をゆるめる浅田主任に合わせて歩く。朔くんと純ちゃんは何やら話に盛り上がっていて、まだこちらの様子に気づかない。
前を歩く二人との間には距離が出来るけど、私は小声で否定する。
「朔くんとはそんなんじゃないです……」
「彼のことだけを言ってるわけじゃないさ。いろんな出会いを知る前に結婚なんてするからそうなるのさ。いつか結城の男で良かったのかと悩む日が来る」
「湊くん以上の人なんて現れないです……」
「のろけ? その湊くんはさんざん女と遊んだ後、自分の言いなりになる清楚な君を選んだのにか? 彼がしてきたことを君がしちゃいけないなんてことはないぜ」
「一方的な話しないでください。私は湊くんならって思えたから……」
結婚を決めたのだと言いかけて、言葉を飲む。
本当にそうだっただろうか。
今は湊くんしか考えられないから、そう思うけど、あの時はどんな気持ちでいただろう。
もし見合いの相手が湊くんじゃなくて……。
視線を朔くんの背中に向けた。もし朔くんだったらと、ふとよぎる思い。
私は相手が朔くんだったとしても、同じように結婚を決めただろうか。
「見合い結婚なんだから、他に好きな男ができても君が軽薄だと悩む必要はないさ」
「私は心変わりなんてしません」
「結城にしがみつく理由もないって言ったんだよ。本気で好きな男が出来たら、君は一途に求めればいい」
「本気になれる相手と、結婚したんです……」
浅田主任はまだ何か言おうとした。だけど、朔くんが振り返ったから口をつぐんだ。
私は内心ホッとしていた。これ以上、結婚が間違っていたなんて、揺さぶられることを恐れていたのだ。
浅田主任と並んで歩く私を見て、朔くんはちょっと驚きつつも足早で戻ってくる。
「沙耶さん、こちらの方は?」
「会社の先輩なの。同じお店で飲んでたみたい」
朔くんはそうと知ると、丁寧に浅田主任に挨拶をする。礼儀正しい好青年の彼に、浅田主任も気分良く挨拶をした。
朔くんの周りには優しい空気が流れる。湊くんとは違う。けれどそれでも、私は湊くんを選んだのだ。彼が見せてくれる優しさに惹かれたから。
「浅田さんは地下鉄で帰りますか?」
「いや、タクシーで帰ろうかなと思ってるよ」
「じゃあ、途中まですみません、妹の純と一緒にお願いできますか?」
地下鉄に向かう途中にタクシー乗り場がある。
「君は?」
「俺は沙耶さんを送りますから」
浅田主任はそれを聞くと、ちょっと間をおいて提案した。
「最近この辺でひったくりがあったみたいだし、君が山口くんを駅まで送りなよ。俺が上條さんを送るから」
朔くんは眉をわずかにひそめたが、あえて浅田主任の提案に反発することはなかった。
私も朔くんと二人きりになることに、先ほどまでは感じていなかった抵抗を覚えていることに気づき、スマホを取り出した。
「私、湊くんに迎えに来てもらいます。朔くんは純ちゃんを送ってあげて」
「そんな面倒なことしなくても……」
純ちゃんは一人で大丈夫だからと言うけど、浅田主任は私の意見に賛成してくれた。
「というわけだ、山口くんはお兄さんに地下鉄まで送ってもらいなよ。俺は結城のやつが来るまで、ここで彼女と待つよ」
「沙耶さんはそれでいいですか?」
心配げな朔くんに、私は笑顔でうなずく。
「湊くんはすぐに来てくれるから大丈夫だよ」
「だそうだ。地下鉄の時間、大丈夫か? はやく帰りなよ」
浅田主任に追い立てられて、朔くんは物言いたげなまま純ちゃんと帰っていった。
二人の姿が見えなくなると、浅田主任は意味ありげに笑う。
「上條さんが警戒する相手って、どんな男?」
「急になんですか?」
「君が言ったんだよ。酔ってたから覚えてないかな? 自分にとって危険な男は本能でわかるから、俺のことは大丈夫だって」
「え、私……そんなこと?」
ちょっと驚く。そんなこと言った覚えが全然ない。
「ああ。彼のことはきっと本能で避けたんだよな。いつもの君なら、マンションまで大した距離もないのに結城の男を呼びつけるような真似はしなかったはずだ」
「……勘ぐりすぎです」
「少なくとも山口くんとやらを男として意識したってことは間違いないね」
「浅田主任はさっきから勝手すぎます」
少しだけ声がうわずった。やめて、と耳を塞ぎたくなるのはどうしてだろう。
「俺は褒めてるんだよ、君にも女らしい感情があるんだなってね。結婚相手は慎重に選ぶべきだ。もう遅いのかもしれないが、彼の存在は、本気で結城の男が好きなのか考える良い機会なんじゃないのか?」
「考えたって、気持ちは変わりません」
「意固地な考えは自分を追い詰めるだけさ。さあ、結城の男に連絡しなよ。俺も早く帰りたいところだが、こんな寒空の下、君を一人にして帰るほど薄情じゃないからな」
浅田主任は白い息を吐いて笑う。
彼は私に付き合う筋合いはないのだということに気づく。親切でここにいてくれるだけなのだ。
迷惑をかけてはいけない。私は慌てて湊くんへと電話をかけた。
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