せめて契約に愛を

つづき綴

文字の大きさ
上 下
70 / 119
別離までの距離

24

しおりを挟む
 テーブルの上に投げ出されたのは、やはり封筒だった。

「何が入ってるの?」
「君と契約しようって話さ」
「契約?」

 湊くんは足を組んだだけで、封筒を開けようとはしない。

「君と一緒にいるためには、いつも契約しないといけないようだね」
「契約書でも入ってるの?」
「ああ。俺と契約する気があるなら開けてみろよ」
「契約って……、どんな?」
「開けてみればわかる」

 湊くんと封筒をしばらく交互に見ていたが、彼が何も言わないから封筒に手を伸ばした。

 薄い紙が入っているだけの封筒のように思う。そっと指を入れ、その紙を引っ張り出して息を飲む。

「無効にされてしまうかもしれないが、ないよりはマシだ。これで俺たちは夫婦になれる」
「婚姻届……?」

 実際に見るのは初めてだ。薄っぺらいのに、それは私の手のひらにずしりとした重さを覚えさせる。

 まだ何も書き込まれていない婚姻届を見下ろす私から、不意に湊くんは取り上げる。

「明日には出そう」
「湊くんのお父さんが反対できないような、既成事実を作ろうっていうの?」
「それしか方法はないと思ってる」
「本当にそう思ってるの?」

 湊くんは婚姻届をテーブルに戻すと、手を重ねてくる。
 先ほど見せた怒りを隠して、彼は優しい目をする。

「沙耶が承諾してくれるなら、全てうまくいくよ」

 私はそっと目を伏せた。彼の表情が曇ったことにも気づけない。

「……できないよ」
「できない?」
「こんなことしたって、幸せな結婚生活は送れないよ」
「これは俺たちが別れずに済む方法だ。幸せになれるかどうかの話じゃない」
「どういう意味?」

 固くなる私の表情に、湊くんもまた隠しきれない怒りをちらつかせる。

「君と論じる時間はないよ」
「湊くんは一緒にいられたらそれでいいの? お父さんに反対されたまま、いつ別れさせられるかわからない不安を抱えたまま暮らすの?」
「別れるよりはマシだ」
「私はもっと違う方法で解決したいよ。ダメでも……、お父さんに認めてもらえる努力をしたい」
「ダメでも? ダメだったら? 明日にでも別れさせられるかもしれないのに? 君の言ってることはバカげてるよ」

 湊くんの温かい手を握り返す。思いは同じはずなのに、私たちはどこかすれ違う。

 ただ、祝福された結婚をしたいと思うだけなのに。
 反対されたままでは、いくら結婚しても幸せになれるとは思えないと伝えたいだけなのに。

「ダメだったら……仕方ないじゃない」

 言葉が足らなかったかもしれない。でもそれは本心だ。
 認めてもらえないなら、湊くんの人生そのものが不幸になる。だったら私はいさぎよく身を引くしかないのに。

「なんだよ、それ」

 湊くんの言葉は針のように鋭く、氷のように冷たくて。

「父さんが納得しないなら別れも仕方ないって?」

 怒りを高ぶらせる湊くんを見つめ、私は頼りなくうなずく。

「沙耶はその程度の気持ちなのかもしれないが」
「その程度じゃないよ……。でも仕方ないこともあるよ」
「俺と結婚したと聞かされて、君は仕方なくここで暮らすことにしたんだったな。全部仕方ないから受け入れたのかよ。いざとなれば、朔がいるから? 俺と別れたって次の男がいるから構わないって?」
「湊くん、そんなこと言ってないよ。朔くんの話が出るのもおかしいよ」

 何を誤解してるんだろう。そんな話、してないに。

「何もおかしくないよ。君は今はっきりそう言ったんだ。俺は仕方ないなんて言葉で割り切れない」
「……湊くん」
「それなのに君は別れることも考えてる。真剣じゃないからそんなことが言えるんだよ」
「そうじゃないよ……」

 真剣じゃないなんて思って欲しくないのに。怒りで声を震わせる彼に、私の声がうまく届かない。

「そうだよ。君は最初から俺との結婚に納得してなかった」
「それはそうだよ。いきなり結婚したって聞かされて、ここで暮らすことになって……。私の意思なんて関係なかったじゃない」
「だから仕方なく俺を好きになったふりをした?」
「……ふり?」
「もし相手が俺じゃなくても、君は同じように受け入れたんだろ」
「それは……」

 否定できない気がした。
 もし相手が朔くんだったら、と考えたのはつい最近のことだ。
 朔くんでなくても、もっと違う男の人が相手だったとしても、私は断ることをしなかっただろうか。

「ほら、君は素直だ。嫌味なほどにね」

 何も言えなくて、私は押し黙る。

 始まりはそうだったかもしれないけれど、今はこんなにも湊くんが好きなのに。その気持ちの半分も、彼には理解してもらえないのだ。

「都合悪くなると黙るのか……」

 途方にくれた顔で彼を見上げる。何をどう話したら、私たちは分かり合えるのだろう。

 湊くんは眉間に指をあて、下を向いたまま苦しげに息をついた。

「君は、最低だな」
しおりを挟む

処理中です...